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日本人の思想とこころ
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  (2)14-15世紀の倭寇

●前期倭寇の発生と展開
 ▲倭寇の3段階
 中世の倭寇は、3つの時期に分けられる。
 第1期は、14世紀の後半からの約70年間、日本では南北朝時代から南北統一王朝ができるまでであり、朝鮮では、高麗末から李朝のはじめの頃まで、中国では元末から明初の間がそれに当たる。
 この時期の倭寇は、「前期倭寇」と呼ばれる事も多く、倭寇が侵攻した先は、主として朝鮮半島である。

 第2期は、16世紀の前半期から後半期にかけての期間である。それは日本では足利幕府の時代であり、中国では主として明の世宗朝の嘉靖(かせい)年間にあたる。
 この時期の倭寇は、「後期倭寇」と呼ばれる事も多く、侵攻した先は、主として中国である。

 第3期の侵攻は、16世紀末から始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵である。これは日本では「文禄、慶長の役」といわれ、朝鮮史では「壬辰倭乱」、「丁酉再乱」と呼ばれる。

 ▲「前期倭寇」とは?
 この時期の倭寇を見ると、その初見は、「高麗史」の高宗10(1223)年5月の条の「甲子、倭、金州に寇す」という簡単な記事に始まる。

 13世紀から14世紀の前半まではその件数も少なく、倭寇の朝鮮半島への侵攻が本格化するのは、14世紀の後半からである。
 倭寇の侵攻先も、14世紀の前半までは朝鮮半島に限られているが、14世紀の後半からは中国への侵攻が始まる。しかし中国への侵攻件数は少なく、この時期の倭寇の侵攻先は、主として朝鮮半島を中心にしているのが特徴である。

 田中健夫氏が作成された倭寇年表(*1)によると、1223-1350年の間の倭寇は年間1,2回の頻度でしか侵攻していない。つまり倭寇が本格化するのは、日本の南北朝時代からである。
 元寇の後、鎌倉幕府は、さらなる蒙古襲来に備えて、1293年に鎮西探題を置き、高麗と元に対して先手を打って、日本から攻撃する検討を始めた。
 14世紀初頭に倭寇の件数が増えるのは、この元寇による日本人の意識変化に関わっており、さらに、南北朝の内乱により倭寇の活動は激化していく。
(*1)田中健夫「倭寇と勘合貿易」至文堂、4-10頁

 この倭寇における意識変革は、1350年、高麗の忠定王2年から急に倭寇の件数増加となって現われ始める。この年の「高麗史」の記事には、2月の条に「倭、固城・竹林・巨済・合浦に寇す。千戸崔禅・都領梁かん等、戦いてこれを破り、残獲すること三百余級。倭寇の侵はここに始まる」と記されており、本格的な倭寇は1350年から始まったとする記事が見られる
 さらに4月には100余隻、5月には66隻が順天府を、6月には20隻が合浦(会原)を、また同月長興府を、11月には東莱郡を襲った。
 それ以降は、年を追って倭寇の襲撃が激烈の度を加えていった。

 ▲前期倭寇の特徴
 高麗の忠定王に続く恭愍王の時代(1352-1374)に、倭寇の活動はさらに本格化する。田中健夫氏(*2)によると、この時代の倭寇の特徴は次の点にある。
 (1) 行動目標を米穀など生活物資の獲得におき、租粟の運搬船やその備蓄
    倉庫を攻撃対象にしたこと。
 (2) 首都・開京(開城:ソウル)付近に攻撃を加えていること。
 (3) 兵数3000とか、船数400余隻という大規模な倭寇が出現したこと。

 次の辛○王(前廃王)の時代(1375-1388)に、倭寇の侵掠は極点に達する。それまでの倭寇は、人畜の殺戮はしなかったが、この頃から入寇のたびに婦女幼児まで皆殺しにするようになった。
 この時期の倭寇の特徴は、次のものである。
 (1) 倭寇の足跡が竜州(義州付近)に達したこと。
 (2) 全羅・慶尚の奥地まで進攻したこと、倭寇のなかには大規模な騎馬隊が
    存在していたこと。
 (3) 朝鮮の日本海側斜面、つまり江陵道を北上する倭寇があったこと。
                  (*2)田中健夫「前掲書」11-13頁

