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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方

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21.歴史はミステリー(その16) −南北朝の内乱
22.歴史はミステリー(その17) −足利将軍たちの栄光と凋落

23.歴史はミステリー(その18) −応仁の乱と中世の終焉
(1)応仁の乱
(2)国一揆・変質する一揆 1
(3)国一揆・変質する一揆 2

24.歴史はミステリー(その19) −キリスト教伝来
25.歴史はミステリー(その20) −倭寇とその歴史
26.歴史はミステリー(その21) −日本歴史のフシギ空間
27.歴史はミステリー(その22) −日本の早期儒学を考える
28.歴史はミステリー(その23) −儒学から見た日本思想
29.歴史はミステリー(その24) −幕末の長州と尊王倒幕思想
30.歴史はミステリー(その25) −幕末の薩摩藩と尊王倒幕
 
  23.歴史はミステリー(その18) −応仁の乱と中世の終焉

(1)応仁の乱
 中世の大規模な土一揆は、将軍の代替わりの時期に併せて起こされている。それは多分に戦略的、計画的な性格を持っていたと思われる。
 その代替わり騒動の超大型版ともいえるものが、「応仁の乱」であり、それとともに土一揆、国一揆、一向一揆の本質や役割も大きく変わっていった。

 応仁の乱の内容は非常に複雑に入り組んではいるものの、その軸になっているのは、将軍・義政の後継者問題である。それに室町幕府の最高幹部である斯波氏と畠山氏の後継者問題がからみ、さらにそれに幕府の主導権をめぐる有力守護大名の細川氏と山名氏の権力闘争が結びついて、天下の大乱となった。

 それは1467年から10年にわたり、天下を二分する騒乱となり、その結果として京の都は完全に焦土に化して、平安京以来の古代の都は完全に破壊された
 しかしその半面で、暗い中世から新しい近世への変化が、この乱を通じていろいろ現われ始めた。まずはその経過から述べる。

●乱の発生 −上御霊社で始まった畠山家の相続紛争
 応仁の乱は、応仁元(1467)年に始まったと思われがちであるが、その年は3月に改元されているため、乱が始まった1月は正確には文正2年である。
 その文正2(1467)年1月17日の真夜中、管領・畠山政長は館に火を放ち、上御霊社(現在の京都市上京区)の森に陣を張り、畠山義就と家督相続をめぐる戦闘に入った。
 
 この紛争の発端は、1月2日に、将軍義政が恒例とされてきた管領・畠山政長邸への年賀訪問を突然中止し、同時に政長の出仕を禁じたことから始まった。
 そのとき、政長は既に管領の仕事である内裏の警備の仕事も代えられており、管領の仕事から事実上罷免されていた。

 ちなみに管領とは、室町幕府の最高幹部の職名である。将軍を補佐して政務全般を取り仕切る仕事を行っており、管領には細川、斯波、畠山の3氏がその職に従事し、「三管領」と呼ばれていた。

 畠山氏は、足利氏の1支族であり、足利尊氏の自立のときから有力武将として活躍してきた。 その養子の畠山政長が、新年早々、管領の職務から降ろされてしまった。
 そして同じ日、畠山政長に代わり、実子の畠山義就が幕府に出仕して新年の挨拶を述べた。ついで5日には山名宗全の屋敷を借りて足利義政、義視を招き、盛大な宴会が行われた。

 この畠山政長は、畠山持国の養子であったことから、持国に実子・畠山義就が生まれたことにより疎外された立場に置かれるようになっていた。
 この畠山氏における実子と養子の相続をめぐる紛争は、足利将軍家における足利義政の養子の足利義視と実子の足利義尚の間の関係と全く類似していた。
 そしてこの将軍家における後継問題が、応仁の乱における原因の主軸となる
 そこで少し時代を戻して説明してみよう。

●将軍・義政の後継問題
 当初、足利義政と夫人・日野富子との間には後継男子がいなかった。そのため義政夫妻は、後継男子の出生をあきらめて、寛正5(1464)年11月25日に義政の弟である浄土寺門跡・義尋を養子にすることに決定した。
 そこで義尋は、12月2日に還俗して名を義視と改め、左馬頭、従五位下に任じられた。「応仁記」によると、義視は、初めは将軍後継になることを断っていたといわれる。
 しかし仮に義政に男子が将来生まれても、将軍の後継にはしないとする誓書まで用意して義政が要望したため、やっと義視は後継者になるのを承知したといわれている。

 ところが、翌寛正6(1465)年11月23日に、夫人・日野富子との間に義尚が誕生した。ここから約束されていた状況が急に変わってきた。
 挙句の果てに、義政は政所執事で、かつ義尚の養い親である伊勢貞親の讒言を信じて、義視の殺害をはかるという事態にまで発展した。
 このとき、義視の後見人を務めていたのが、幕府最高の地位にある管領・細川勝元であった。義政の妻の日野富子は、わが子の義尚を将軍にするため、その細川勝元に対抗できる人物として、有力な守護大名の山名宗全を擁立した。

