アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  70  71  72  73  74  75  >> 
  前ページ次ページ
  (5)南北朝分立

●尊氏謀反
 建武元(1334)年頃から建武新政権に対する叛乱が、全国で起こり始めた。正月には北九州で、3月には南関東で、7月には日向と越後で、10月には紀伊で起こった。
 京都においては建武政権の矛盾が激化し、特に内裏造営の強行が、建武政権への批判を大きくした。

 建武2(1335)年6月17日には、千種忠顕に率いられた兵が持明院殿に押し寄せ、後伏見法王や花園・光厳両上皇を京極殿に移した。22日には結城親光、名和長年の兵が洛北の北山第を襲った。この事件は、未然に防がれたものの、西園寺公宗が中心となり、持明院統の上皇を奉じて、後醍醐天皇を殺害し、北条氏の残党と一緒になって全国で兵を起こす計画が露見したものである。(「京都の歴史」2、504頁)

 建武2(1335)年7月、北条高時の遺児・北条時行が鎌倉を攻撃し占拠した。京都にいた足利尊氏は、北条時行討伐のために、征夷大将軍になることを後醍醐天皇に願い出たが、警戒した天皇は、8月1日に成良親王を征夷大将軍に任命した。
 そこで足利尊氏は、勝手に8月2日に兵を率いて鎌倉へ向った。
 天皇はやむをえず、尊氏を征東将軍に任命し、8月10日に尊氏は相模川で時行の軍を破り、19日に鎌倉へ入った。
 これによって関東は平定されたので、当時、この乱を「中先代の乱」といった。これは北条高時以前を先代とし、尊氏を後の代として称したためである。

 朝廷は尊氏の勲功を称して、8月30日に従二位を授与した。しかし尊氏は、鎌倉に居を定め、奏請を待たずに恩賞を行い、社寺に田地を寄付し、奥州管領を任命し、さらには鎌倉幕府の跡に居館を造営し、自ら征夷将軍を称するようになった。
 驚いた朝廷は勅使を派遣して、尊氏に帰洛を促したが、尊氏はこれに応ぜず、結局、11月に朝議は尊氏征討を決めた。尊良親王が上将軍、新田義貞が大将となり、東海・東山両道から東下した。
 
 尊氏は、最後まで後醍醐天皇と直接対決に入ることを避けてきた。しかし12月15日になり、尊氏は上洛を決意し、義貞の軍を追って西上を開始した。
 建武3(1336)年の京都の正月は、騒然とした合戦のなかで始まった。尊氏軍が上洛するだけでなく、細川定禅、赤松範資に率いられた四国、中国の兵も京都に迫っていた。
 内裏では、正月の礼拝も節会も行なわれなかったし、京・白河のあたりでは、家を壊して堀に隠したり、財宝を運び出したり、大変な騒ぎになっていた。

 正月8日に始まった合戦は、9日に到り、尊氏側の勝利は決定的なものとなった。後醍醐天皇は京都を捨てて、翌10日、比叡山に入り、入れ替わりに細川定禅の兵が入洛し、尊氏も京都へ入り、洞院公賢邸に居を定めた。
 しかし間もなく、義良親王・北畠顕家・結城宗広は奥州から、尊良親王は東山道から京都に戻り、叡山に集結したため、官軍は再び力を取り戻して、尊氏の軍勢は官軍との戦いに敗れて、丹波篠村から2月3日には兵庫に逃れ、最後は九州に落ち延びた。

 しかし尊氏は、九州へ下る途中の備後鞆津において、三宝院賢俊を勅使として北朝の光厳上皇の院宣を拝受したとある。また太平記は尊氏が九州から東上するとき、厳島においてこの院宣を拝受したことになっている。
 この院宣の内容は今に伝わらないが、2つの史料が記していることから、尊氏が光厳上皇の院宣を拝受したことは事実であったのであろう。

●尊氏東上し、後醍醐天皇は吉野で南朝建設
 建武3(1336)年2月、尊氏は九州に敗逃したので、2月29日に後醍醐天皇は建武を延元と改元された。それまで建武は、南北朝で統一された年号であったが、それはわずか3年で終わり、それ以後、北朝では建武年号を3,4年と継続したが、南朝の建武3年は延元元年と改元され、元号も2つに分裂した。

 延元元年(1336)年4月、尊氏は博多を出発して東上を開始した。5月には兵庫の湊川で楠木正成を破り、正成は戦死し、後醍醐天皇は再び叡山に移られた。そして6月に尊氏は光厳上皇を奉じて上京し、8月15日に尊氏の奏請により豊仁親王が北朝系の天皇として即位され、光明天皇となった。

 後醍醐天皇は、10月に京都に帰られるが、義貞、恒良、尊良親王とともに越前に赴くことになり、11月2日に神器は光明天皇に引き渡された。
 足利尊氏は幕府を開き、建武の式目を定めた。
 延元元(1336)年12月21日夜、後醍醐天皇は、密かに吉野へ移られ、再び南北両朝に分裂し、年号も南朝は「延元」、北朝はそのまま「建武」を継続することが決定した。

