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  (4)日蓮の未来記「立正安国論」

● 日蓮の未来記の背景
 日蓮の未来記「立正安国論」の背景をなすものは、法華経を中心にした仏教世界の未来記である。ちなみに日蓮における法華経は、釈迦入滅後の経典であり、その経文に照らして歴史を照見するための鏡と考えていたようである。
 したがって、日蓮の未来記は、基本的には、法華経を中心にした仏典の記述と現実との照合により造られている。

 まず日蓮の思想に影響を与えた仏典の一つの大集経を見ると、そこでは釈迦入滅後における正法、像法、末法の時代展開を、更に次のように分けている。(宮井義雄「日本の中世思想」成甲書房、412頁)
 (1)釈迦入滅後の500年 解脱堅固(正法)
 (2)その後の500年    禅定堅固(正法) 
 (3)その後の500年    読誦多聞堅固(像法)
 (4)その後の500年    多造塔寺堅固(像法)
 (5)その後の500年    闘諍言訟し、白法陰没のとき(末法)

  この最後の段階(5)が末法の時代であり、日蓮はこの「白法陰没の時代」を当世と考えた。日蓮思想のオリジナリティは、この白法陰没の後に、法華経の肝心なる南無妙法蓮華経の大白法が広宣流布される時代が来ると考えることにある。
 それは法華経第7にある、「我れ滅度の後、500歳の中、広宣流布す。閻浮提において、断絶なからしむ」という言葉が、その証拠であるとされる。つまり末法の時代から正法の時代に戻すことが可能であると、日蓮は考えていることである。

 法然と日蓮の思想には、非常に共通している部分と、全く正反対の部分がある。
 その共通点は、当世が末法の時代に入ったとする認識であり、そこでは全く見解は一致している。しかしこの末法の時代への対応については、全く正反対になり、日蓮が法然を邪法として徹底して排斥する理由もそこにある。

 法然の末法の世界においては、衆生には思考能力や自己開発の能力はなく、現世において修行により救われる道はない。そのために、現世における衆生の修行は、口承念仏一本やりの易行にしぼり、来世に弥陀の他力本願により西方浄土に生まれることが、衆生に残された唯一の道であると考える。
 つまり現世の救済は、死後に浄土を求め極楽に往生する安心に置き換えられる。

 これに対して日蓮の場合は、同じ末法の世にあっても凡夫の救済を西方浄土には求めず、凡夫による娑婆の浄土化を呼びかける点に大きな違いがある。つまりそこでは仏教の目的として、現世利益の実現に徹する立場がとられている。

 日蓮は「涅槃経」などを引いていう。「法華経修行の者の、所在の処を浄土と思うべし。何ぞ煩はしく他処を求めんや」(守護国家論)。娑婆の現状は穢土であるとしても、その本質が浄土であるとすれば、凡夫も協力して娑婆を仏国土にする事ができると考えた。
 この理念を実現する運動こそが、「立正安国」(=法華経による正法を建立し、国家を安泰ならしむこと)であるとする。

●立正安国論の成立 
 日蓮は、文応元(1260)年7月16日、「立正安国論」を宿屋光則の手をへて前執権・北条時頼に上進した。宿屋光則は、時頼の7近臣の1人であり、その子の時宗にも信任の厚かった人物である。日蓮に深く帰依し、そのため自宅をすて寺としたといわれる。

 時の執権は、北条長時であり、その父・北条重時は、極楽寺入道といわれて、日蓮が激しく対立する念仏宗に深く帰依しており、極楽寺を建立した人物である。そのため日蓮の建言書も時の執権への提出をはばかり、前の執権ではあるが、依然として政治的実権を保有していた時頼に提出されたと思われる。

 建言の結果は、日蓮にとって極めて不本意なものであった。その建言は無視されたばかりか、むしろ不穏な振る舞いとして憎悪され、密かに日蓮の暗殺がたくらまれた。
 上進から40日目の8月27日夜、念仏者を使って、松葉が谷の草庵が襲撃され、焼き討ちされた。日蓮は下総中山へ逃れたが、翌年には、伊豆へ流罪になった。
 これらの法難の首謀者は、念仏宗に帰依する極楽寺入道重時であったとされる。(清水龍山「立正安国論講義」、17頁)

 ちなみに「立正安国論」の数年前からの大事件を上げてみる。
 1254年(建長6)    1月、鎌倉で強風の中,大火、数百件焼く。
               7月、20年ぶりの台風、大被害、9月、大雨、洪水
 1255年(建長7)     興福寺衆徒、東大寺房舎を焼く。
 1256年(建長8-康元元年) 執権が時頼から長時に代わる。
               2月洪水、3月大火事、8月大雨、洪水、山崩れ
               9月伝染病
 1257年(康元2-正嘉元年) 8月、鎌倉大地震起こる
 1258年(正嘉2)    1月大火、8月大風、大流星出現、群盗、諸国に
               蜂起する
 1259年(正嘉2-正元元年)諸国に飢饉、疫病発生.死者多数。
 1260年(正元2-文応元年)3月大地震、6月台風、山崩れ、7月、立正安
                国論を時頼に上申。

