26.歴史はミステリー(その21) −日本歴史のフシギ空間
日本歴史には、所在が分からないフシギな空間がいくつか登場する。一体、それらの空間はどのようなもので、何処にあるのか?考えてみた。
(1)高天が原はどこにある?
●高天原とは何か? ―「太一」としての高天原と神々の数体系
中国では、すべての始め、根源のことを「太一」といった。そして古事記が語る日本神話では、この「太一」に「高天原」を置いている。
つまり日本歴史に最初に登場するフシギ空間が「高天原」である。
日本最古の史書は、8世紀に編纂された「古事記」(712)と「日本書紀」(720)である。既に、中国ではBC90年頃にできたといわれる司馬遷の「史記」が、天地創造のような部分は史書から排除していた。
これに対して、日本では2書共に、天地創造の部分から歴史の叙述を始めている。
ところが、この2書は殆んど同じ時期に出来上がっていながら、天地創造と神々の誕生については、かなりその見解が異なっている。
まず「古事記」の冒頭の部分から述べる。同書はよく知られているように、天皇の側近に奉仕する稗田阿礼が記憶していた「帝紀」と「本紀」を、太朝臣安万侶が撰録したとされるものである。
天地創造の最初は、安万侶の序文によれば、混沌とした状態で、そこから天地の2つに分かれ、「造化三神」(アメノミナカヌシ神、タカミムスビ神、カミムスビ神)が誕生したと記されている。
さらに、本文を見ると、天地に分かれたとき、そこには既に「高天原」が存在しており、そこに造化三神が誕生されたとする。
この天地混沌とした中から神々が誕生する話は、BC120年ころに成立した神話伝説の百科辞典といわれる「淮南子」にかなり似ている。おそらくは、それに基づいていたものであろう。
つまり中国の淮南子における天地創造の伝説に、高天原と日本の神々を配置したのが、古事記の天地創造の説話である。
一方の「日本書紀」の冒頭の天地の始まりには、高天原も造化三神も登場しない。そしてその混沌とした状態の中から、まず天地が2つに分かれ、次にクニトコタチ、クニノサズチ、トヨクミヌという三神が現れる。
日本書紀では、高天原と造化三神は、本文にはなく、第4の1書に初めて登場する。
古事記にくらべて日本書紀における高天原は、神話の展開にとってそれほど重要な役割を持っていなかったようである。
この天地創造と神々の誕生を、神話における数の展開として考えてみるとなかなか面白い。本来の古事記は1−2−4−8という古い偶数体系で展開されていたと思われ、一方の日本書紀では1−3−5−7という新しい奇数体系で展開されていたと考えられる。
これは私の想像であるが、古事記における天地創造の神話は、最初、「高天原」に、「イザナギ、イザナミ2神」が誕生し、この2神により日本列島をはじめとする島々や神々が生み出されるような、単純な形ではなかったかと思う。
しかし8世紀に史書が編集される段階において、中国思想とその新しい潮流が歴史編纂に強い影響を及ぼし、そのため大変複雑なものに編成されたのが、現存する古事記や日本書紀ではないかと私は考える。
現存する古事記と日本書紀における、創世記の話において奇妙に一致する叙述と微妙に食い違う叙述をみていくと、記紀編纂時における中国思想の潮流の影響を強く感じざるをえないのである。
たとえば「太一」(高天原ないしは混沌)から「夫婦神」または「天地」という2つに分かれ、ここから日本列島や神々が生まれる。その生まれ出る神々の最初が「三神」であるが、その三神の名前は記紀で全く異なる。
これは中国における陰陽五行の典型的な論理展開に、日本の歴史を無理やり合わせた結果、つくられたものと考えられる。
それは津田左右吉氏による記紀批判において既に指摘されていたものである。
この日本神話の展開過程を、陰陽五行説による神話展開の方法論に絡め、そのプロセスを数体系で表わしてみると、分かりやすくなる。
1(太一:高天原、混沌)−2(両儀:天地もしくは夫婦神)−3(三神:名前はいろいろ)
古代の中国では、易経に基づく1−2−4−8という偶数(=陰数)の体系と、1−3−5−7という奇数(=陽数)の体系が存在していた。
日本では、古来、偶数による体系が使われてきていたが、記紀が編纂された奈良時代の中国では、易経の陰数体系から新しい陽数の体系に流行が移りつつあった。
この中国における数体系の移り変わりが、日本の歴史編纂に大きな影響を与えた。
日本の古い神話は、もともと陰数体系で組み立てられていたと思われるが、そこに新しく中国の最新の陽数体系が導入され、それによる歴史編纂に組み替えられたために、記紀の神話の構成が非常に複雑で分かりにくいものになった。
特に、重要な役割を果たすべき神々が、殆んど役割がはっきりしないまま残されることになった。
