22.歴史はミステリー(その17) −足利将軍たちの栄光と凋落
(1)花営三代 −花の命は短くて・・・!
足利幕府の第3、4、5代将軍である義満、義持、義量(よしかず)の時代は、室町の美しい「花の御所」を本拠としており、足利幕府の最も安定した時期であった。そのことから「花営三代」と呼ばれる。
しかしその期間は、三代を合わせても60年足らずの短いものであり、それから後の100年は、応仁の乱を含む大乱の中に巻き込まれて凋落の途を辿った。
足利幕府の将軍たちがいかに大乱の影響を受けたかは、彼らの墓所の所在地が殆んど不明になっていることからも分かる。
なかでも武人・貴族としての位人身を極め、そのはては日本国王にまでなった足利義満の墓所まで、その所在が不明になっていることには驚かざるをえない。
まずは、その状況を図表-1に挙げる。
図表-1 歴代・足利将軍と其の墓所
代 |
名前 |
生没年 |
墓所の所在地 |
第1代 |
足利尊氏 |
1305−1358 |
京都市・等持院 |
第2代 |
足利義詮 |
1330−1367 |
京都市・宝篋院 |
第3代 |
足利義満 |
1358−1408 |
不明 |
第4代 |
足利義持 |
1386−1428 |
不明 |
第5代 |
足利義量 |
1407−1425 |
不明 |
第6代 |
足利義教 |
1394−1441 |
不明、兵庫県加東郡東条町に首塚あり |
第7代 |
足利義勝 |
1434−1443 |
不明 |
第8代 |
足利義政 |
1436−1490 |
京都市・相国寺 |
第9代 |
足利義尚 |
1465−1489 |
不明 |
第10代 |
足利義稙 |
1466−1523 |
徳島県那賀郡那賀川町・西光寺 |
第11代 |
足利義澄 |
1480−1511 |
不明 |
第12代 |
足利義晴 |
1511−1550 |
不明 |
第13代 |
足利義輝 |
1536−1565 |
不明 |
第14代 |
足利義栄 |
1538−1568 |
徳島県那賀郡那賀川町・西光寺 |
第15代 |
足利義昭 |
1537−1597 |
相国寺養源軒・雲陽院(現在不明) |
(出典) 桑田忠親編『足利将軍列伝』秋田書店から作成
●日本国王・足利義満
▲『花の御所』から『北山殿』の造営へ
応安元(1368)年に2代将軍の父義詮(よしあきら)の後を受けて征夷大将軍になった足利義満は、永和3(1377)年に「花の御所」と呼ばれる新邸の造営に着手した。
この邸宅は、北は柳原通り、南は北小路(いまの今出川)、東は烏丸、西は室町に囲まれた広大な敷地を占めており、その規模は南北2町、東西1丁という、当時の内裏の2倍を占める大規模なものであった。
この地は、それ以前は将軍・義詮(よしあきら)が崇光上皇に寄進して仙洞御所になっていたものであるが、それが火災で焼失したのを義満が貰い受けたものである。そこは仙洞御所の頃から『花御所』と呼ばれていたという。
義満は、応永元(1394)年12月17日、将軍を辞して9歳の義持にその職を譲った。そのとき義満は、まだ37歳の働き盛りであった。そして、その8日後の25日に、貴族として最高の地位である大政大臣に任ぜられた。
これによって義満は、今までの「将軍」が経験したことのない公武の頂点を極めたことになる。大政大臣は令制上の最高官であり、当然、それを武家の義満に奪われた公家たちは不満の念を抱いたが、義満の武威の前には屈せざるをえなかった。
その頃の落首に、次のようなのがある。
今よりは大内山の山守は
木こり水汲み世を渡るかな (「春の夜の夢」)
義満のことを、山守,木こりといやしめ、それが大政大臣になることを皮肉って、水汲みでもして世を渡るか?と歌っているが、下克上の世の中では致し方ない。
義満は将軍を辞した翌年に出家したものの、政治の実権は依然として保持し続けていた。『花の御所』の室町殿は新将軍に与えたが、続いて花の御所をこえる北山山荘の造営に着手した。
北山山荘こそは、義満が公武の最高の地位についたことを象徴する壮麗なものであり、応永15(1408)年3月8日、義満は、造営なった北山殿に第100代・後小松天皇の行幸を仰いだ。それは新しい「百王百代」の始まりであった。
天皇の北山滞在は、20日間にも及ぶ異例なものになった。北山殿の規模・景観は、ともに花の御所をはるかにしのぐ壮麗さであり、「西方極楽にも換うべからず」と側近の斯波義将を感嘆させるものであった。
