21.歴史はミステリー(その16) −南北朝の内乱
(1)「戦乱」に明け暮れた「太平」の世紀
●禁断の歴史領域
日本の歴史の中でも、南北朝から応仁の乱あたりまでが、最もナゾの多い時代である。それにはいろいろな理由がある。まず乱世であるために、きちんとした史料が極度に少ない。
その史料が乏しい戦乱の世紀を叙述する貴重な資料の一つに、なんと「太平記」という不思議な表題がつけられている。この戦乱に明け暮れた世紀の史料が、なぜ「太平の記録」なのか? これも多くの研究者を悩ますナゾの一つであった。
さらにこの時代の客観的な分析を難しくしている主要な原因は、この戦乱が皇統の分裂から起こっていることにある。そのため戦前において皇統の混乱の歴史を扱うことは、極度にタブーとされる領域であった。
戦後においても、それが極めてデリケートな領域である事に変わりはなく、多くの歴史研究者にとっては、できるだけ触れたくない歴史領域であった。
●なぜ戦乱の時代の物語が『太平記』なのか?
日本歴史の中でも最も激しい戦乱が打ち続いた時代を叙述した戦記が、なぜ『太平記』なのか? という疑問は、重大なナゾの筆頭に上げられる。
その回答は、太平記の「序」にある、と私は思う。
そこには、古今の社会変動を見るとき、戦争と平和に時代を分ける原因は、「天の徳」にあり、君主がこれを体して国家を保んずることが『地の道』である、と述べられている。
そして良い家臣たちは、それにそって国を護るので、君主に『天の徳』が欠けていると、「位あるといえども、もたず」と書かれており、夏の桀王、殷の紂王の例が挙げられている。
それは孟子における『易姓革命』の論理である。この論理は儒教的な正論ではあるが、南北朝の内乱を「革命」として捉える見解は、戦前の日本においては解説することすら憚られたものである。
大正元年に博文館から発行された「国文叢書」の2冊本の「太平記」は、大部の漢文からなる原本を、やさしく読み下した名著である。しかし、この肝心の「序」の部分は原文のまま残されていて、読み下し文も掲載されていない。
この短文で簡潔に書かれた「序」の漢文の内容は、かなり難解である。それを普通の人が原文で読み解くのは難しい。
この序文が抜けた「太平記」の世界は、おぞましい戦乱をかなりレアルに描写した表現に溢れている。この序文が欠如したことから、戦乱の記録が、何故、「太平の記録」なのか? 全く分からなくなった。
そしてそれは大きなナゾとして残されて、現在に至っている、と私は思う。
そこでここに其の序の、原文、読み下し文、現代語訳を掲載するので、心ある人はナゾときに挑まれるとよい。なお、読み下し、現代語訳は私流である。
●「太平記」の序
<原文>
蒙竊採古今之変化。 察安危之来由。 覆而無外天之徳也。
明君体之保国家。 載而無棄地之道也。 良臣則之守社稷。
若夫其徳缺則雖有位不侍。 所謂夏桀走南巣。 殷紂敗牧野。
其道違則雖有威不久。 曾聴趙高刑咸陽。 禄山亡鳳翔。
是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。
<読み下し文>
蒙、ひそかに古今の変化を採りて、安危の来由をみるに、覆いて外なきは天の徳なり。
明君は、これを体して国家を保つ。載せて棄つること無きは地の道なり。良臣はこれに則りて、社稷を守る。
もしそれその徳、缺くるときは、位ありといえども持たず。いわゆる夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗る。
その道違えば、則ち威有りといえども、久しからず。かって聞く、趙高は咸陽に刑し、禄山は鳳翔に亡ず。
これをもって、前聖慎みて、法を将来に垂るることを得たり。後昆、顧みて誡を既往に取らざらんや。
<現代語訳>
私なりに昔から今にいたる世の移り変わりを取り上げて、平和な時代と戦争の時代の原因を考えてみますと、すべては天の徳により決まるものであります。
優れた君主はこのことをわきまえて、国を治めます。ここで大事に守るのが地の道です。優れた家臣は、この道に則り国のまつりごとを守ります。
もしこの徳が欠けて居る場合には、位階が高くてもその位を維持することは出来ません。世にいわれるように、夏の桀王は、南巣の地に逃げ去り、殷の紂王は、牧野での戦いに破れたのは天の徳が失われたからです。
この地の道を違えると、権力があってもそれを長く維持することはできません。秦の趙高は、咸陽の地で刑死し、唐の安禄山は、鳳翔で滅んだといわれます。
このような理由から、前代の聖人は、身を慎んで、人の守るべき道を後世に教えさとしました。後世の我々は歴史を振り返って、過去の教訓を守るべきではないでしょうか!
太平記の著者である小島法師という人がどのような人物であるかは、よく分からないが、この序文は南北朝の動乱に対する厳しい批判である。つまり動乱の時代に太平記という表題をつけたのは、著者による大変な皮肉であったと考えられる。
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