(3)元弘の内乱
●元弘の乱
後醍醐天皇は、倒幕の計画が明らかになったため、まず幕府の京都の拠点である六波羅を攻め、比叡山に行幸して、ここを拠点として幕府と戦う計画をたてられた。
元弘元(1331)年8月21日、京都の町には関東の使者2人が3千人の兵をひきいて上洛の途についたとする噂が広まった。後醍醐天皇を遠島にし、大塔宮に死罪を命じる文書をもっているという風聞が立ち、緊張は一挙に高まった。
「太平記」によると、両使は8月24日に入京した。これを伝え聞いた天台座主尊雲親王(天皇の第3皇子、大塔宮とも呼ばれた)は、天皇に南都下向をすすめた。ところが幕府軍のほうがいち早く皇居を包囲したため、後醍醐天皇は8月24日夜、密かに奈良の東大寺に逃れ、さらに鷲峰山(山城国相楽郡)金胎寺から、笠置寺(同国同郡)に移り、そこを御座所とされた。
幕府は、天皇の笠置下向の真相をつかむと、9月1日に南北両検断が宇治平等院に出陣し、到着した武士の名前を書き上げたところ、昼夜にわたったといわれる。そして翌2日に笠置出陣が命じられ、3日に合戦が始まった。
同じ2日に関東では、承久の乱にならい、大軍を京都へ派遣することが発表され、5日から続々出発していった。その大将の一人に足利尊氏がいた。
この後醍醐天皇の笠置落ちと同時に、楠木正成が河内の金剛山で挙兵した。楠木正成(?-1336)は、河内観心寺領の土豪の武将であるが、その系図ははっきりしない。
正成は、天皇が笠置に行幸されたことをきき、金剛山の傍の赤坂に城を築き、笠置が危うくなったときには、ここに行幸を仰ごうと考えた。
幕府軍は、足利尊氏も加わって大挙して笠置を攻撃したため落城し、天皇は9月28日夜、城を逃れられたが捕らえられ、六波羅へおくられた。続いて幕府軍は、楠木城を攻撃し10月21日に落城した。これにより後醍醐天皇の倒幕計画は失敗した。
●北朝擁立
後醍醐天皇の笠置行幸と同時に、北条氏は光厳(天皇)を擁立した。そして笠置が落ちて天皇が捕らえられると、神器の引き渡しを後醍醐天皇にせまり、結局、神器は、北朝の光厳(天皇)に引き渡された。
後醍醐天皇は、元弘2(1332)年3月、隠岐に流刑になった。この神器の引き渡しのときから、皇統は南北朝の2つに分裂する。
北条氏は、後醍醐天皇の隠岐流刑と同時に、花園上皇の旨を奉じ、日野資朝、日野俊基、北畠具行、烏丸成輔など倒幕計画にかかわった人々を死刑、流刑などの処分にした。その中を、大塔宮は吉野に逃れて、次の挙兵の計画にかかった。
大塔宮の挙兵計画に対して、幕府は大軍を差し向け、元弘3(1333)年2月、金剛山と吉野に攻め込んだ。その月の内に金剛山の城の数箇所は陥落したが、正成の千早城だけは残って頑強に戦った。関東の軍はことごとく千早城に集まって正成軍と戦ったが、衆寡敵せず、閏2月1日に千早城は陥落した。
一方、隠岐の島の後醍醐天皇は、元弘3(1333)年3月24日の暁に島を脱出し、出雲の名和氏の助けをかりて、伯耆船上山により挙兵することに成功した。
●足利尊氏
足利尊氏(1305-1358)は、足利幕府の初代将軍である。はじめは高氏といった。源氏再興の志をいだき、元弘の乱で幕府軍として元弘3(1333)年4月16日、官軍とともに西上したとき、既に後醍醐天皇と連絡を取る事に成功していた。
足利尊氏は、元弘3(1333)年4月26日、丹波桑田郡(現在の亀岡市)篠村八幡宮で反幕府の旗を翻し、5月7日に官軍とともに六波羅攻撃に踏み切り、六波羅探題を滅ぼした。
伯耆船上山の地の後醍醐天皇に六波羅滅亡の知らせが入ったのは、5月12日のことであった。天皇は直ちに光厳天皇の廃位と関白、年号の廃止を行い、天皇の笠置潜行以前の状態に戻すことを実行した。
また鎌倉では、5月11日から16,7日に到着した新田義貞による鎌倉攻撃が行なわれ、21日には鎌倉市内に突入した。そして5日間の戦いにより鎌倉は陥落した。
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