30.歴史はミステリー(その25) −幕末の薩摩藩と尊王倒幕
(1)薩摩の尊王・攘夷思想
●薩摩藩の成りたち
薩摩藩主の島津家は、源頼朝の三男忠久を始祖とする、古く由緒ある家柄である。忠久が18歳のとき、薩摩国の地頭職(のちの大名)に任ぜられた。そして鎌倉幕府において尼将軍といわれた北条政子と北条氏への遠慮から、九州最南端の僻遠の地がその任地として選ばれた。それが幸いして900年もの長い間、その子孫が栄える起源となった。
戦国時代の武将・島津義久は、その勢力を九州の北部まで伸ばし、筑前、筑後、肥前、豊前諸国まで占領した。しかしその後、豊臣秀吉に敗れて九州南部に退いた。
さらに関が原の合戦においては、石田三成の西軍の総帥として戦ったが、家康の東軍に敗れて、その家領の維持はもはや難しいと思われた。
しかし、島津家と因縁の深かった公家の近衛信尹が、徳川と同じ源氏の家系であることで家康にとりなし、辛うじて取り潰しを免れた。
その結果、島津家は、薩摩、大隅、日向の3国、77万石の太守となり、加賀百万石の前田、陸奥62万石の伊達とならび、外様3雄藩の地位を保つことに成功した。そのことから島津家は、近衛家に奉仕し、盟友関係を続けた。つまり島津家は江戸時代を通じて徳川より、天皇家に近い関係にあったわけである。
徳川将軍家は、島津に警戒心をもちつつも、その家柄を尊重し、第11代将軍・家斉の御台所には、島津家25代・重豪の次女・茂姫が、近衛家養女の格式で迎えられたほどである。
しかし戦国時代までの家臣団をそのまま江戸時代に維持しようとしたため、薩摩藩では人口の3分の1近くを武士身分が占めるという異常な事態となった。
その上、25代重豪が派手好きで奢侈にふけったことから、500万両の借金を抱えて藩の財政は破綻状態になった。
島津斉與のとき、側用人の調所笑左衛門が起用されて、有名な財政改革を行なった。これにより300万両近い剰余金を出すまでに回復することに成功した。
調所は密貿易の責任をとって嘉永元(1848)年に自殺し、その3年後に島津斉彬が藩主になった。この斉彬の藩主への就任をめぐって、島津久光を擁立する一派と斉彬を擁立する一派の間で、有名な「お由良騒動」が起こった。
この薩摩藩を揺るがす大騒動については、小説ではあるが直木三十五の「南国太平記」が面白い。
●藩主・島津斉彬 −徳川慶喜公の擁立と富国・開国政策
嘉永4(1851)年2月、島津斉彬が晴れて藩主になった。斉彬は、幕府が中心になって、それに諸藩が協力して幕政に参与し、その中で薩摩藩が最有力な地位を占め、幕府の対外政策は、鎖国・攘夷よりは開国を行なうという大構想を考えた。
つまり尊王―敬幕―開国という幕府の基本政策に対して、さらに薩摩藩に力点に加えた尊王―敬幕―忠藩―開国という考え方である。
そのため、薩摩藩としては、(1)藩自体の政治的統一・団結の強化、(2)軍備の充実、 (3)経済の振興を行なうことを急務と考えた。
嘉永6(1853)年にペリー艦隊が来航すると、幕府を説得して、寛永の鎖国以来、禁止されていた大船の建造を解禁させ、薩摩藩自ら蒸気船と軍艦の建造に着手した。
これによって薩摩藩は日本の新式海軍の先頭を歩み、幕府を除けば、諸藩の中で最も優秀な艦船を保有した。それが明治以降も海軍に強い薩摩の伝統の基礎を作ったといえる。
この費用は、皮肉なことに斉彬の最大の政敵であった調所笑左衛門の財政改革の資金で賄われた。
斉彬の藩主就任とともに、革新的政策が次々に打ち出されて、14,5年後には薩摩藩を日本一の富国とするという目標をめざす、富国政策がとられた。この斉彬の下で、西郷吉之助、大久保一蔵など、明治維新に活躍する人々が登場してきた。
一方、幕府においては安政4(1857)年10月、ハリスと老中・堀田正睦との間で開国通商条約の草案がまとまり、12月29日と30日の2日をかけて諸大名の意見を聞いた上で、調印を60日延期し、堀田正睦が自ら上京して、朝廷の承認を得る事が決まった。
安政5(1858)年春、堀田は上京して朝廷に承認を願い出たが、外国人を毛嫌いする孝明天皇や公家たちの賛成が得られず、条約締結は暗礁に乗り上げた。
幕府はこの頃、さらに今一つ将軍の継嗣問題という難題を抱えていた。それは13代将軍・家定が病弱で政務に耐えられないことにあった。嘉永6(1853)年の段階であげられた後継者候補は、前水戸藩主・徳川斉昭の子の一橋慶喜(17歳)、紀州藩主・徳川慶福(後の家茂:8歳)の2人であった。
黒船来航という難局に耐えられる将軍として、薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平慶永などが一橋慶喜を押す一方で、悪名高い水戸老公の子として一橋慶喜を排斥する大奥などの勢力があり、それは幕府を2分する紛争に発展していた。
