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日本人の思想とこころ
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  (4)建武中興

●建武の新政
 後醍醐天皇による建武の新政は、後鳥羽上皇以来、公家が理想としてきた倒幕による天皇親政を実現することにあった。後醍醐天皇は、延喜、天暦の治を理想として、鎌倉時代の公武2本建てを公家1本立ての政治に改め、記録所を復活し、雑訴決断所、武者所を新設。国司、守護を併置して地方行政に当たらせた。
 そして翌1334年に、元号を元弘から建武に改元し、紙幣を発行し、内裏の造営に着手した。しかしこの公家中心の新政は当然、武士層の強い反発を招く事は必定であった。

●太平記の未来記
 太平記には、いくつかの未来記に関する話が現われる。その未来記には、当然、元弘の乱と建武の新政への期待と批判が含まれており面白い。その一つに、楠木正成が、聖徳太子ゆかりの寺の四天王寺において見せられた、聖徳太子の未来記がある。(巻六)

 元弘2(1332)年8月3日、楠木正成は、住吉に参詣し、その翌日、四天王寺に参詣した。そこで聖徳太子が、昔、書き残されたという日本の未来記なるものを見せてもらった。その中に次のようなナゾの一文があった。
  
  (書き下ろし文)
  人王九十五代に当たりて、天下ひとたび乱れて、主、安からず、
  このとき、東魚来たりて、四海を呑む。 日、西天に没すること三百七十余か日、
  西鳥来たりて、東魚を食らう。
  その後、海内帰すること、一に三年、●猴の如き者、
  天下を掠むること三十余年、大凶変じて一元に帰す、云々。
  
  (原文)  
  当人王九十五代    天下一乱而主不安
  此時東魚来呑四海  日没西天三百七十余箇日
  西鳥来食東魚     其後海内帰一三年
  如●猴者掠天下三十余年  大凶変帰一元
  云々
  
  (訳文)
  人皇・第95代のとき、天下は乱れて、天皇の地位は安泰ではなくなる。
  このとき東の魚が四海を飲み込み、天皇の権力は370日余にわたり失われる。
  そこで西の鳥が東の魚を食べてしまい、その後、3年の間、世の中は治まる。
  そこへサルのような者が現われて、天下を30余年にわたりわがものとする。
  そしてこの大凶変は、一つに統一されて終わる。

 この未来記は、「野馬台詩」のような超未来に対する予言ではなく、現実にそこに起こっている南北朝の内乱の行方に関するものである。しかしそれは、実際に起こった南北朝の内乱の歴史と非常に合致していて驚かされる。

 予言では、登場人物の固有名詞を入れていないので、ここでそれを推定して入れてみて、予言文を書き変えてみると、次のようになる。

  (固有名詞を入れた予言の解釈)
 第95代・後醍醐天皇の時代(*)になり、天下が乱れて、天皇制は安泰ではなくなってくる。 このようなときに、鎌倉幕府には相模入道・北条高時が立って日本を支配する。そのため朝廷の勢力は、370余日にわたり失われる。
 
 このとき西で楠木正成が兵を起こして幕府と戦い、3年間、国内は統一される。
 しかしサルのようなもの(=足利尊氏)が、天下を30余年にわたり略取し、その後、この大凶変(=南北朝の対立・抗争)は、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に大政が移譲され、皇統は一本化されて事件は終焉する。
 
 太平記の言葉を借りれば、「文質三統の礼変、少しも違わざりけるは、不思議なりし●文なり」といわれるほど、この予言と現実はぴったり合っていて驚くばかりである。
  (*)この当時の天皇の代数では、95代は後醍醐天皇になる。しかし太平記自身は、95代を花園天皇としており、その場合でも十分にこの予言は成立する。

●中興政治の失敗
 建武中興により公家階級は、武士たちが築いてきた富を一挙に奪い返そうとした。太平記は「王城の富、日頃に百倍せり」といっているほどである。
 
 その結果、「五十余箇国の守護・国司・国々の闕所、大庄をば、悉く公家被官の人々拝領しける間、陶朱が富貴に誇り、鄭白が衣食に飽けり」といわれるほどになり、公家たちは日夜遊宴にふけり、全く有頂天の有様になった。

 また中央政治には賄賂や縁故が横行し、朝礼暮改の有様となり、天下の士民は生命財産の安全も守れなくなった。そして再び、武家政治を思慕するようになった。(田中義成『南北朝時代史』講談社学術文庫、114頁)






 
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