本来、日本神話では、造化三神ではなくイザナギ、イザナミの国生みの話から始まるのが、その原型であったと私は思う。そこへ無理やり流行の奇数の神話体系にするために、造化三神が設定された。しかしそれらの神々の実体までは造ることはできなかった。それが津田左右吉氏により、かつて鋭く指摘されていたポイントである。
日本神話の数体系については、川副武胤氏の「日本神話」(読売新聞社)に面白い統計がある。その川副氏による調査を含めて、日本の古代の史書における数詞の使用頻度を調べてみると図表-1のようになり、古事記が偶数体系、六国史が奇数体系によることがはっきり分かる。
図表-1 日本の史書における数詞の使用頻度
数詞 |
古事記 |
日本書紀 |
続日本紀 |
日本後紀 |
三代実録 |
1
|
40
|
5
|
|
|
10
|
2
|
28
|
|
|
|
|
3
|
|
10
|
23
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17
|
16
|
4
|
9
|
5
|
5
|
|
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5
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5
|
8
|
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15
|
18
|
6
|
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7
|
6
|
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6
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18
|
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8
|
48
|
15
|
6
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9
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1
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10
|
9
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(出典) 古事記については上掲書、其の他については、荒木睦彦「建築と都市のフォークロア」から作表。
●アマテラス神の高天原
日本神話は、3段階で組み立てられている。
その第1段階は上に述べた天地創造の段階であり、高天原とイザナギ、イザナミ2神が主役となる。
第2段階は、アマテラス神が主役になる高天原の全盛時代であり、高天原を舞台にしたいろいろなエピソードが繰り広げられる。
第3段階は天孫降臨の段階であり、ここで神々と人間世界との接点が出てくる。
ここでフシギなことは、この第1段階の主役をつとめたイザナギ、イザナミの2神は、天地創造の神という重要な役割を担ったにも拘らず、日本神話における評価は非常に低く、2神を祭る神社がほとんどないことである。
イザナギ、イザナミ神は、高天原に誕生したれっきとした天神=「天つ神」(あまつかみ)であるにも拘らず、オノコロ島へ下って国生みをしたことから天神のグループから外され、地神=「国津神」の仲間に入れられしまった。
そして、国内にイザナギ、イザナミ2神を祭る神社が殆んどないことに驚く。
川口謙二氏の著書「神々の系図」でも、イザナギ、イザナミ2神が、例えば民謡には「伊勢へ7度、熊野へ3度、お多賀さまには月まいり」などいわれ、一方で「天照大神の親であるとされながら、皇祖神と見做されず、比較的冷遇されているのは注目すべきことである」と指摘されている。
それに比べて、イザナギ、イザナミ2神から生まれたアマテラス神は、地神=「国津神」(くにつかみ)のはずなのに、逆に地神から外されて天上に上り、高天原の「天津神」(あまつかみ)の最高の地位につく。
そしてアマテラス神を中心にした高天原の話が、日本神話の第2段階となる。
このアマテラス神が主宰する高天原は、天地創造の頃のそれとは異なり、風景もかなり豊かになり、そこでの生活も精彩を帯びている。
そこには天香具山という山がそびえ、天安河という川がながれている。農業も行なわれていて、天狭田,長田、その他、多くの田が存在している。天石窟があり、天安河には天浮橋という橋が架かっている。
アマテラス神は、この高天原を主宰する神となり、天孫降臨を通じて天皇家に繋がる第2、3段階における日本神話の「太一」となる。
つまりアマテラス神は、天孫降臨の命令を出し、地上における天皇家の祖神となることにより、天上から地上世界を含めての「太一」の位置についたことになる。
●天孫降臨とは何か?天孫は何故、九州の高千穂へ天下ったか?
