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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方
(1)もはや実施は不可能になった? −東京遷都
(2)東京の改造・遷都問題の経過
(3)東京の改造・遷都計画の40年(その1)
(4)東京の改造・遷都計画の40年(その2)

2.江戸時代の首都は多機能であった!
3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!
4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末
5.歴史はミステリー(その1) −日本は、いつから「日本」になった?
6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々
7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝
8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ
9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生
10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
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  1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方

(1)もはや実施は不可能になった? −東京遷都 
 今、東京・横浜大地震の発生が急速に現実性を帯びてきている。そのため日本の首都機能の分散と多極化は、もはやまったなしの段階に追い込まれている。

 この状況をふまえて、既に1960年代初頭から首都・東京の改造と遷都が提案され始め、1988年に日本の国土を多極化しようという法律(*1)まで制定されている。
 さらに最近では1992年12月24日に、国の立法、行政、司法のような中枢的な機能を東京圏から外へ移転させる法律も制定された(*2)。
    *1 多極分散型国土形成促進法
    *2 国会等の移転に関する法律
 この法律により、政府は立法、行政、司法の機能の中枢的なものを東京圏以外の地域へ移転させ、多極分散型国土を作ることを国民に対して義務づけられている。

 しかし2005年現在、この東京の改造・遷都問題は殆ど暗礁に乗り上げている。もはや東京・横浜大地震にでも遭遇して大被害がでる事態にでもならない限り、首都遷都はまず先に進める環境にはないように私には思われる。
 最初に、その理由を簡単に述べることから話を始めよう。

●それは黄金の60年代から始まった。
 今から考えて見ると、1960年代は日本の政治経済にとって「黄金の時代」であった
 その60年代には「岩戸景気」(59-61)から始まり、63-64年の「オリンピック景気」、66-70年の「いざなぎ景気」と好況が相次ぐ稀有の10年を日本は経験した。

 しかしこの相次ぐ好況の中で、東京への一極集中が進み、地価高騰、過密化、災害の危険性なども一挙に問題として浮上してきたことは当然のことであろう。
 ただこの時代には、東京への過度の集中が一方的に進んだわけではない。太平洋ベルト地帯を中心とする鉄道、道路、情報のネットワーク化も同時に進み、コンビナートが各地に形成され、新しい工業の立地に伴う地方都市の活性化も同時に進んだ。

 また東京では、本格的な都市の高層化が始まり、東京オリンピックを境にして東京の市街は大きく変化していった。その意味では、60年代には、地方都市と密接なネットワークで結ばれた新首都を現実的に作り出す最適環境が整備されていたように見える
 東京の遷都が話題になり始めたのは、池田勇人・首相による『国民所得倍増計画』(1960年)が始まり、首都東京における地価高騰、過密化、災害危険性などの問題点がいっせいに顕在化してきた頃からである。

 この計画に関連して第1回『全国総合開発計画』(一全総:1962年10月)が発表された。そしてその計画の中で、大都市の過密・過大化の問題とその対策が提起されている
 その対策案を契機に、東京湾を埋め立てて東京を大改造する丹下健三の『東京計画1960』という東京改造計画や、建設大臣・河野一郎による、富士の裾野一円に新首都を展開する遷都案などが発表された。これらの案のいくつかを図表-1に揚げる。

 1964年には東京においてオリンピックが開催され、この大会に年間の国家歳出の2割を越える1兆円の巨費が投じられた。そしてこの大会に備えて、東京都には道路、水道、競技場などの諸施設が整備された。この頃から東京への1極集中が問題となり始め、都市改造を超えて、新しい首都形成や遷都論が登場し始めた

 東京遷都論については図表-1にその経過をまとめたが、その初期の代表例が1964年6月に建設大臣・河野一郎により提案された「新首都建設の構想」である。この提案は首都東京を『全日本の人口分布の重心点』=富士山麓一帯に移し、そこに、皇居、国会、最高裁判所、総理府などの首都機能を展開しようというものであった。