 さらに、この頃の倭寇に新しい状況が生まれたことから、前期倭寇の活動は衰退に向う。それまで受身の立場をとってきた高麗が、一転して倭寇に対して攻勢に転じたのである。
 それは1389年2月、慶尚道元帥朴普iぼくい)が、100隻の兵船をもって対馬を攻撃し、300隻の倭船を焼いた(「高麗史節要」)ことに始まる。
 次の恭譲王の時代に高麗朝は倒れ、倭寇対策は李氏朝鮮に引き継がれる。そして1419年、李氏朝鮮の太宗王は大軍を派遣して対馬を攻撃した。6月に対馬の浅芽湾に侵入した朝鮮の兵船は227艘に及んだといわれる。
 李氏朝鮮による攻撃の目的は、倭寇の根絶にあり、そのため倭寇の勢力は一時衰え、前期倭寇の時代はここで終わる。

●倭寇の根拠地はどこか?
 李氏朝鮮王朝を建国した李成桂は、朝鮮半島の沿岸各地に出没した倭寇を駆逐する成果を挙げた。その実績により、中央に進出して国政に関わるようになった人物である。1392年7月に李成桂は、無血で高麗王朝を廃止して李氏朝鮮王朝を建国した。

 1399年に即位した李朝2代目の定宗は、日本に使節を送り、その使節が足利義持時代の義満と会見した。そこでは近隣友邦の促進、倭寇の禁止について討議され、その後に通信使の派遣が始められた。
 朝鮮では「三島倭寇」といって、この2代目・定宗の時代に「三島の倭寇が、わが国(=朝鮮)に患となって50年」といわれたとされる。
 つまり前期倭寇の主体は「三島の倭人」であったといわれるが、その「三島」とは、一体どこのことであろうか?

 田中健夫氏によると、その「三島」とは、対馬、隠岐、博多地方または肥前松浦地方であったらしい。そして博多地方は「三島」とは別格であり、対馬、隠岐、肥前松浦、そして博多の4ヶ所が、前期倭寇の根拠地であったらしい。
 日本には鎌倉時代から活躍する水軍は、熊野、村上、小早川などいくつか知られているが、前期倭寇に関わったのは九州の水軍であった

●倭寇の組織はどのように編成されていたのか?
 倭寇の組織についても、田中健夫氏が前掲書で推定されているものを紹介させていただく。倭寇の船団は、はじめは2-3隻の小船団も行動していたようであるが、恭愍王時代(1352-1374)になると、少ないものでも20-30隻、多いものになると200-300-500隻という大船団が編成されたという。
 人数も少ないもので5人位から、多いものは3000人位になった。

 小船団であれば辺海無頼の海賊も考えられるが、これだけの大船団と大軍が無統制、無規律で行動しているとは考えられない。当然、これだけ大きな集団には、それなりの統率者がいたと考えるのが常識であろう。
 高麗は、この統率者と手を組むことにより、倭寇を終わらせたいと考えた。明使が足利義満に申し入れてきたのもそれであった。
 さらに、倭寇が九州を拠点として編成されているとすれば、九州探題の大内氏、対馬の宗氏なども交渉相手として浮上してくる。

 その意味から、田中健夫氏が掲げられている、永享元(1429)年12月に日本から帰国した通信使・朴瑞生が復命している史料は、非常に興味深いものである。
 そこで、一寸長いが、貴重な史料なので田中健夫氏の著書(*3)から、以下にそのまま孫引きさせていただく。 (*3)田中健夫「前掲書」18頁

 「対馬・壱岐・内外大島・志賀・平戸等は赤間関以西の賊であり、四国以北竈戸社等は赤間関以東の賊である。その兵は数万に近く、その船は千隻を下らないから、東西呼応して兵を興したら禦ぎ難いものになる。
 その西向きの路では対馬島が諸方海賊の集合地であり、赤間関は四国の諸海賊の出入の門である。もし宗貞盛が西向の賊に、大内氏が西出の賊に禁令を下したならば、海賊は朝鮮に来ることができない。
 しかも志賀・竈戸社島等の賊は大内氏が支配し、内外大島は宗像氏が支配し、豊後州の海賊は大友氏が支配しており、壱岐・平戸の島は志佐・佐志・田平・呼子氏が分割支配している。これらの諸氏が厳重に禁防を立てたならば海賊はどうすることもできない。」

