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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方

11.歴史はミステリー(その6) −奈良時代の伊勢神宮と東大寺造仏のナゾ
12.歴史はミステリー(その7) −長岡京・平安京遷都のナゾ
13.歴史はミステリー(その8) −日本の女性天皇
14.歴史はミステリー(その9) −日本的仏教の誕生
15.歴史はミステリー(その10) −空海「いろは歌」のナゾ
16.歴史はミステリー(その11) −庶民における地獄・極楽の誕生
17.歴史はミステリー(その12) −鎌倉時代は思想の花園(1)―明恵、泰時、法然
18.歴史はミステリー(その13) −鎌倉時代は思想の花園(2)―禅宗の成立
19.歴史はミステリー(その14) −元寇と日蓮の予言

20.歴史はミステリー(その15) −歴史の中の未来記
(1)野馬台詩の予言(1)
(2)野馬台詩の予言(2)
(3)愚管抄の歴史観
(4)日蓮の未来記「立正安国論」

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  20.歴史はミステリー(その15) −歴史の中の未来記

 元寇の後のあと日本の歴史は、南北朝の内乱から戦国時代へ続く長く暗い中世の戦乱の時代に入る。このような王法、仏法共に乱れて先の見えない末法の時代に入り、それに更に暗い影を落としたのが、日本の天皇の治世が百代で終わるという『百王百代』の予言であった。

 今から振り返ってみると、第100代の後小松天皇は南北朝に分裂した皇統を統一した天皇であり、無事に次の第101代称光天皇に皇統を繋ぐことができた。 
 しかし100代目に、日本の王朝は危急存亡の大危機に遭遇したことは事実であり、『百王百代』の予言は見事に的中していたといえる。

 最終的に日本の天皇制は100代以後も続く事に成功したものの、そのような未来のことは、そこに至るまで誰にも分からなかった。
 そのため100代までの残りが少なくなった鎌倉時代から南北朝時代の人々は、仏法が末法の時代にあることに加えて、王法も100代の終わりが近づくにつれて、いいしれぬ不安な気持ちに襲われ始めていた。
 この不安な暗い気持ちが、平安朝の末期から南北朝にかけての『未来記』流行の背景にあったと私は思う。

 そこでここでは『百王百代』のもとになった「野馬台詩」から、鎌倉時代における慈円の「愚管抄」や日蓮の「立正安国論」をへて、南北朝の「太平記」に至るまでの未来記とその背景をみてみよう。

(1)野馬台詩の予言(1)
●野馬台詩とは?
 日本の未来記のなかで最も古く、そのスケールの大きさと内容の面白さにおいて筆頭にあがるのが「野馬台詩」である。
 この予言詩の作者と伝えられるのは、梁の武帝の時代(在位502-549)に幾多の予言をした、中国の禅僧・宝志(宝誌、418-514)である。
 
 また、この予言詩を日本に伝えた人は、奈良時代の貴族・学者で遣唐使として中国へ渡ったことのある、吉備真備(693-775)といわれる。さらに、この予言詩の経緯を伝える書物は、平安後期における貴族・漢学者で歌人の大江匡房(まさふさ)が、12世紀初期にあらわした「江談抄」である。そこには、「野馬台詩」の成立、伝来の経過から、詩の注釈までが書かれている。

 これらのことから考えると、予言詩の成立も、平安朝前期あたりと考えるのが普通であるが、一方では、招来の時期は奈良朝後期までさかのぼるとする根拠もあり、いろいろ謎の多い予言詩である。

●「野馬台詩」のフシギ
 予言詩という性格からして当然のこととはいえ、野馬台詩にはいろいろナゾが多い。その第一は、その作者や輸入した真の人物が、どこの国の何時ごろの人なのかが正確には分からないことである。
 伝説としての作者は、禅僧・宝志といわれ5-6世紀の梁の人である。しかし後述するように、その伝説はそのまま事実としては受け入れにくい。
 さらに、この中国で生まれた予言詩を日本に輸入したのは、貴族・学者で遣唐使として中国にもいた8世紀の吉備真備といわれるが、それも素直には受け入れにくい。

 それは吉備真備による招来説を唱えるのは、12世紀の「江談抄」であり、その間、400年という余りにも長い時間が空きすぎているからである。
 吉備真備による招来説が真実ならば、いまひとつ、そのための客観的な証拠がないと信用しにくい。

 野馬台詩の予言の神秘性を高めるために、作者を古代の伝説的な禅僧・宝志にとったことから、作者、招来者共に古い時代に設定する必要があった。
 そのことからいろいろな無理が生じたと考えられるが、実際にこの詩が作成されたのは、かなり後代になるであろう。

 まず伝説としての作者について考えてみる。中国の禅僧・宝志が活躍した梁の武帝時代は、ようやく日本に仏教が伝来した時期である。
 この段階においては、いくら優れた高僧でも中国の僧侶が日本の歴史について適切な予言をする知識をもっていたとは考えにくい。

