29.歴史はミステリー(その24) −幕末の長州と尊王倒幕思想
(1)長州の尊王・倒幕思想
●長州の倒幕思想
幕末に流行した「尊王攘夷」という言葉の出典は、12世紀中国の朱子である。
一寸考えると、このような日本の国粋思想からでたと思われる言葉が、実は幕府の官学である朱子学からきていることに驚く。
ここでいう尊王の「王」は「皇」の字が使われることもあるが、もともとは「王」であり周公を指す。また「攘夷」とは中国の「夷狄」を討つことである。
孔子が生きた春秋時代には、既に周の力は衰えていた。そこでの周公と諸侯の関係は、日本の幕末における朝廷と幕府、大名との関係に比較的似ていた。
この朱子の言葉が、幕末の志士たちに利用されたのであるが、その場合の、「王」とは天皇なのか、将軍なのか、藩主なのか、非常に漠然としている。
そのため人それぞれ勝手に解釈して行動していたと思われる。
つまり「尊王攘夷」といっても、現在、我々が考えるように、倒幕―天皇親政―攘夷という明確なものではなく、尊王攘夷派の志士たちの間でも非常にあいまいであり、人それぞれが勝手に解釈する同床異夢の状態にあったと考えられるのである。
尊皇攘夷思想における初期段階をリードしたのは、「水戸学派」であった。吉田松陰もペリーの船で密航を図る前に、水戸学の会沢正志斎と会って非常に感銘を受けている。しかしその水戸藩は、徳川御三家の一つであり、尊王を標榜して、一見、水戸学は過激に見えても、その実は尊王―敬幕―忠藩―攘夷という江戸時代の正当派の論理で構成されたものである。そこでは「倒幕」など夢にも考えていなかった。
そのため幕末も慶応年間に入り、「敬幕」が「倒幕」に変ると、水戸学派は尊王攘夷運動の中で浮き上がり、それに代って長州、薩摩が運動の主流になった。
ここではまず長州藩における尊王・倒幕路線が、何時、どのようにして形成されたかを考えてみたい。
●長州藩の成り立ち −反幕の系譜
関が原の合戦(1600)の時、西軍(=豊臣方)総大将の毛利輝元は西国10カ国の太守であった。しかしその戦いに利あらず、敗れて徳川氏により防長2州しか与えられない外様大名に格下げになった。そして慶長8(1603)年に、萩藩36万9千石を本藩としてそこへ移ったことに始まる。
かつては中国地方の10カ国に配備されて領地を保有していた家臣団も、狭い萩の地に集まり、防長2国に差配地を支給されて移住を余儀なくされたため、藩士の生活は極度に貧しくなった。
その上、徳川幕府の締め付けにより、江戸時代を通じて藩主も藩士も上下そろって徳川幕府に対する不平不満を維持していた。
そのため慶長8(1603)年からペリー来航の嘉永6(1853)年にいたる250年の間、毎年正月になると、年賀のため指月城に登城する藩士の前で、一つの儀式が行なわれてきたといわれる。
その儀式とは、城中の大広間に藩士一同が揃って藩主が出御したとき、家老が「今年はいかがいたしましょうか?」と尋ねる。
藩主が「まだよかろう」というと、家老が「はい、かしこまりました」と答えてその儀式が終わる。
これは家臣を代表して、家老が藩主に毎年、倒幕の兵を起こすべきかどうかを尋ねることが儀式として行なわれたのである。長州藩の倒幕思想は関が原の合戦以来、このようにして保持されてきたことを伝える挿話である。
(「徳川時代における長州藩史抄」、鹿島、宮崎、松重「明治維新の生贄」所収、340頁)
ではこの江戸時代において「尊王」といった場合、長州藩の「王」とは、天皇と将軍と藩主の3者中、どれを指すのか? そのことは意外なことに、長州の思想的指導者である吉田松陰ですら初めはあまり明確ではなかった。
長州藩士にとって、天皇、将軍、藩主のいずれに忠節を尽くすことが「尊王」であったのか?
●松下村塾の「尊王」 −「王」とは天皇か、将軍か、藩主か?