●倭寇の船
 当時の造船技術は福建、広東が進んでいた。海船は福建のものが最もよく、広東がこれについでいた。ついで浙江、寧波、温州船の名が挙がっている。
 兵船は少し事情が違い、明の鄭若曾の著書「籌海図編」(そうかいずへん:倭寇研究に不可欠の史料とされる)によると、兵船は福建船より広東船のほうが良いという。それは広東船のほうが大型で、船材に南方産の硬木タガヤサンを使うため、両船が衝突したときは、福建船のほうが壊れるといわれた。

 同書は、日本船と中国船の違いも論じている。日本船は中国船と違い大木を使い、柾目の合ったのを撰ぶ。結合部は鉄釘ではなく、鉄片でとめる。それに麻すじや桐油を使わず、隙間には、短水草(マヒハダクサ)をうずめるだけである。とにかく膨大な材木を使用し、費用も高い。そのため有力な船主でなければ、容易に造ることができない。

 日本では千百隻の大船を造ったというが、それはでたらめである。いまの倭寇は皆貧しく、その船は大きいものでも300人、中くらいで100-200人、小さいもので40-50人から70-80人であり、船の形も丈が低くて狭い。
 巨艦に合うと迎撃するのも容易ではなくて沈みやすい。そのため彼らは、広東船や福建船を恐れている。

 日本の船は平底船であり、波浪を突き切ることが出来ない。その上、帆の中心が帆柱の真ん中にいくようにかけられ、中国のように、帆の端をかけないから、無風のときとか、逆風のときには、帆柱を倒して櫓をこぐ。そのため外海をよぎるには、どうしても1ヶ月あまりの日数がかかる。
 同書によると、福建の人が倭船の改造をしてやって、その改造船を日本人が利用するようになってからは、僅か数日で来るようになったと書いている。

 中国がほこる福建戦艦の構造は、丈が高くて大きく、楼閣のようであり、百人は乗せられる。船底は浪を切るように尖っており、上部は幅が広く、船首は高くもたげ、かつ開いている。船尾も同じように高くしており、そこに3層の舵楼が設けられている。
 舷側はみな護板を張り、その上に大きな竹を縦に並べ垣のように廻らせてある。その上は兵士が起居する場所で、板で蔽い、上から梯子で降りる。
 
 第3層目は、左右に6つの門があり、中に水桶が置かれている。その前後には木の錨があり、棕櫚で結わえて上げ下ろしする。最上階は露台のようになっていて、穴があけられ、第3層から穴を通って出てくる。
 舷側に欄干式の板を廻らし、人がそれによって敵を攻撃する。矢、石、火砲を使って、上からねらい打ちにする。敵の小船に会うと、体あたりで沈める。船が高いので、敵は迎攻が難しい。
 これが福建の長所であり、海賊の武器である。順風や潮に乗るとよく走るが、引き返すには不便である。

 倭寇撃滅の名将・戚継光が、福建戦艦と倭寇船の長短を次のように述べている。
 福建船は、高大なること城のようであるが、人力では動かしがたく、すべて風力によらねばならない。これに対する倭寇船は、矮小なること蒼山船(浙江台州の太平地方で使われた漁船。帆櫓兼用の小型船で、小さい倭船の追跡用に使った)の小型のようであるから、ひとたび福建船が風にのってこれを制圧すると、あたかも車がかまきりを引き殺すようにものであった。
 もし倭船が、福建船と同じ位大きかったら、かなり対策に悩まされたであろう、と書いている。
 また福建船の吃水は、1丈1,2尺あるため、大洋では有効であるが、浅瀬があれば座礁し、また無風では使えない。そのため倭船が、内海に入ったり、浅瀬に沿っていく場合には、福建船は手も足も出ない。
   (三田村泰助「中国文明の歴史 8 明帝国と倭寇、中公文庫、13-18頁」






 
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