この北山行幸から、わずか1ヶ月後の応永15(1408)年5月6日、義満は急逝した。そして夫人も応永26(1419)年11月に亡くなり、主の居なくなった北山殿は、その後、義満の菩提所の「鹿苑寺」に姿を変えた。
そして舎利殿だけが、鏡湖池畔に北山殿の栄華のあとをとどめることになる。それが現在の「金閣寺」であり、昭和25年に焼失したものの復元・再建されて、北山殿の後を今にとどめている。
▲「日本国王」への野望
北山殿造営の頃から、義満には、「日本国王」への構想が芽生えていたといわれる(「京都の歴史」5、48頁)。「足利治乱記」によると、義満が大政大臣になる際、公家たちが難色を示したときに、義満は彼らに対して次のようにいったという。
「よしよし。義満 日本の国王となりて 斯波・細川・畠山・六角・山名をもって五摂家とし、土岐・赤松・仁木・京極・大内・一色・武田を七清花とし、(中略)鎌倉の管領氏満を以って将軍として武道をたたさしめ、義満帝道にかしこく仁義を糾し文道を発は これぞ聖帝とも言つべし」(文中、カタカナをひらがなに訂正)
この言葉の真偽のほどは分からないが、義満が武士の最高位である将軍と貴族の最高位である大政大臣を越えた、「日本国王」を目指したことは十分考えられる。
義満の死後、朝廷はなんと「太上法皇号」を義満に贈ろうとした。それは死後の義満が天皇を越えた存在になることを意味しており、さすがに次の将軍・義持と斯波義将などが反対して取りやめになった。(「東寺執行日記」)
しかし現実に、臨川寺の義満の位牌には、『鹿苑院太上法皇』と刻されているし、また相国寺過去帳には、「鹿苑院太上天皇」とかかれており(「大日本史料」)、宣下の内示があったことは確かのようである。(『足利将軍列伝』111頁―)
▲倭寇と対明貿易
義満が、日本国王への道を目指していたころ、国際情勢は大きく動きつつあった。
足利義満が征夷大将軍に任命された1368年に、中国では元が滅びて大明帝国が建国され、太祖・洪武帝が即位して年号は洪武元年になった。
翌洪武2(1369)年3月、早速、明の太祖は使者を九州にある懐良(かねなが)親王の征西将軍府に派遣してきた。
使者は、中国における明王朝の成立を告げるとともに、倭寇の鎮圧(=一般的には、中国、朝鮮の沿岸を荒らした日本の海賊を指すが、中には中国、朝鮮の海賊も混じっていたと思われる)を要請してきた。
明の使者は、その際、併せて「臣礼をとって朝貢するか、さもなくば自粛せよ。もし依然として侵略を続けるならば、舟師を差し向けて、そのやからを補促殲滅するとともに、国王を縛り上げる」と日本を脅迫してきたと言われる。(中公文庫「中国文明の歴史」8.明帝国と倭寇、158頁)
明は、前年の秋、大都(=北京)を占領したばかりであり、その調子にのって、まさに日本に対する恐喝ともいえる外交文書を送りつけてきたわけである。
これに対して征西将軍府は、沈黙を以って応えたため、業を煮やした太祖は、翌年、莱州府(いまの山東省掖県)の高官を使者として日本に送りつけてきた。
その際、使者から大陸の情勢を聞かされた日本側は、使者を礼遇し、帰りには僧の祖来を同行させ、臣と称した上表文を提出し、さらに献上品を送り、倭寇が掠めた寧波、台州の70人を送り返した、と明の記録には書かれている。
征西将軍府は、その後、九州探題・今川了俊の攻撃を受けて大宰府を放棄し、さらに次の拠点である筑後の高良山も撤退して、肥後の菊池に引き揚げていた。
そのため使者の明僧たちは、日本国王あての国書を渡せずに洪武7年に帰国した。
日本の国内状況が分からない明側は、日本の『王は傲慢無礼、これを拘留すること2年』といって非常に怒ったといわれる。(中公文庫、上掲書、163頁)
そのため洪武7(1374)年6月に送られた足利義満の使者は、上表文がないという理由で明側が受け付けず、その後を追った島津氏久の使者は、日本国王の許可がないとか、明の年号がないことで却下された。
その後も毎年にように明に渡った日本からの使者や国書がすべて退けられた背景には、上記のような外交事情があったと思われる。
日明の国交正常化が進まないことに業を煮やした明の太祖は、足利幕府に、征討軍をさしむける旨の国書を送ってきた。
しかし明側も元寇の前例もあることから、日本との外交関係を結べないまま、明の太祖・洪武帝は、1398年に死去して第2代恵帝がその後を継いだ。
室町幕府が、はじめて明と通交し、貿易を始めたのは恵帝末期の応永8(1401)年のことである。義満による対明貿易は、これまでの宋、元との外交交渉とは異なり、日本側が明と主従関係を結んだかのような朝貢貿易の形で始められた。