●南北正閏(せいじゅん)論
 明治以降の日本の史学では南朝を正統、北朝を閏位としてきた。この根拠は大日本史にある。そこでは南朝を正統として天皇と書き、北朝を退けて皆某院といい、その本紀を立てず、後小松天皇の付録とした。
 そして北朝に引き渡した神器はニセモノであり、本物は吉野の行宮にあったとする説を立てた。その論拠は、北畠親房の論による。

 この問題は、天皇制の本質にかかわるデリケートな問題である。明治の終わりの頃、つまり明治44(1911)年1月、24名に死刑の判決が出された大逆事件の熱気がうずまいた翌2月、代議士の藤沢元造氏が、国定歴史教科書の南北朝正閏問題について、質問書を政府に提出した。
 
 ここから南北朝正閏問題は、社会を揺るがす大問題に発展した。代議士の藤沢元造氏が問題にしたのは、国定教科書が南北朝について述べている中に、「南北朝の事は正閏軽重を論ずべきにあらず」、とか「両皇統の御争いとなり」と書いてあることにあった。藤沢氏の論は、南北朝は政治家の争いであり、皇統の争いではないとする主張にあった。

 今見ればごく常識的で、どこが問題かよく分からないほどの国定教科書の表現に対して、この質問書が出されたために、社会的な大事件に発展した。
 驚いた文部省は小松原大臣が藤沢氏に会い、この質問の撤回を求めたが、藤沢氏は応じなかった。さらに、この問題は、文部省が明治43年12月に、全国の師範学校の校長を集めて10日にわたる講習会を行なった際の、文学博士・喜田貞吉氏による講演内容に及ぶことになった。
 この講習会において、喜田氏は「憲法上から見たわが国の国体並びに家族制度」というテーマで講演を行なっており、そこで南北朝正閏問題にふれられたことが大問題に発展した。

 この講演における喜田博士の論説の中で、北朝正統論ともとれる部分があり、これが物議を呼ぶことになった。この問題に対して文部省は、南北朝の対立はわが国の歴史上の変体とし、また宮内省は調査中として早急な結論を避けた。
 ところがこの問題の中心人物である藤沢代議士が、突然、質問書を撤回し、議員を辞職するという不可解な行動に出たことから、事件はさらにエスカレートしてしまった。

 喜田貞吉氏は、非常に優れた歴史学者である。この南北朝正閏問題については、3月に「南北朝論」として大部な正論を書かれた。しかし、それは戦後まで出版できなかったほど事態はエキサイトしていた。
 大逆事件以後の世相は、もはや完全に冷静さを失っており、それ以来、多くの歴史家は日本史の中で皇統に関する部分について、論議を避けるようになった。

 その一方で、皇国史観を背景にした歴史物語が横行するようになった。南北朝時代は研究者の不足、史料の不足もあいまって、日本の歴史の中で最も開明が進んでいない暗黒の領域となって残ることになった。

●後醍醐天皇の崩御
 延元元(1336)年12月に、後醍醐天皇が密かに吉野に移られた頃、後醍醐天皇を支持する勢力は、1.新田義貞,2.楠木一族,3.北畠親房、4.陸奥の北畠顕家の4つあった。
 しかし1336年には楠木正成が戦死、1338年5月には陸奥の北畠顕家が戦死、同年7月には新田義貞が戦死、同年、楠木正行が戦死した。

 そして後醍醐天皇は、延元4(1339)年秋、病を得られて、8月16日に崩御になった。この頃には、後醍醐天皇を支えた勢力は殆んど失われており、もはや北畠親房を残すだけになっていた。
 南朝では義良(よしのり)親王が後村上天皇として践訴されていたが、まだ12歳であり、天皇を支えるべき北畠親房は遠く常陸にあった。

 後醍醐天皇崩御の風聞は、19日には京都に伝わった。幕府は8月27日に政務を7日間停止する事を発表したが、北朝は配流の上皇の例に準じて政務を止める決定をしなかったので、公家の間から疑問の声が上がったといわれる。(「中院一昌記」)
 しかし幕府が7日間の政務中止を行なったことを知り、北朝も翌月1日に7日間の政務中止を決めた。
 
 10月1日、尊氏、直義は、光厳天皇に対して、亀山殿を禅刹として後醍醐天皇の冥福を祈ることを奏請した。その結果、夢想国師を請じて天竜寺を建立する事を決めたが、北朝の貴族から激しい反対運動が起こった。その理由は、経済的な裏づけによるものが大きかったようである。
 そのような紆余曲折をへて康永4(1345)年8月16日、後醍醐天皇の7周忌が、天竜寺の落慶法要となった。

 南朝を支えた主要な武将を次々に失い、その上、後醍醐天皇まで失った南朝系は、のこすところは北畠親房だけになった。しかし南朝系の凋落は激しかったにも拘らず、フシギなことに後醍醐天皇の崩御の後、南朝系の勢力が盛り返し、さらにそれから50年永らえることになり、逆に北朝系の勢力が衰える。
 この意外なドンデン返しの理由は、幕府の中に思いもよらぬ紛争が起こったことにあった。






 
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  70  71  72  73  74  75  >> 
  前ページ次ページ