 梁の武帝は、日本では継体天皇の時代にあたる。元亨釈書によれば、継体天皇16(522)年に、同じ南梁の人である司馬達等が春2月に、それまで仏法がなかったわが国に初めて仏法を伝えたとされている。大和国高市郡坂田原に、草堂をつくって仏像を安置し礼拝した。
 この仏教が伝来した継体、欽明朝は、日本の皇統が2つに分裂して、国内は内乱状態にあったと現在では考えられている。
 その論拠は、日本書紀の紀年がこの時期に非常に乱れていることにあり、仏教の伝来の年も538年説、522年説など、いろいろある。

 この「野馬台詩」が、継体、欽明朝の大乱が進行している危機的な時代に作られたとしたら、詩の中で千年後の日本の未来像を、「百代にわたって代々栄える」ときわめて楽観的に歌っていることは理解できない。

 第2のフシギは、この予言詩の「野馬台詩」という題名にある。7世紀ころまで中国人は日本のことを「倭」と呼んでいた。しかし差別用語であるこの「倭」という名前を嫌った日本は、7世紀の中葉に中国、朝鮮に対して「日本」と呼ぶことを宣言した。そのことは、日本について関心を持つ人々であれば、皆、知っている。
 しかし予言詩の作者は「野馬台」という通常は使わない言葉を使用している。後漢書などに登場する日本国は、「邪馬台国」と呼ばれ、それが九州にあるのか、近畿地方にあるのかの論争があることは誰でも知っている。

 これに対して予言詩の作者は、「野馬台」という言葉を使った。
 「野馬台」という国名は中国の史書には見られない。「ヤマト」の「ヤ」を、中国の音に当てはめたのが「邪」であり、それに「野」を当てはめた事例はない。

 むしろ「野馬台詩」以降、この詩にあやかって「野馬台」という言葉が現れたと思う。つまり予言詩の作者は、意識的に邪馬台国でも、倭国でも、日本国でもない国名を使ったのではないかと考える。
 後漢書が記載する邪馬台国では、大乱が起こっていた。したがって100代にわたり平和が続く「野馬台国」は、邪馬台国とは無縁の国である。つまり、この「野馬台詩」の国名には作者のいろいろな思いが込められていると私は思う。

●『野馬台詩』の暗号文
 『野馬台詩』は、次のような暗号文で構成されている。

      水 丹 腸 牛 竜 白 昌 孫 填 谷 終 始
      流 尽 鼠 喰 遊 失 微 枝 田 孫 臣 定
      天 後 黒 食 窘 水 中 動 魚 走 君 壌
      命 在 代 人 級 寄 干 戈 膾 生 周 天
      公 三 鶏 黄 城 故 後 葛 翔 羽 枝 本
      百 王 流 赤 土 空 東 百 世 祭 祖 宗
      雄 英 畢 与 茫 為 海 国 代 成 興 初
      星 称 竭 丘 茫 遂 姫 氏 天 終 治 功
      流 犬 猿 青 中 国 司 右 工 事 法 元
      飛 野 外 鐘 鼓 喧 為 輔 翼 衡 主 建


 さてこの暗号の読み方に真備は困り果てて、長谷寺の観音様にお祈りしたら、突然,蜘蛛が下りてきて詩文の上を這い始めた。それを辿った読み順は次図のようになった。

   

 暗号文を真ん中の「東」を始点、「空」を終点として、解読した文とその読み下し
文を次に揚げる。
 
●『野馬台詩』の解読文
東海姫氏国 百世代天工  東海、姫氏の国    百世、天工に代る 

右司為輔翼 衡主建元功  右司、輔翼となり   衡主、元功を建つ
初興治法事 終成祭祖宗  初めに治法の事を興し 終に祖宗を祭ることを成す

本枝周天壌 君臣定始終  本枝、天壌に周く   君臣、始終を定む
谷填田孫走 魚膾生羽翔  谷填(み)ちて田孫走り魚膾(かい)羽を生じ翔る 

葛後干戈動 中微子孫昌  葛の後、干戈動き   中微にして子孫昌んなり
白龍游失水 窘急寄胡城  白龍游ぎて水を失い 窘(きん)急にして胡城に寄す

黄鶏代人食 黒鼠喰牛腸  黄鶏、人に代わりて食し、黒鼠、牛腸を喰う
丹水流尽後 天命在三公  丹水、流れ尽きて後  天命、三公に在り 

百王流畢竭 猿犬称英雄  百王流れ畢(ことご)とく竭きて 猿犬、英雄を称す
星流鳥野外 鐘鼓国中喧  星流れて野外に飛び 鐘鼓、国中に喧(かまびす)し

青丘与赤土 茫々遂為空  青丘と赤土      茫々として遂に空と成る

 その意味は、次のようなものである。

 東海にあるこの国は、古代中国の周王室(姫姓)の流れを汲み、百代にわたって代々栄えてきた。優れた臣下に補佐されて、はじめから法治の体制が整備され、祖先を祭り、主君と臣下が支えあい、国は理想的に治まってきた。

 しかしある時から蔦がはびこるように戦乱がひろがり、中ごろには衰微し、下賎の者の子孫が栄えるようになった。

 そのため王家の力も失われ、世の秩序が崩壊して、下克上の状況になった。王の権力は失われて、天命は三公の貴族に移った。

 百代続いた天皇の治世は終わり、猿犬が英雄を称するようになった。そして国中に戦乱が起こり、国土は荒廃して、ついには空しいものになった。







 
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