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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方

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21.歴史はミステリー(その16) −南北朝の内乱
22.歴史はミステリー(その17) −足利将軍たちの栄光と凋落
23.歴史はミステリー(その18) −応仁の乱と中世の終焉

24.歴史はミステリー(その19) −キリスト教伝来
(1)黄金の国 −ジパング
(2)ザビエルとフロイスの日本
(3)キリスト教布教の成功と弾圧の始まり 1
(3)キリスト教布教の成功と弾圧の始まり 2

25.歴史はミステリー(その20) −倭寇とその歴史
26.歴史はミステリー(その21) −日本歴史のフシギ空間
27.歴史はミステリー(その22) −日本の早期儒学を考える
28.歴史はミステリー(その23) −儒学から見た日本思想
29.歴史はミステリー(その24) −幕末の長州と尊王倒幕思想
30.歴史はミステリー(その25) −幕末の薩摩藩と尊王倒幕
 
  24.歴史はミステリー(その19) −キリスト教伝来

(1)黄金の国 −ジパング
●マルコ・ポーロと東方見聞録
 11-12世紀頃における世界商業の中心地はイタリアにあった。13世紀頃におけるイタリアの商業都市では、ベニス、ピサ、ジェノアの3都市が最も活躍していた。
 これら中世の諸都市は、十数回に及ぶ十字軍の遠征により発展し、それ以前に東ローマ帝国が持っていた東西貿易の商圏を奪ってしまった。
 その筆頭をなしたのがベニスであった。そのことはシェイクスピアの「ベニスの商人」からも分かる。このベニスの商業的地位が少し衰えを見せ始めた13世紀中葉の1254年に、マルコ・ポーロはベニスの貿易商人ニコロ・ポーロの子として生まれた。

 彼の家系についての詳しいことはわかっていないが、ヨーロッパからシルク・ロードを経て中国にいたる広域で活動する貿易商であった。そのことは、父のニコロと叔父のマフエオが、フビライ・ハーンからローマ法王への使節の役割をしたことからも分かる。

 1269年、ニコロとマフエオは、モンゴル王・フビライ・ハーンからローマ法王への使節として、ベニスへ帰ってきた。このときフビライ・ハーンは、ローマ法王にキリスト教の宣教師を100人、モンゴルに派遣してほしいと要請してきたといわれる。
 翌1270年の年末、ニコロとマフエオは、今回は青年マルコ・ポーロをつれてベニスを出発し、再び中国へ向った。
 翌71年には、ローマ法王のグレゴリオ10世が即位しており、中国ではフビライが国号をモンゴルから元に改めた。

 マルコ・ポーロは、元帝国において世祖フビライ・ハーンに11年のあいだ仕え、1290年に泉州を出帆して、ベニスへ海路帰国の途についた。
 そして帰国後、マルコ・ポーロはジェノアとの戦争に参加して捕虜となり、その獄中でマルコ・ポーロが口述した内容を、同じ捕虜仲間でピサの物語作家であったルスチケロという人物が筆記したものが、有名な「東方見聞録」である。

 その内容は2部にわかれており、第1部はニコロとマフエオの東方旅行の概要であり、第2部は旅行中の見聞を旅行の順序に従って記述した地理書からなる。

 この「東方見聞録」において、マルコ・ポーロが特に力を入れて紹介しているのは、次のようなものである。
  (1) フビライ・ハーンの関係事項 −豪華な宮廷生活や狩猟
  (2) 首都ハンバリク(=元代の大都:北京?)の状況
  (3) 元帝国の制度
  (4) ハーンの領土のカタイとマンジの巨大な富
  (5) 黄金の島・日本のこと

 マルコ・ポーロは、日本の事をチパング(Zipangu)と呼んでいる。驚くべきことに、このマルコ・ポーロの記事によって、日本についての情報は初めてヨーロッパに伝えられた。現在の中国語では、日本国を「ジ・パン・クオ」というから、マルコ・ポーロの日本は、将に「日本国」を中国的に発音したものであった。

 このチパングの記事の中で、日本には黄金が無尽蔵にある。しかし、国王が輸出を禁じており、大陸から遠いため商人もあまりこの国を訪れない、そのため黄金は想像できぬほど豊富である、と紹介されている。

 この島の支配者の豪華な宮殿では、ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛で葺かれているように、宮殿の屋根がすべて黄金で葺かれている。その価格はとても評価できないほどである、と記されている。
 宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように厚さ4センチの純金の板が敷きつめられている。その上、窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは全く想像の範囲を超えている、というお伽噺のような風景が見てきたように書かれている。

 バラ色の真珠も大量に取れる。それは美しくて大きく、丸くて白真珠と同様に、高価なものである。この国では死体は土葬もしくは火葬にされ、土葬にするときは、真珠を口にいれる習慣になっている。その他の宝石も多い。

 マルコ・ポーロは東方見聞録のなかで、大フビライ・ハーンが、マルコ・ポーロからこの島の極めて富裕な事を聞いて日本の占領計画をたてたこと、そのため、大艦隊と歩兵、騎兵の大軍を授けて、アラハンと范文虎という2人の貴族を派遣し、弘安4(1281)年の元の日本攻撃になったと述べている。
 一体、このマルコ・ポーロのお伽噺の出典は、どこにあったのであろうか?