 天才肌の党人派・政治家であった河野一郎が、池田内閣において農林大臣から建設大臣に横滑りしたのは62年7月のことである。その2年後、池田内閣における最後の改造(64年8月)により大臣の座を降りているので、その任期は2年少々という短いものであった。しかしその間に、河野一郎は、並の建設大臣とは違う重要な仕事をしている

 その一つが「新首都建設の提案」であり、今一つは「建築基準法の大改正」である。この後者の改正により、日本の都市の高層化を長い間阻んできた建築の高さ制限が撤廃され、日本においても西欧なみの超高層ビルの建築が可能になった。

 河野大臣による新首都建設の提案は、今から考えて見ると、国家レベルで実現可能な最初で最後のチャンスであったと私は思う。
 当時は一全総により全国的に新産業都市による拠点開発が進行しており、その中心が太平洋ベルト地帯であった。その太平洋ベルト地帯の更に中心の富士の裾野一体に首都機能を展開しようという思想は、その時代にはかなり受け入れやすい考え方であったと思う。

 60年代には、新幹線、高速道路網による交通ネットワークが現実的に形成されつつあり、しかも更にその中心に新首都を展開するものであったからである。

 まず新幹線は、64年10月1日に東京―新大阪間が開業した。これによって東京―大阪の間は、わずか4時間で結ばれるようになり、更に、1年後にはその所要時間は更に3時間10分に短縮された。その中心である富士の裾野一体に新首都を展開した場合、最寄り駅は静岡ないし浜松になるが、そこは東京、大阪から共に1時間半以内で到達できる。

 高速道路も、63年7月には「名神高速道路」が開通し、67年7月には「中央高速道路」も開通、68年4月には「東名高速道路」が開通した。つまり太平洋ベルト地帯の新幹線、高速道路などのネットワークは60年代にはすべて完成していた
 そのネットワークの中心部に新首都を展開しようというのが河野建設大臣の構想であり、その意味では極めて高い現実性を持つものであった

 さらに、この当時の国家財政の状態は収支均衡しており、国債残高、つまり国民からの借金はゼロである。このような段階で、現実性の高い遷都構想が実現に向かって動き始めなかったのは、この構想が発表された翌月の内閣改造において河野一郎は建設大臣を解任され、さらにその3ヵ月後に池田内閣が終焉を迎えたことにある。
 しかも次の内閣総理大臣・佐藤栄作と河野一郎は犬猿の仲といわれ、もはや河野一郎の出番はなく、天才政治家・河野一郎は解任の直ぐ後に大動脈瘤破裂で急逝した。

 それから30年後に制定された「国会等の機能移転の法律」は、上記の河野構想に比べて計画の規模は大幅に縮小されている。そこでは東京から移転する首都機能は、国会等の行政機能という最小限になっている首都機能として重要な機能は、その他にも皇居の存在や経済の中心機能など存在しているが、それらについてはまったく触れていない。

 民間の経済機能については政府が一方的に移転させることはできないが、皇居の移転は1964年の河野構想には明確に含まれていた。それらが脱落して現在の首都移転案はかなり縮小されているにも拘らず、移転費用は時間の経過とともに大幅に増大している。

 1992年の国土庁の試算によると、新首都への移転費用は14兆円(基盤整備費2兆円,施設整備費7兆円、用地費5兆円)といわれ、さらに、実際に移転が現実化すれば、その数倍の数十兆円、経済機能の移転まで入れると200兆円規模になるともいわれている。

 この莫大な費用に対して、新首都に予想される人口は60万人、そのうち東京から移る人口は30万人と予想されている。これでは東京の過密都市の解消には焼け石に水であり問題にならない。

 しかもこの30万人の移転費用を14兆円とすれば、1人の移転費用がなんと5千万円もかかる。東京の過密化は全く解消されない上に、実際の移転費用には1人1億円以上はかかるという試算もあり、これでは何のための遷都か分らない。
 国も地方も殆ど財政が破産状態にある現在の日本において、遷都計画はもはや現実的には実行不可能になったと考えるべきであろう。




 
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