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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方

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21.歴史はミステリー(その16) −南北朝の内乱
22.歴史はミステリー(その17) −足利将軍たちの栄光と凋落
23.歴史はミステリー(その18) −応仁の乱と中世の終焉
24.歴史はミステリー(その19) −キリスト教伝来

25.歴史はミステリー(その20) −倭寇とその歴史
(1)倭寇とは?
(2)14-15世紀の倭寇
(3)16世紀における後期倭寇
(4)壬辰倭乱―秀吉の朝鮮出兵
(5)老人性神経症に悩まされた?−晩年の秀吉

26.歴史はミステリー(その21) −日本歴史のフシギ空間
27.歴史はミステリー(その22) −日本の早期儒学を考える
28.歴史はミステリー(その23) −儒学から見た日本思想
29.歴史はミステリー(その24) −幕末の長州と尊王倒幕思想
30.歴史はミステリー(その25) −幕末の薩摩藩と尊王倒幕
 
  25.歴史はミステリー(その20) −倭寇とその歴史

(1)倭寇とは?
 中国や朝鮮半島の人々と日本人の間では、従来、歴史認識の違いがたびたび問題にされてきた。しかも、それは昨日・今日に始まったことではない。
 実は、それは千年以上にわたって存在してきた。そのように歴史認識を異にする国際的な問題は、日本の歴史学者の多くに敬遠される傾向がある。そのため、問題の多い分野ほど、どうしても解明が遅れるきらいがある。
 その一例が、日本人の朝鮮半島や中国大陸への武力侵入、たとえば「倭寇」の問題である。

 日本史で取り上げられる狭義の「倭寇」は、「元寇」の前後から始まり、14世紀の南北朝時代から15-16世紀の戦国時代にかけて見られるものをいう。
 しかし、広義の「倭寇」は、神功皇后、応神天皇の頃から始まり、南北朝、戦国時代から豊臣秀吉の文禄、慶長の役をへて、さらには明治から太平洋戦争にいたる超長期の日本、朝鮮、中国の国際関係全体に及ぶことになる。

 「倭」という言葉は、本来、南朝鮮から日本列島を含む地域に居住する人々に対し、古代において使用された差別用語である。そのため、この言葉を嫌った日本は、7世紀の中葉に、国として「倭」をやめて「日本」と呼ぶことを宣言した。
 このことは、5.歴史はミステリー(その1) −日本はいつから「日本」になった?で詳しく述べた。

 しかし、それから数百年をへた時点で再び使用されたこの「倭寇」という言葉は、当然、被害を受けた朝鮮、中国の人々により付けられた言葉である。ところがフシギなことに、朝鮮、中国に侵攻した「倭人」の多くは、実は、日本人よりも大陸系の海賊が多かったことが朝鮮、中国の人々によっても認められている。

 日本人の歴史関係者は、「倭寇」の大部分は日本人を装った大陸系の海賊ではないか!と言いたいし、そのことは朝鮮、中国の学者からも認められている。
 ところが、厄介なことに、その後、豊臣秀吉が文禄、慶長の役により朝鮮半島に侵攻を開始した。これは日本が国家として「倭寇」に手をそめたことであり、もはや弁解の余地はなくなる。

 足軽から関白,太政大臣にまで出世した豊臣秀吉を主人公とする太閤記は、日本人お気に入りの物語の一つである。その証拠に、NHKが「大河ドラマ」において、飽きもせず、何度も「太閤記」を作家や俳優を代えてドラマ化してきた。
 しかし秀吉の話の中で、朝鮮出兵は最も人気のない部分である。そのため朝鮮出兵がまともに描かれたことが殆んどない。
 忠臣蔵と並んで、そのドラマ化は必ずヒットするという太閤記も、朝鮮出兵の部分だけは最も人気がでない部分で、通常は避けて通る場合が多い。
 そのために日本人の殆んど大多数は、朝鮮出兵の実体を全く知らない
 
 日本人の多くは秀吉が足軽であった頃、織田信長の草履を胸に抱えて暖めていた、などと大変細かい話まで知っている。その日本国民が、秀吉による日朝戦争という大事件について、殆んど知らないのは、考えてみると非常に不思議なことである
 今回は、それらの事情も考えてみたい。

●「倭寇」の意味は?
 倭寇とは、たとえば「倭寇金州」(高麗史:倭人、金州に侵攻す)とういう漢文の文章から、金州などという固有名詞を省略して「倭人が侵攻した」という部分のみを独立のフレーズにした言葉である。

 日本人の朝鮮半島への侵攻の歴史は古く、4世紀以前にさかのぼる。しかしその頃、日本には文字による記録がなかったため、記紀の紀年別の記述について殆んど信頼が置けない。
 そのために、紀年が明確に確認できる史料としては、414年に作られた高句麗の広開土王陵碑文などが最も古いものになる。
 この碑文の中に、倭国の兵が、辛卯の年(391)に大挙して海を渡り朝鮮半島に侵攻し、百済、新羅を破り、臣とした、という記述がある。
 さらに、この碑文の404年条に「倭寇潰敗、斬殺無数」という記述があり、言葉としての「倭寇」は、ここに登場してきている。

 広開土王の以前から、倭人による朝鮮半島への侵攻はたびたび行なわれていた。しかしその倭人がどの王朝の兵なのか、ただの海賊なのかは、よく分からない。
 広開土王の時代に、日本の本格的な朝鮮出兵が始まっている。それが日本の応神天皇の王朝にあたることは、7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝で詳しく述べた。

 そこに登場する応神天皇は、もと九州王の出身であり、その後に「河内王朝」の創始者となる天皇である。そして現存する八幡宮の主祭神ともされている。
 16世紀の倭寇たちは、この八幡宮を信仰していたらしく、彼らの船は「八幡船」と呼ばれた。
 そこから考えると、応神天皇の征服王朝の時代から、16世紀の「倭寇」にいたるまで広義の倭寇の歴史は連綿と続いていることが分かる。
 この八幡神については、11.歴史はミステリー(その6) −奈良時代の伊勢神宮と東大寺造仏のナゾに掲載している。

 このような広義の倭寇の系譜は有史以来、連綿と続いているが、ここではそのうちから、14世紀から16世紀までの間の狭い範囲の「倭寇」に限定して述べる。






 
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