 最後に、このチパングでは、ほかのインド諸島と同様に、敵の捕虜は身代金が支払われない場合には、親戚、知人を集めて殺して食べてしまうと述べられている。これらのマルコ・ポーロの記述は極めて荒唐無稽であり、このようなことをフビライ・ハーンの前で陳述すれば、朝廷の失笑を買うだけであったと思われる。

 その意味から、マルコ・ポーロのこの大ボラ話しは、おそらくヨーロッパの読者向けに面白おかしく書かれたものと思われるが、一体、なぜそのようなでたらめ話が出版されるにいたったのか? その動機や理由はきわめて興味が持たれる。

 いずれにしてもこのホラ話を本当に信じて、「ジパング」を目指したヨーロッパの冒険者が少なからずいた。その1人がジェノバ出身のコロンブスである。でも残念?ながら、彼が発見したのはジパングではなく、アメリカ大陸であった。
 そしてジパング発見の栄光はポルトガルの上に輝くことになった。
  (参考文献)青木富太郎「黄金の国ジパング −マルコ・ポーロ伝」国土社
        同氏訳「マルコ・ポーロ東方見聞録」社会思想社

●イエズス会の創設とザビエルの訪日
 8月15日は、日本に関する世界史的な大事件の特異日のように思われる。
 最近では、日本の敗戦記念日がそれである。またニクソン大統領が、突然、金・ドルの交換停止を発表して、世界金融危機の出発点になったのも、1971年8月15日のことであった。

 ここで述べる8月15日は、400年も前の古い話であるが、この日に日本に重大な影響を齎す事件が2度も起こった。
 実は、キリスト教では、8月15日は聖母マリア昇天の祝日になる
 第1の事件は、1534年の8月15日に起こった。この日、バスク地方出身のスペイン貴族イグナチウス・デ・ロヨラと、同じくバスク地方にあるナバラ王国のハビエル城に生まれたスペインの宣教師・フランシスコ・ザビエルなど7名が、フランスはパリのモンマルトルで、イエズス会(耶祖会)の旗揚げを行なった。

 イエズス会とは、新教に対抗して旧教の発展をはかるために、同志7名で男子修道会を結成したものであり、同会で彼らは、清貧、童貞、外国伝道、異端折伏などを誓った。
 そしてこのイエズス会が、日本へキリスト教を導入する先駆者となった
 イエズス会総長のイグナチウス・デ・ロヨラは、1540年、フランシスコ・ザビエルにインド伝道を命じた。そのザビエルは1547年、マラッカの教会において日本人のやじろう(または、あんじろう)と会い、黄金の国ジパングに関心をもつようになり、日本伝道の意思を固めた。

 当時、新航路、新大陸の発見が次々に行なわれており、15-16世紀には、世界は大航海時代を迎えていた。そこでインド経由の東方航路においてはポルトガルが、また、メキシコ経由の西方航路においてはスペインが、共にアジアを目指していた。
 日本はスペインとポルトガルの東西航路のちょうど終点の位置にあった。日本への一番乗りはポルトガル人であり、天文12(1543)年、2名のポルトガル商人(フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・デ・モタ)が、中国人の大型ジャンク船で種子島に漂着した。
 彼らはヨーロッパ式の新式銃をもってきており、日本の戦国武将の間にあっという間に広まることになった。これが所謂、鉄砲の伝来として知られる事件である。
 
 当時、スペインとポルトガルによる世界航路の開拓競争が激化していた。1492年のコロンブスによるアメリカ発見から、その対立はさらに激化した。
 そこで1493年5月3日と1494年6月7日、教皇アレクサンドル6世は、スペインとポルトガルの活動に明確な境界線を引くことにより、両国の紛争を避ける仲裁を行なった。
 しかし、この境界線は大西洋では明確に引かれたものの、地球の裏側の事情はよく分からないため、日本では両国の境界線が丁度、日本の真上を通ることになった

 かくて第2の8.15事件が起こる。天文18(1549)年8月15日の聖母マリア昇天の日、これはイエズス会創立15周年の日でもあるが、ザビエル、トルレス、フェルナンデス、やじろう、など、イエズス会の一行8人が鹿児島へ着いた

 厄介なことにこの8月15日は、日本暦と西洋暦が全く異なるため、日本暦では天文18年7月3日のことである。スペイン、ポルトガルの事情など全く知らない鹿児島城主島津貴久は、一行を歓迎して、早速、キリスト教の伝道を許可した。






 
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