11.歴史はミステリー(その6) −奈良時代の伊勢神宮と東大寺造仏のナゾ
(1)日本の8世紀は、造都と仏教の世紀!
日本の8世紀には、律令制度の実施により天下の富が国家に集中するようになった。しかしその富の大部分は、仏教寺院の建立、造仏、造都や軍事などに消費され、8世紀末になり長岡京や平安京が造られるころには日本の国家財政は殆ど危機的状態になっていた。
その意味で日本の8世紀は、まさに律令国家による造都と造寺仏の世紀であった!
その間に行われた律令制定と造都の状況を、まず図表-1に示す。
図表-1 律令の制定と造都
天皇名 |
律令制定 |
造都 |
天智天皇 |
近江律令,671年施行 |
志賀大津宮 |
天武天皇 |
天武律令,685年施行? |
飛鳥浄身原宮,672年− |
持統天皇 |
|
藤原京,694年− |
文武天皇 |
大宝律令,701年施行 |
|
元正天皇 |
養老律令,718施行? |
|
元明天皇 |
|
平城京,710年− |
聖武天皇 |
|
恭仁宮,739年− |
同上 |
|
紫香楽宮,742年− |
同上 |
|
難波宮,744年− |
同上 |
|
平城京復都,745年 |
桓武天皇 |
|
長岡京,784年− |
同上 |
刪定律令,791年施行 |
|
同上 |
|
平安京,794年− |
上表から見ると、まさに8世紀は藤原京における文武天皇の大宝律令(701年)から始まり、桓武天皇による平安遷都(794年)で終わる律令と遷都の世紀であった。
そしてそこでは、律令制に基づいた天皇の直接支配の確立と、その精神的支柱としての神道と仏教思想の再編成が行なわれた。
この時代の宗教理論は、神道より仏教のほうが遥かに高度であった。そのため奈良時代においては、仏教が政治、思想に圧倒的に強い影響を及ぼした。
その意味から、8世紀の前半は「仏教の世紀」ともいえる。
そのため受身に立った神道側からは、神も仏も同じであるとする神仏習合の理論が提出され、両者が共存する体制が作られた。
この神仏習合の体制は、明治維新で神仏が分離されるまで続いた。
(2)8世紀の伊勢神宮と東大寺
新しい神道による国家支配体制の編成は、天武、持統天皇から始まった。それはまず、従来の八百万(やおよろず)の神々による多神教から、皇祖アマテラス神を頂点にした一神教への神々の再編成であり、それは古事記と日本書紀の編纂を通して行なわれた。
同時に日本の仏教も、この神道における神々の再編成に対応して、聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」という人間の心を中心とした仏教思想から大きく離れた、「国家仏教」に変貌した。
そこでは太陽神アマテラスに対応する太陽仏の大日如来=東大寺・盧舎那大仏を頂点として、全国の国分寺に釈迦仏が配置されて、ピラミッド構造による国家護持の仏教体制が作り出された。
このような仏教の政治への進出により、一方では玄ムとか道鏡などという政治に悪名を残す僧たちが出た反面で、他方には行基上人のような社会事業を推進する僧たちが現れて、仏教が政治に大きくかかわる世紀となった。
仏教の政治への進出により、その存在が危機にさらされた神道は、仏教を神道に取り込むことを考えた。
それが仏の本地は日本の神であるとする神仏習合や本地垂迹説である。
この説から、大日如来とアマテラス神を同一とする考え方が出現し、神と仏はここに一体化して日本国を護持する神仏習合理論が確立した。
このような宗教思想は、明治に神仏分離の政策がとられるまで、千年以上にわたって続き、日本の思想界を支配することになった。
|