この2大問題に幕府がゆれる安政5(1858)年4月23日、彦根藩主・井伊直弼が大老職についた。井伊は、大老になるやいなや、まず条約調印については諸大名の意見を改めて聞くとともに、腹心の長野義言を使って宮廷工作に着手した。
しかし6月にハリスから英仏両国が日本に大艦隊を派遣して通商条約を迫ってくる情報を得て、追い込まれた井伊大老は、勅許なしで6月19日アメリカ軍艦ポーハタン号上において、ハリスと井上清直・岩瀬忠震による通商条約の調印を認めた。
さらに、将軍継嗣問題については、一橋公を擁立する薩摩藩などによる宮廷工作が行なわれていたが、最終的には不成功に終わり、井伊大老は6月25日に将軍継嗣を紀州の慶福にすると発表した。そして、条約調印その他については、新任の老中・間部詮勝が朝廷に報告するために上京した。
薩摩藩の斉彬の政策はこの井伊大老の専制的政策とは相容れず、安政5(1858)年7月、上京した西郷隆盛は、薩摩藩の新式武器と兵力をバックにして、水戸、尾張などの勤皇の志士に呼びかけて、武力により井伊の専断を阻止する計画を進めていた。
この頃、薩摩藩の軍備は、反射炉を建設し、弾丸、砲具、火薬などの研究、製造を進めており、さらに安政5年7月から、西洋の騎兵用元ごめ銃をまねた銃3000丁を自力でつくり、天保山において諸隊の連合大演習を行なっていた。
この演習を斉彬自身が統率していた最中の7月16日、突然、藩主・斉彬は死去した。あまりにも突然の死であり、政見を異にする前藩主・斉興による謀殺説が存在している。
●藩主・島津茂久と藩主補佐・久光 −公武合体から尊王攘夷へ
朝廷の勅許を得ないまま開国をすすめていく幕府の外交政策は、万延元(1860)年3月の井伊大老の暗殺により大きく方針変更を余儀なくされた。
幕府の外交政策に新しい理論的根拠を提供したのは、長州藩の直目付・長井雅楽が文久元(1861)年3月に藩主・毛利慶親に建白した「航海遠略策」であり、そこには幕府に最も都合のよい公武合体による開国が提言されていた。
この長州藩の意見は、破約攘夷は外国との戦争になるため不可能であり、今できる事は公武合体をして開国進取の方針をとり、国威をはり世界を圧倒すべし、とするものである。
これは幕府にとって現実的に採用できる最良の政策であり、朝廷もこの説に賛成して、文久2(1862)年3月頃には、この長州の政治工作が殆んど成功すると思われていた。
長州の尊王攘夷派も、この長井案は吉田松陰の開国攘夷論に極めて類似しており、薩摩藩にしても島津斉彬の見解はこの長井案と多くの点で一致していた。
そのため最初は尊王攘夷派の中にも長井案に賛成する人が少なくなかった。
この「航海遠略策」の様相を一変させるきっかけを作ったのは、薩摩藩の藩主補佐・島津久光の登場であった。
薩摩藩では斉彬の死後に、薩摩藩主を斉彬の弟の島津茂久が継ぎ、隠居していた斉興が藩政を見ていた。しかしその斉興も翌安政6(1859)年に死去し、斉彬の異母弟である島津久光が茂久を補佐することになった。
島津久光は、イギリス人を殺傷した生麦事件から攘夷論者にも見えるが、本質的にはは幕政の改革と公武合体の実現を目指すきわめて保守的な人物である。
そこで島津久光は、徳川慶喜の擁立と公武合体政策を実現するために兵を率いて上洛し、朝廷を守護する名目で朝廷を威圧する計画をたてた。
これは先代の斉彬と西郷が、安政5年夏にたてた計画を継承したものである。
この大体の了解が朝廷から得られると、島津久光は文久2(1862)年3月、藩兵千余人をつれて鹿児島を出発して京都へ向った。それは前代未聞のデモンストレーションであった。
島津久光は上京すると、寺田屋に急進尊王攘夷派の首脳部を襲撃・鎮圧した。そして公武合体運動のために江戸へ勅使の派遣を建言し、その勅使としては硬骨公家の大原重徳が選ばれて、久光は勅使の護衛として6月に江戸に到着した。
幕府は、無位無官の薩摩藩・陪臣にすぎない島津久光の息がかかった勅使の要請を、受け入れようとはしなかった。しかし結局はこの圧力に押し切られて、徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を大老と同格の政事総裁職に任じ、和宮の降嫁による公武合体策が動き始めた。
この島津久光の上京により、薩摩に倒幕の主導権を奪われるのを恐れた長州藩は、急にそれまでの「航海遠略策」による「開国」から「攘夷」に転向し、さらに「倒幕」を裏に隠した強烈な尊王攘夷運動を、文久3年から推し進め始めた。
島津久光は、寺田屋で尊王攘夷派を殺し、公武合体に成功してその方向に情勢が動き始めたと思っていたら、数か月の間に情勢は逆に「攘夷」に向って動き始めた。
それに失望して久光は薩摩へ帰国してしまい、文久3年5月には幕府も攘夷に向って追い詰められる結果になった。
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