その背景には、義満が日明貿易の重要性を高く評価した事に加えて、洪武帝の時代における日本側の対応のまずさを意識していたことが考えられる。
義満は、この外交交渉を行なうために、正使・祖阿に筑紫商人・肥富(こいずみ)を福使としてつけて、「日本国准三后」と署名した上表文を携えた朝貢船を明国におくった。
これに対して、翌応永9(1402)年に明使船が齎した明の国書には、「日本国王源道義」と書かれており、明との外交交渉がそれまでの征西将軍府から、幕府の将軍を相手にしたものに変わったことが分かる。
ちなみに源道義とは、足利氏が清和源氏の流れを汲むことから、足利義満のことを指している。
ここで義満を日本国王としたことは、日本の国内では天皇の名をかたることになるし、国際的には中国に対して主従の朝貢関係を結んだ事になる。
そのために、その後、義満は歴史的には2重の非難を浴びることになる。
ちなみに、過去の中国と日本の幕府との通交関係を見ると、鎌倉幕府は、元が朝貢を求めてきたのに対して、使者を切り捨てて首を晒すという断固として拒否する措置をとった。しかしその結果は、2度にわたる元寇の役に発展した。
後代の秀吉のときには、明が秀吉を日本国王に任ずる、という国書を届けてきたことに激怒した関白秀吉は、朝鮮出兵に踏み切った。
しかし義満は明の「日本国王」とする処遇を受け入れ、中国からの朝鮮半島の沿岸を脅かしている倭寇の取り締まりの要求も受け入れ、明に朝貢する形で通交に踏み切った。
これは一見、非常な弱腰に見えるが、当時の弱い足利幕府の権力基盤の上で、日明貿易により新しい繁栄を作り出そうとする義満の国家政策であり、それが花営3代の繁栄を作ったとも考えられる。
●将軍・義持と義量
第5代将軍・足利義量(よしかず:1407−1425)は17歳で将軍になり、わずか2年で病死した。従って「花営三代」といっても、実際には、義満、義持の2代が足利幕府の最良の時代であったに過ぎない。その意味では、誠に足利幕府の「花の命」は、はかないものであった。
第4代将軍・足利義持(1386−1428)は、応永元(1394)年に将軍になったとき、まだ4歳にすぎず、実権は義満のところにあった。
しかも義満は義持の弟の義嗣(よしつぐ)の方を寵愛しており、将軍・義持の仕事は、義満の死を待って行なうしかないという状態にあった。
応永15(1408)年5月、義満の急死を受けてようやく始まった義持の政治は、このような事情を背景にして、義満の政策の継承というよりは、逆にその批判ないし修正という側面が強くなったのは当然のことであった。
▲太上法皇号の返上
義満の死後、朝廷はなんと「太上法皇号」を義満に贈ろうとした。それは義満の死後の地位を、天皇を越えた法皇の存在にすることを意味していた。
これに対して将軍・義持と斯波義将は、前例がないという理由から、はっきりと反対の意思を表明したため、その提案は取りやめになった。(「東寺執行日記」)
そして義満が、その権力を、公家を超えた地位に置いたのに対して、義持は、むしろ武士階級を中心にした武家政治に政治領域を縮小する道を選んだ。
▲対明外交政策の転換
日明貿易において、義満の時代には、大明帝国に対し主従関係をとって朝貢する外交路線をとった。そこで義持は、この主従的外交関係を対等の自主外交へ転換をはかった。これは大きな外交政策の転換であった。
明の皇帝・成祖は、使者を送って義持に圧力をかけたが、義持は倭寇が中国の沿岸を侵していることについて、室町幕府の了解の下で行なわれているものではなく、倭寇に対する命令権もないことを明確に主張した。
これは論理的には正しい主張であったが、それにより禁圧が緩んだために、倭寇による略奪はさらに激しくなった。
しかし、義量の次の義教に時代に入り、日本経済の貨幣流通が増加したことにより明の貨幣への依存度が高まり、明との間で『宣徳条約』を締結せざるをえなくなる。
いずれにしても足利義満を中心にした花営三代の時代は、足利幕府の歴史の中では比較的華やかで安定した時代であった。
しかし幕府の政治権力の基盤は、斯波・細川・畠山・六角・山名をはじめ、土岐・赤松・仁木・京極・大内・一色・武田など、多くの守護大名に依存しており、彼らの支えによってはじめて幕府は成立していた。その意味で室町幕府の権力基盤は、その後の江戸幕府の政治権力に比べたら、あまりにも弱体なものであったと考えられる。
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