 上記の立正安国論の上申に先立つ数年間の事件を見ると、いかに社会全体が騒然とした状態に置かれていたかが分かるであろう。
 日蓮の立正安国論の論理は、これらの災害の発生は正法が衰え、邪法が栄えていることに根本原因があるとする。邪法が栄えれば、民心が歪み、悪鬼がはびこるようになり、そのために自然災害や戦乱が起こると考えるのである。
 
 したがって、このような状態から脱却するためには、まず法華経に基づく正法を普及する事であると考える。
 そうすれば曲がった民心は直になり、善神が力を得て、天地は清寧になり、国の内外は平穏に治まるようになると考える。

 日蓮によれば、当面する天変地異や予想される戦乱の原因は、後鳥羽院の時代に法然が「選択集」を作って、正教を犯して、念仏宗により遍く衆生を惑わすようになったことによるものであると考える。
 しかも残る大災難である内乱と外国からの侵略が近づきつつある。一刻も早く、念仏宗を止めさせて、災いの元を断っていただきたいというのが「立正安国論」の建言の論旨であった。

●立正安国論の内容
 文応元年(1260)に書かれた日蓮の主著「立正安国論」は、主人と客人の間で交わされる十の対話から構成されている。
 そこでの主人は僧であり、おそらくは日蓮その人である。また客人は俗人であり、おそらくは密かに時の執権・北条時頼などを想定して問答する形式がとられている。

 対話は、まず天変地異が天下に満ちあふれ、地上にはびこり、町は人畜の死屍が累々としており、そのことを皆が悲しんでいるという客人の嘆きから始まる。
 それに対して主人は、これらの災害の発生は、「世皆正に背き、人悉く悪に帰す」こと、つまり世の中が法華経の正しい教えに背き、人々が皆悪に帰した結果であるという。
  
 日蓮は、正嘉2(1258)年、駿河の岩本に行き、実相寺の経蔵にこもり、中国から伝来した経典の中から大災害の原因を書いた経典を探し出し、あしかけ2年をかけて、『三災七難』について書いた経典を探し出した。
 このいろいろな仏典の記述は、「立正安国論」の中で詳しく紹介されている。

 ▲仏典が予想する災難とは?
 薬師経では、次の7つの災難が挙げられている。
  (1) 人衆疾疫の難 (悪疫が流行する災難)
  (2) 他国侵逼(ぴつ)の難 (他国から侵略される災難)
  (3) 自界叛逆の難 (内乱による災難)
  (4) 星霜変怪の難 (気候の異変による災難)
  (5) 日月薄蝕の難 (日蝕、月食による災難)
  (6) 非時風雨の難 (時ならぬ風雨による災難)
  (7) 過時不雨の難 (旱魃が続いたことによる災難)
 この7つの災難のうち、5難は既に起こったが、(2)、(3)の2つの難が、未だ残っていると日蓮はいう。

 また大集経では、次の3つの不祥事を挙げている。
  (1) 物価の騰貴(穀物の価格が騰貴すること)
  (2) 戦争の発生(戦争がおこること)
  (3) 疫病の流行(疫病がはやること)
 このうち、2つは起こったが、(2)の難が残っている。

 また金光明経には、いろいろな災難が上げられているが、外国の軍隊の侵入が未だ起こっていない。
 仁王経は7難を上げているが、外国軍の進入の1難が未だ残っている。

 このように見てくると、正法が滅びるときおこる災難として仏典が予想している難の中で、未だ起こっていない災難は次の2つである、と日蓮は「立正安国論」の中でいう。
   (1) 「他国侵逼(しんぴつ)の難」 (外国からの侵略)
   (2) 「自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難」 (内乱)

 ▲保元、平治、源平合戦、承久の乱は、「内乱」ではなかったのか?
 日蓮が生まれたのは「承久の乱」(1221)の翌年である。それは朝廷と幕府が全面的な武力衝突になった大乱である。しかもそれにいたるまでに保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、源平の合戦(1180−1185)など、国内の戦争がいくつも起こっている。
 ここでフシギなことは、日蓮は、なぜこの国内の大乱を「自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難」 (内乱)と認識しなかったのであろうか?

 「立正安国論」の中にはその理由は述べられていない。日蓮も源平の合戦や承久の乱を空前絶後の『内乱』と考えていたようである。しかしそれらが予想される「自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難」 (内乱)とは考えず、建言書において起こるべき内乱から除外した理由は、それら過去の内乱の原因は、真言の邪法によるものと考えたことによるといわれる。(cf 清水龍山「立正安国論講義」52頁、大蔵経講座)
 
 つまり日蓮は、「立正安国論」において危惧する外国からの侵略と内乱は、念仏宗の邪法により引き起こされる災難であり、その意味から予想される内乱は、それから70年後におこる南北朝の内乱にあったようである。
 その南北朝の内乱の兆候は、日蓮により「立正安国論」が建言されたときに、既にはっきり現われていた。

 日蓮の「立正安国論」の建言が行なわれた正元2(1260)年の正月17日、時の上皇・後嵯峨院の仙洞御所に落書きがあり、その中に、凶事、災難の原因は「当世両院アリ」とし、もはや「聖運ステニスエニアリ」と書かれていた。この落書きは、短い文章で見事に院政内部の対立を風刺している。
 朝廷,幕府ともに内乱前夜の状況にあり、『百王百代』の残りは少なくなり、まさに「聖運ステニスエニアリ」と予言される状態にあった






 
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