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日本人の思想とこころ
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  (2)皇統分裂

●当世両院アリ
 日蓮の「立正安国論」が建言された同じ年の正元2(1260)年正月17日に、後嵯峨上皇の仙洞御所に下記のような落書きがあった。
    年始凶事アリ、   国土災難アリ、
    京中武士アリ、   政ニ僻事アリ
    朝議偏頗アリ、   諸国飢饉アリ、
    天子ニ言アリ、   院中念仏アリ、
    当世両院アリ、   ソソロニ御幸アリ、
    女院常御産アリ、  社頭回禄アリ
    内裏焼亡アリ、   河原白骨アリ、 
    安嘉門白拍子アリ、 持明院牛アリ、
    将軍親王アリ、   諸門跡宮アリ、
    摂政(関白兼平?)二心アリ、前摂政(前関白良実?)進従アリ、
    (中略)
    武家過差アリ、   聖運ステニスエニアリ。

          (「正元2年院落書」、京都の歴史、2、466頁
           三浦周行「鎌倉時代史」、418頁に全文収録)

 この落書きは、当時の騒然とした世相を、見事に活写している。その中に「当世両院アリ」という特に注目すべき一文がある。
 ここでいう「両院」とは、後嵯峨上皇と後深草上皇(=後嵯峨の皇子)のことである。この落書から2ヶ月前の1259年11月に、後嵯峨上皇による院政の下で後深草上皇が新しく誕生されて2院になったことを指摘している。
 上皇が複数あったことは過去にもあるが、この2院の誕生は、皇統を2分する対立になるおそれがあることを、落書きの作者は的確に予測していた。
 そしてその危惧は、60年後に南北朝の内乱として見事に実証されることになる。

 後嵯峨上皇は、第1子の後深草上皇より、第2子の亀山天皇を愛されていたことから、後深草天皇に譲位をせまる経緯があった。
 後嵯峨上皇の第1,2子間における皇統をめぐる対立は、文永9(1272)年に後嵯峨上皇が崩御された途端に、亀山天皇の系統(大覚寺統)と後深草天皇の系統(持明院統)の対立として表面化した。

 両統の名前の由来は、後深草天皇の皇統が持明院を仙洞としていたことから「持明院統」、亀山天皇の皇統は、次ぎの後宇多上皇が嵯峨の大覚寺に住んでいたことから「大覚寺統」と呼ばれた。
 そしてその後、「持明院統」は「北朝」、「大覚寺統」は「南朝」に繋がる。
 
 両統の天皇の系譜は、次のようになる。
持明院統 後深草(89)−伏見(92)−後伏見(93)−花園(95)−北朝に繋がる
大覚寺統 亀山(90)−後宇多(91)−後二条(94)−後醍醐(96)−後村上(97)
     −長慶(98)−後亀山(99)−南朝  *(括弧内は天皇の代数)                            
 
 当初は鎌倉幕府の干渉もあり、両統が交代で皇位についた。そのことは上記の天皇の即位代数を見てもわかる。しかし96代・後醍醐天皇の代になり、皇統の対立は、朝廷と幕府の対立と組み合わされ、南北朝の戦乱となって激化した。

●96代・後醍醐天皇
 ▲乱脈の院政から天皇親政へ!
 後醍醐天皇(1288-1339)は、後宇多天皇の第2皇子である。幼少のときから祖父の亀山法王に非常に可愛がられ、常にそばにおかれたといわれる。
 文保2(1318)年2月16日、花園天皇より譲位され、第96代・後醍醐天皇として即位された。

 「百王百代」の伝説では、もはや残すところ4代である。まさに「聖運ステニスエニアリ」という最後の段階に入っていた。
 その悪夢を現実化するように、当時の皇統は、持明院統の中でもさらに、後伏見、花園天皇が対立し、大覚寺統の中でも後二条、後醍醐天皇が対立するという、まさに4分5裂の状態に陥っていた
 聖運の乱れは、さらに院政の乱脈さにも現われていた。「院政」は、天皇退位後にも実質的な天皇の実権を保持するための制度であるが、93代後伏見天皇の代には、なんと亀山、後深草、後宇多、伏見という多数の上皇が並び立つ異例の状態になっていた。

 一方の幕府の方も、御家人と北条一門との対立、地頭と荘園保護政策の対立、非御家人の台頭などにより、武家政権の基盤も大きく動揺していた
 このような状況の中で、後醍醐天皇の政権は、最初の4年間は、後宇多上皇による院政が行なわれていたが、この上皇は院政を廃して、天皇親政に戻そうとされた。(増鏡、花園院御記、官公事抄、歴代皇記)

 後醍醐天皇は天皇親政に当たって、朝政の再興、人材の登用、記録所の設置、新関の停止、米価の調整などから始められた。
 記録所は、荘園整理の文書の取り扱いのみでなく、院政のもとでの文殿と同様の訴訟全般の処理を扱った。後醍醐天皇の即位をもって始まる戦記文学の「太平記」の冒頭は、後醍醐天皇の治世として、記録所の設置、新関の停止、米価調整を行われた話から始まる。

 新関の停止とは、本来、関所は治安の目的で四境七道に設けられるものである。関銭の徴収を目的とした中世の関所は邪道であり、商人の往反や年貢の運送の煩いになるという見地に立って、大津、葛(楠)葉の2関を除く新関をすべて廃止するものである。

 また米価の調整については、「太平記」は、元享2(1330)年夏の大旱魃にあたって、天皇自ら朝供御をやめて飢人に施行した話とともに、二条町に仮屋を建てて、検非違使に命じて、京都の富裕の輩に安価な米を売らせたことを伝えている。
 ただこの元享2年旱魃という『太平記』の記事は、史実の裏付けはない。(『京都の歴史』2、478頁)

 ▲倒幕計画―正中の変
 後醍醐天皇の倒幕計画は、親政の実現後の早い時期から着手されたと思われる。まず関東調伏の祈祷が行なわれたのは、嘉暦元(1326)年頃と考えられる。
 花園上皇の日記の元亨4(1324)年11月1日条には、異様な無礼講の話が記載されている。太平記にも同様の記載があり、それは倒幕計画の一環であったようである。この倒幕計画の参加者は、中,下級公家、僧侶、御家人などであった。

 ところがこの計画は、不発に終わった。同年9月23日、葛葉の地下人たちが代官に合戦を挑んだことから、六波羅の攻撃を受け、日野資朝、俊基が首謀者として逮捕され、鎌倉へ送られたためである。
 2人は、後醍醐天皇の倒幕計画への参画を否認し、天皇は万里小路宣房を勅使として鎌倉へ派遣され、日野資朝は佐渡に流刑、俊基は許されて京へ帰った。
 この年は12月に「正中」に改元されたので、この事件は「正中の変」と呼ばれた。

 内外の情勢は緊迫の度を深めており、後醍醐天皇は倒幕の意思を固められたが、朝廷の味方に就くのは南都北嶺の僧兵しか見当たらないという心細い状態であった
 このようななかで、元弘元(1331)年4月29日、吉田定房から日野俊基を首謀者とする倒幕の陰謀があるとする密告があり、俊基は禁中に逃げ込んだが、幕府軍は宮中に乱入して俊基を捕らえ、鎌倉へ送るという事件が起こった。






 
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