 この将軍の後継問題に、斯波氏と上記の畠山氏の家督相続の内紛が絡み、天下を二分する騒動に発展したのが、応仁の乱である。その構図を図表-1にあげる。

図表-1 応仁の乱の関係者
総大将 西軍 山名宗全 東軍 細川勝元
第9代将軍の候補者 足利義尚(実子) 足利義視(養子)
畠山氏 畠山義就(実子) 畠山政長(養子)
斯波氏 斯波義廉(渋川氏) 斯波義敏(斯波氏)

 ついでに斯波氏について見ると、同氏は、足利家氏が陸奥斯波郡にくだって斯波氏を称したといわれる足利氏中の名門である。
 斯波義重が応永の乱(1399)において大内氏を討った功績により、尾張、遠江2国の守護領を与えられて、三管領の1つを勤めていた。
 下って、斯波義健のとき嗣子がなく一族の義敏が入ったところ、渋川氏から渋川義廉が入って家督を継いだ。そのために、ここでも相続争いが起こった。

●相続問題と応仁の乱
 応仁の乱は、京都を完全に焦土と化して荒廃させた。それにも拘らず、その原因は、将軍家と有力大名の相続をめぐる問題が中心であった。
 日本では、古来、長子相続という厳格なルールは殆んど存在しなかった。
 古代の天皇家においても、長子は神事を継承し、政治は第3子が継承するとする慣習が存在していたほどである。そこには必ずしも長子相続はなかった。
 そのため天皇家の皇位継承においても、常に紛争が絶えなかった。
 
 滝川政次郎氏の「日本法制史」によると、中世において家督を相続すべき男子を嫡子といい、一応は嫡出長子が法定の家督相続人の地位を有していたとされる。
 しかしその嫡出長子が、出家、義絶、他家の養子になった場合には、被相続人は自由にその次子、庶出子、弟、孫、その他の親族、さらには他人より撰んで嫡子とすることができた。(358頁)

 その一方で、財産分与のルールがないために、後継者でなくなれば、財産の分与も全くなくなった。つまり財産は、圧倒的に後継者のところにいくため、権力者の後継者の決定には、常に紛争が絶えなかった。
 応仁の乱は、カンタンにいえば図表-1にあげる足利幕府の権力者たちの相続問題に関する、大規模な紛争であった。

 相続問題は、利害関係のない第3者からみると、全く面白くないテーマである。しかも応仁の乱では、その相続問題が将軍家だけではなく、有力諸大名も結びついた大乱であるため、極めて複雑であった。
 つまり応仁の乱は、面白くもない上に複雑で、そのため殆んど小説にもならないテーマである。しかし一方では、その中から確実に近世への息吹が現われてきており、歴史的には非常に重要な性格をもっていた。

●応仁の乱の経過 
 ▲乱の初年 ―文正2年(=応仁元年)
 応仁の乱は、文正2(1467)年1月、畠山義就と畠山政長の京都上御霊社における戦いから始まった。応仁元(1467)年は、3月に改元されているため、1月はまだ文正2年である。そして応仁に改元された後の5月ころから、本格的な戦乱に拡大した
 その意味で、応仁の乱は、応仁元年に始まったとする記事も、ある程度の妥当性をもっている。
 
 5月20日に細川政元、山名宗全は、それぞれの党与を集合させ、細川方(東軍)は花の御所を陣地とし、山名方(西軍)は堀河西にある山名宗全邸を陣地とした。そして、それにはさまれた地域が、両軍の最初の戦場になった。
 現在の京都に残る「西陣」という地名は、このときの西軍陣地の名残りである。 
 それ以降、東軍、西軍は京都各地で戦い、戦乱はさらに地方にも及んだ。「大乗院寺社雑事記」の言葉を借りれば、戦乱は「所詮、東西南北、静謐の国 これなし」といわれるほど広域に広がっていった。

 戦乱の当初に優勢であった東軍は、その後、西軍の包囲下に入り、京都への関門も御霊口を除きほとんど西軍に押さえられてしまった。最初の年の激戦は、相国寺の争奪をめぐって行われた。最終的に寺は東軍が奪回したが、双方に大きな損害が出る消耗戦となって、そのために戦闘はしばらく下火になったほどであった。

 応仁略記は、この数ヶ月の間に焼亡した京都周辺の寺社、公家武家屋敷、人家の事を列記しており、そこには「京中・嵯峨・梅津・桂等 西山・東山・北山 一所なりとも、焼け残るところなきものなり、稀有の天魔の所行なり」(大乗院旧記、12月2日条)と書かれるほどになった。
 「応仁記」には、「下は二条、上は御霊辻子まで、西は大舎人、東は室町を境にて百町余、公家、武家、大小人家、人家 3万余宇 皆灰燼となって皆郊原となり終わりぬ」(6月11日)と記されている。そのため貴族たちは、戦乱の京都から宇治や奈良などに避難した。