安政4(1857)年の春頃から、長州藩の藩校・明倫館では月1回、時務会という集会が開かれていた。そこでは教授が課題を出して学生に討論させていた。
あるときその会で、「諸侯は幕臣か、天朝の臣か」(=諸侯は幕府に仕えるべきか?天皇に仕えるべきか?)という課題が出された。
このことは尊王攘夷論において、非常に切実な問題になっていたことを示していると思われる。
このとき学生の多くは「幕臣論」であった。そのことは、長州藩でさえ普通の藩士たちにとっての「尊王」とは、将軍と藩主に忠節を尽くすことを意味していたことを示している。これに激しく反発したのが、松下村塾の学生たちであったといわれる。
しかし吉田松陰でさえ、かつて「僕は毛利家の臣なり。故に日夜毛利に奉公することを練磨するなり。毛利家は天子の臣なり。故に日夜天子に奉公するなり」といっており、「幕府への御忠節は、即ち天朝への御忠節にて二つこれなく候」(安政2年4月、兄梅太郎への手紙)と述べている。つまり松蔭ですら、もとは典型的な尊王―敬幕―忠藩―攘夷の思想家であったのである。
その松蔭が野山獄の在獄中に、安芸の僧で「王民」と称して徹底した幕府否定論者であった黙霖から1年間に亙って論争をしかけられた。そこで松蔭は、はじめて封建家臣としての曖昧さを徹底的に論破され、「遂に降参するなり」と屈服したといわれる。
これでようやく松蔭も、幕府は天子の臣として国権を預かっているに過ぎないものであり、諸侯は幕府と共に天子の臣であると考えて、松蔭の国体観が作られたといわれるのである。
この松下村塾の学生たちの主張によって討論会は大混乱になり、以後、時務会は中止になった。そしてこの議論は、山県半蔵が明倫館都講本役になってからも続き、そのために松蔭と半蔵は絶交状態になったともいわれる。
このことから長州藩でさえ、「尊王」においては諸侯=幕臣論が主流であった事が分かる。(古川薫「松下村塾」108頁)
つまり長州藩においても、本当に思想的に尊王と倒幕が一つになるのは、明治維新の最終段階に入ってからであることが、ここから推測される。
では松下村塾において、水戸学のような日本歴史や古典がいかに読まれ、研究されていたかというと、それが意外に手薄なのである。
たとえば松蔭自身が会沢の「新論」に出会ったのは、嘉永3(1850)年の九州遊歴中のことであるが、この頃にはまだ松蔭は水戸学に関心はなく、兵学の勉強が中心をなしていた。
嘉永5(1852)年5月頃から、日本書紀、続日本紀、日本逸史、続日本後紀などの史書を猛烈な勢いで読み始めている。
さらにその後、諸国出遊で中断した後で古典を読み始めるのは、安政3(1858)年8月頃からであり、そこで本居宣長、平田篤胤などの国学関係の文献を読んでいる。
松蔭が、水戸学の本を読むようになったのは野山獄へ入ってからのことである。会沢正志斎の「新論」は何度も読み、大きな影響を受けた。しかし「新論」においては、まず「尊王」が取り上げられ、その延長線上に「攘夷」が語られるが、松蔭の場合は、のちに「夷狄を憤り因って遂に天朝を憂うる」と自己批判したように、外圧が「目前の急、乃ち万世の患」ととらえられており、それゆえに尊王論よりは攘夷論が先行していた。(海原徹「吉田松陰と松下村塾」51頁)
しかしこの頃の松蔭にとっての「神国日本」は、「現人神の天皇が君臨する国体は万世を通じ、内外に冠絶するもので絶対の真理であるという思想」(海原徹「前掲書」53頁)といわれ、それは水戸学における「尊王」思想と全く同じものになっていたようである。しかし松下村塾出身の志士たちの「尊王」は、吉田松陰のそれと必ずしも同じではなく、かなり異なる現実的なものであったと思われるのである。
●松下村塾の「攘夷」 −開国的攘夷論
初期の松下村塾における「尊王」と同様に、松下村塾の「攘夷」もまた理解に苦しむことが多い。つまり幕末を支配した一般的な「攘夷論」は、日本は江戸時代の初めから「鎖国政策」を取ってきた国であるから、そこへくる外国は打ち払うべきとする単純な思想である。
しかし吉田松陰の「攘夷論」は、それとは大きく異なり、「開国的攘夷論」ともいうべき一見矛盾するフシギなものであった。そのために矛盾したことが一杯出てくるわけであり、その矛盾点から話をすすめる。
まず攘夷論者である松蔭自身の矛盾は、ペリー来航に当たって、それを攻撃するどころか密航をしようとペリー艦隊と交渉することにある。しかも密航先の国は、アメリカであろうとロシアであろうと構わないわけで、かなり無節操である。
ロシアのプチャーチン艦隊が長崎へ来ると、早速、ロシアへ密航すべく長崎まで行ったし、ペリー艦隊が再び来航するとそこへ船をこぎつけた。
つまり外国であれば、アメリカでもロシアでも、どちらでもよいわけであり、それは「攘夷」を裏返した無節操なものといわれても仕方ない。
また一方、強力に「攘夷」を主張しながら、その一方ではその攘夷国に人を送り込むという一見して大変矛盾した「攘夷」が、長州藩自身により何度も繰り返されている。
たとえば攘夷の急先鋒であった高杉晋作は、文久2(1862)年5月、なんと藩主・毛利敬親(忠正公)の許可を得て、長崎から幕府の千歳丸にのって上海へ渡り、太平天国の乱を観察している。
また5月10日を期して幕府に攘夷の実行をせまっていた文久3(1863)年4月18日に、長州藩では藩主・毛利敬親が、伊藤俊輔(のちの博文)、志道聞多(のちの井上馨)、山尾庸三、野村弥吉(のちの井上勝)の4人を、横浜のジャイディン・マジソン商会に頼みこんでイギリスへ密航させている。
これらの長州藩の行動は、表面における攘夷運動に全く逆行するものであり、長州藩の「攘夷」は全く2枚舌により行なわれていたことを示している。
それは吉田松陰の「開国攘夷」の思想からきていると考えられる。つまり吉田松陰には、水戸学の「攘夷論」のような鎖国に固執した排外主義はなかった。
それについて松蔭は「鎖国の説は、一時は無事に候えども、宴安姑息の徒の喜ぶ所にして、始終遠大の御大計に御座なく候」、「万国航海仕り、智見を開き、富国強兵の大策相立ち候様仕り度き事に御座候」と書いている(「続愚論」嘉永5年)。
この松陰の説は、そのまま読めば「攘夷論」ではなく、むしろ「開国論」として通るようなものである。
ではなぜ松蔭は、一方で開国を志向しながら攘夷を叫ぶのか? 「外夷悍然として来たり逼り、赫然として威を作す。吾れ即ち首をたれ気をとめ、通信通市、唯だ其の求むるところのままにして」、外国のいいなりになるような屈辱的な開国に反対して松蔭は「攘夷」を唱えたと考えられる。
それは簡単にいえば、幕府による開国は反対であるが、明治新政府による開国には賛成するということである。松蔭の思想は、慶応年代に現われる「尊王―倒幕―開国」路線を先取りした「攘夷論」であったといえる。
|