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日本人の思想とこころ
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  (6)幕府の内部紛争から南北朝の合体まで

●室町幕府の開設計画と内部紛争の勃発
 足利尊氏は、光明天皇を擁立し、後醍醐天皇に和睦を申し入れて御帰洛を願い、神器の授与を受けた。建武3(1336)年11月、「建武式目」を作り、幕府開設を法家の人々に諮問した。
 足利幕府の開設の場所として、最初は鎌倉が考えられたようであるが、京都を主張する者の方が多く、結局は京都に「室町幕府」を開く計画までいった
 ところがそこから先へ進まなくなった。それは幕府の内部紛争が起こったことによる。

 足利幕府の内紛は、尊氏の弟の足利直義(ただよし)と尊氏の執事の高師直(こうのもろなお)との軋轢から始まった。この両人の間には既に長い軋轢があったが、正平4(1349)年6月にそれが破裂した。
 8月に、高師直は足利直義を討とうと兵を挙げ、直義は尊氏の屋敷に逃げたが、8月14日、高師直は大軍を率いてこれを囲み、京都の町は大混乱に陥った。12月8日、直義は出家して、師直、直義の対立は、師直の完全勝利に終わった。

 ところが翌観応元(1350)年10月、直義は突然、京都を逃れて大和へ走り、12月にはなんと南朝方に入った。そのため幕府は、直義追討の軍を起こした。
 翌観応2(1351)年1月には、両軍が京都で大合戦を行い、尊氏、師直方は大敗し、丹波に逃げた。
 その後、両者の和解交渉が成立し、ともに京都に戻ったが、8月には、再び尊氏、直義の対立が起こり、直義は北陸から鎌倉へ逃れた。11月のことである。
 尊氏は直義との和議の条件として、南朝の正当性を認めた。

●尊氏による南朝正当性の承認
 このことにより後醍醐天皇の崩御後、瀕死の状態にあった南朝は完全に蘇り、逆に北朝系が追い詰められるという逆転現象が起きてしまった。
 正平7(1352)年2月26日、足利直義が突然死去して関東は平定されたが、尊氏が南朝の正当性を認めたことから、次は京都で大事件が起こった。
 
 尊氏が南朝の正当性を認めたことから、南朝が北朝に対して政権の接収を要求してきたのである。11月24日に勅使として中院具忠が上洛し、南朝方の政権摂取の条件を示した。翌年春には後村上天皇の帰洛を予告し、12月23日には北朝の神器を「虚器」として接収してしまった。

 年が変わり、2月3日に南朝は足利義詮のもとに、後村上天皇の上洛を伝えてきた。そして2月20日には後村上天皇以下の南朝方は京都に入り、七条大宮の地を中心に義詮の軍と戦い、これを破り、さらに21日には、光厳、光明、崇光の3上皇と直仁親王を、八幡に連れ去ってしまった。
 つまりこのとき北朝方は、上皇、天皇、皇太子のすべてを南朝の手に渡して、京都は完全に南朝方の手中に入った

 その後、3月15日から足利義詮軍は急速に力を盛り返し、京都は幕府の手に戻し,南朝方は京都を去り、吉野へ帰った。南朝方は、文和4(1355)年に足利直冬と連絡を取り、入京に成功するが、僅か3月で京を追われることになり、その後、急速に南朝の力は衰えていった。

 しかし幕府の側にも問題がたくさん残っていた。正平7(1352)年、3上皇と皇太子直仁親王が河内からさらに大和賀名生に移されて後、同年8月に後光厳天皇を擁立し、年号を文和と改元したが、神器もなく、その合法性が怪しくなっていた。

●南北朝の合体へ
 ところが一方の南朝のほうも、最後に残っていた中心人物の北畠親房が、正平9(1354)年4月18日に死去し、尊氏もそれから4年後の、正平13(1358)年4月に京都で死去して、義詮が征夷大将軍に任命された。
 しかし足利尊氏も北畠親房も亡くなった後、南北両朝ともに内部の権力闘争が複雑化してきていた。

 応安元(1368)年、足利義満は父義詮の後を継承して征夷大将軍になった。そしてそれまで三条御所と呼ばれていた「将軍御所」を、永和3(1377)年、室町に場所を移して造営に着手した。その幕府の居城は、「花の御所」と呼ばれ、天皇の土御門内裏の2倍になる広大な敷地を占めていた。ここに前後5年をかけた大工事により、永徳元(1381)年3月、後円融天皇の行幸を迎えて、4月に落慶供養の式を行なっている。

 一方の東洞院土御門内裏は、もと藤原氏の邸地内であり、平安末に高倉天皇から安徳天皇への譲位に当たって里内裏となり、さらに仙洞御所や皇妃の住居ともなっていた。
 足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立した建武3(1336)年以来、北朝の内裏となっていたが、明徳3(1392)年の南北朝合一により、これが正式な内裏として確定し、現在の京都御所として残っている。

 さて室町初期の北朝は、南朝との対立以外に持明院統内部における皇統をめぐる対立があり、幕府の体制確立のためにも南北朝を合一して、さらに公武権力の統一を行なう必要に迫られていた。
 そこで義満は南朝との交渉を重ね、明徳3(1392)年1月、南朝より示されていた合体条件を承認した。それは次の3点であった。
(1)譲国の儀式をもって後小松天皇への三種の神器の引渡しを行なうこと。
(2)皇位は大覚寺統、持明院統の交代とすること。
(3)諸国の国衙領は大覚寺統の支配、長講堂領は持明院統の支配とすること。
の3点であった。(「京都の歴史」3、62頁)

 条件受諾の結果、後亀山天皇は10月28日に吉野を出発して京都に帰り、大覚寺を居所と定められた。5日に三種の神器の受け渡しが行なわれたが、神器が東洞院土御門の内裏に移されただけで、両天皇の対面はなかった。譲国は行なわれなかった。

 北朝は南朝との合体は完了したが、後亀山天皇にはなんの音沙汰もなく、明徳5(1394)年になって初めて「太上天皇」が贈られたという。このとき天皇の代は、既に北朝系の後小松天皇になっていた。
 義満没後の応永17(1410)年、後亀山天皇は、将軍義持と対面直後に再び吉野へ向われているが、このときにはもはや「南朝」そのものが消滅していた。 






 
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