高天原は、大和地方と非常に似ている。たとえば大和地方には、高天原の天香具山を地上に移したといわれる香具山が存在しており、高天原を大和地方であるとする説すらあるほどである。
したがって、皇祖アマラスの命令による天孫降臨によりニニギノミコトが天下るとき、大和地方に天下れば、話は非常にすっきり単純化されるはずである。
そうすれば、皇孫は地上に降りてから再び、神武東征などという日本国内における大民族移動を行う必要は全くなかったことになる。
しかし現存する日本の神話では、皇孫ニニギノミコトの一行は、九州の高千穂峰に天下っている。それは何故なのであろうか?
最大の理由は、ニニギノミコトの一行が大和地方へ天下りたいと思っても、その頃、まだ大和地方の周辺には出雲族の勢力が強すぎて、天下りたくても出来なかったことがある。
その意味では、九州地方の南部は、ニニギノミコト一行の勢力が及ぶ天孫降臨に適した地域であったことが考えられる。
▲皇孫ニニギノミコトのフシギな勅語
天孫降臨に九州の高千穂峰が選ばれたあとで、ニニギノミコトは次のようなフシギな勅語を出したことを古事記は記している。
「ここ(=九州高千穂峰)は韓国(からくに)に向い、笠沙の御前(みさき)を真来通りて、朝日のたださす国、夕日の日照る国なり。故、ここはいと吉き地」と詔りたまう。
これはフシギな勅語である。この言葉をそのまま訳すと、この地は、韓国の方をむいている土地であり、笠沙の御前から、まっすぐに朝日と夕日が照りつける良い土地である、と解釈される。
ところが日本書紀では、この部分がかなり異なっている。
ニニギノミコトは、「日向の○日(くしひ)の高千穂の峰に降下されて、△宍(そしし)の胸副国(むなそうくに:空国<むなくに>と同じ?)を、ずっと丘続きのところを、国を求めながら通過された。
そしてなぎさに接した平地に降り立たれて、・・その国の首長・事勝国勝長狭の助言を得て、宮殿を建てご滞在になった。」(井上光貞訳「日本書紀 上」中央公論社)
[○:木へんに患 △:旅の下に肉]
つまり日本書紀では、古事記のおける「韓国」(からくに)を意識的に「空国」(からくに=むなくに)に置き換えている。「空国」とは、書紀纂疏では「空国は即ち不毛の地」と述べており、「なにもない荒れ果てた地」の意味である。
とすれば、なにもない荒れた地を、なぜ「いと良き土地」というのか?全く説明ができない文章であり、さらにほとんど理解ができないほど記述が混乱していている。
ここでいう「韓」(から)は、朝鮮半島最南端に古代に存在していた「加羅」(から)の事をさすと私は考える。
古代の日本は「倭」と呼ばれていた。その場合の「倭」とは、必ずしも現在の日本列島を指すものではなく、朝鮮半島の南部から九州、出雲にかけて日本列島の西の部分を漠然とさす言葉であったと私は考えている。
つまり朝鮮半島の南部地域にある加羅の国々こそが、実は日本神話の「高天原」であったと私には思われるのである。それは後に「任那」と呼ばれて、日本の植民地と誤解された地でもある。4世紀はじめの高句麗の広開土王碑文では、「任那加羅」という名前が使われており、ここがアマテラス神の高天原の所在地であったのではないか!
そして、アマテラス神の弟神スサノウの「根の国」が、同じく朝鮮半島東南部の「新羅」の一部であったと私には思われる。それについて次に述べる。
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