 ▲乱の第2年 ―応仁2年
 大乱の2年目は、東軍・細川勝元の兵の西陣攻撃で始まった。しかしその攻撃は、大勢には余り影響せず、両軍共に本陣近くに主力を結集し、土塁を築き、壕を掘って陣を固めた。この中、9月に東軍が船岡山城を攻撃し、西軍は城を放棄して逃げたが、東軍は本拠から離れているためその城を陣地として活用もしなかったといわれる。

 応仁2年7月、斯波義廉に代わり細川勝元が3たび管領に就任した。これは幕府が、ますます東軍の中に深く取り込まれたことを意味していた。
 一方の西軍の諸大名は、幕府内部の役職を剥奪されて、幕政は細川勝元の意のまま運営されるようになっていった。
 東軍の課題は、船岡山の合戦の際、京都を脱出していた総大将の足利義視を京都へ呼びもどすことであった。

 それは9月に実現したものの、義政が政所執事・伊勢貞親をしりぞけるようにという義視の要求をいれず、逆に伊勢貞親を重用したため、義視は、ふたたび東軍を抜け出した。それどころか義視は、11月には西軍に迎えられて、斯波義廉の陣に入るという椿事が持ち上がった。
 東軍の総大将が西軍に移るという椿事により、図表-1の大乱の構図は大きく変わらざるをえなかった。

 ▲乱の第3年以降(文明年間)
 西軍は、文明3(1471)年に、南朝の後胤である小倉宮を迎えるが、この間の文明元(1469)年正月には、5歳の義尚の将軍継承が発表されており、これにより義視は将軍候補から外れて、東軍との決別は決定的なものになった。
 そこで後花園上皇、後土御門上皇を花の御所に移し、義政・義尚を奉じた西軍との対立は、さらに深くなっていた。

 その一方で、戦闘は洛中から洛外に拡大し、西軍による「郷村」への攻撃が多くなったが、あまりうまくいっていなかった。
 東軍16万、西軍9万という戦力の圧倒的な相違もあり、文明年間に入ると、戦闘は下火になっていった。
 戦乱が地方に拡大したため、多くの大名は国もとの方が心配になり帰国していった。さらに、文明5(1473)年になると、1月に伊勢貞親、3月に山名宗全、5月に細川政元という両軍の中心人物が相次いで亡くなり、そのため両軍の戦闘も益々無気力なもののなっていった。

 文明6(1474)年にはいると、両軍の間に和平交渉が成立するという噂が流れ始めた。そして4月に、山名宗全の息子の政豊と細川勝元の息子の政元との間で和睦が成立した。この年の秋、西軍の中核として洛中洛外で転戦した大内義弘の軍勢は、本国での騒乱を心配して幕府にくだり、帰国しようとしていた。
 他の諸大名も、各地方の騒乱が気になっており、京の町での戦闘に明け暮れるわけにはいかなくなっていた。

 このような状況を受けて、文明7(1475)年になると、自然に洛中洛外の戦闘は影をひそめるようになった。それに代わって、地震、火事、水害、洪水などといった災害が京の町を襲い始めた。
 このような中で、4月14日から30日間、北山鹿苑寺の念仏堂で行なわれた念仏は、非常な盛況を示しており、その近辺の「石不動」にも「陣中上下万人連日群集」といわれるほど人が集まり(「京都の歴史」3,350頁)、人々は神仏に頼り始めていたことがわかる。

 翌文明8年(1476)正月には、乱が始まって以来、初めての「叙位の儀」が行われ、公家や武家の年中行事も復活の兆しを見せ、「乱後」という気分が高まっていた。
 しかし洛中洛外には東西両軍は依然として陣を構えており、両者の殺戮も続いていた。
 文明9(1477)年には、それぞれの軍内部の乱闘や放火が相次ぎ、特に西軍では、11月に土岐、大内の軍勢が自らの屋敷に火を放ち、領地へ帰国した。彼らの去った後、火煙は終夜、京の空を焦がしたと言われる。

 ▲乱の終わり
 文明4年以来の懸案であった東西両軍の講和問題は、9年にいたってようやく落着し、畠山義就、大内政弘など和睦に反対していた大名も帰国し、30万の軍勢は京の町から姿を消していった。
 文明11(1479)年8月ごろ、山名、一色、赤松の大名が帰国するうわさが流れ、京都に残る大名は東軍の細川政元と畠山政長くらいかと思われるまでになった。
 西軍の山名氏も帰国するといううわさに、西軍を支持していた日野富子はあわてたが、山名氏の領国の因幡で国人の叛乱が起こっており、もはや止めることは出来なかった。

 いまや守護大名にとって、幕府の要職に就くより、領国に帰り、1人でも多く国人を味方につけないと、領国を維持できないという状態になってきていた。
 このように守護大名の多くが京都を去ったあと、幕府の凋落は目に見えて激しくなってきた。
 それが典型的に現われてきたのが、幕府の最高の要職である管領が、文明5年から4年間空席になったことである。
 その後に就任した畠山政長は、在職9年の殆んどの期間を在国のままでいたほどである。もはや幕府の衰退は、誰の目にも明らかになり、それは京都近郊の郷村の動きから現われ始めた。






 
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