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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方
2.江戸時代の首都は多機能であった!
3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!
4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末
5.歴史はミステリー(その1) −日本は、いつから「日本」になった?
6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々

7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝
(1)4〜5世紀の朝鮮半島へ侵攻した倭国王はだれか?
(2)広開土王陵碑文に見る三国動乱の時代
(3)4〜5世紀の倭国は?

8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ
9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生
10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
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  7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝

(1)4〜5世紀の朝鮮半島へ侵攻した倭国王はだれか?
 4世紀から5世紀にかけて朝鮮半島の国々は、それまで多くのの小国が競い合ってきた三韓(=馬韓、弁韓、辰韓)の時代から、3つの大国(高句麗、百済、新羅)が競い合う三国時代に入った。そこへ海を越えて倭国の兵がたびたび侵攻し、動乱の時代を迎えた。
 この倭国の兵は、どの天皇の時代の兵で、何を目的に朝鮮半島に侵攻したのであろうか?

 4世紀のはじめ、朝鮮半島では北部地域を支配する強国・高句麗(=現在の北朝鮮)が、それまで中国の支配下にあった楽浪郡を奪い返し、漢民族を朝鮮から駆逐することに成功し、強大な国に成長した(302年)。

 また4世紀の中ごろ、朝鮮半島の南西部では、54ケ国からなる小部族国家であった馬韓を、百済が統一して建国した(346年)。さらに、同じく東南部では12ケ国からなる小部族国家の辰韓を統一して、新羅が建国した(356年)。ここから朝鮮半島では、所謂「三国時代」が始まった。

 実はこの時代には、三国の他に半島の最南端に古くからの「弁韓」=加羅の国々があった。この「三国時代」に取り残されそうになった加羅の国々は、軍事的に有力な倭国との連携を図った。
 これが3世紀の終わり頃から形成されたと思われる「任那加羅」(その後の「任那日本府」)という軍事同盟?であったと考えられる。しかし、この時代の日本書紀の粉飾が激しいため、そのころの三国と倭国の歴史との対応がつかない。
 この朝鮮半島における3国が抗争した時代に、倭国がどのようにかかわっていたのか? それをできるだけ史料に即して考えてみたい。

(2)広開土王陵碑文に見る三国動乱の時代
●広開土王陵碑文について
 中国吉林省を流れる鴨緑江沿岸の集安という所に、高句麗の全盛期の第19代・広開土王(好太王)の功績をたたえて、その息子の長寿王が西暦414年に建立したという巨大な碑が建てられている。
 これが有名な「高句麗広開土王碑」である。その石の表面には1800字に及ぶ碑文が刻まれており、1600年の風雨に晒されていくつかの文字は判読できなくなってはいるものの、そこには4〜5世紀の朝鮮半島における動乱の情況が鮮やかに記述されている

 この碑文が日本に齎されたのは1883(明治16)年のことであった。この碑文の招来についてはかなりミステリアスな挿話に満ちている。その上、その碑文の解釈は、現在なお日本と朝鮮で大きく異なっている。そこでは100年にわたり論争が行なわれてきており、その経過を簡単に述べる。

 この碑文の拓本を最初に日本にもってきた人物は、陸軍参謀本部の酒匂景信(さかわ かげあき)という砲兵中尉であった。この酒匂中尉は、参謀本部の命を受けて、中国東北部で兵要地誌の資料収集、つまりスパイ活動をしていた。

 その活動の一環として日本に持ち帰った史料がこの碑文の拓本であった。そのために、この碑文の文字は後に参謀本部によって改竄されたという疑惑がかけられることになった。しかし実際には句読点もない穴だらけの難しい白話文が、しかも順序も定かではない膨大な拓本の断片として持ち込まれたわけである。
 参謀本部では、改竄するどころか一通り読むことさえ困難であったと思われる。

 
 酒匂中尉がこの拓本を日本に持ち帰ったのは、明治16年の秋から17年の1月までの間である。この拓本は「双鉤加墨本」と呼ばれるものである。
 それは先にとっておいた拓本の字画をなぞり、これを下敷きにして別の紙に文字の輪郭を点々となぞって、この輪郭の外を墨でうめて拓本らしく仕上げたものであった。

 酒匂の拓本は、縦4字、横4字の16文字の拓片130数枚からなっていた。しかも拓片は順不同であったため、参謀本部では碑文として文脈をつないでいくのに非常に苦労したといわれる。
 その後、いろいろな人が拓本をとってきているが、これらについての本格的な研究が行なわれたのは、ようやく戦後になってからのことである

 拓本をとる場合、石灰により整形するときれいにはとれるが、原本の信頼性が問題になる。そこで碑面に手を加えない原石拓本が必要になるが、当然、文字は読みにくく判読は難しい。1959年に水谷悌一郎という人が、「書品」という書道の雑誌にこの原石拓本を発表した。

 1960年頃から碑文の解釈も盛んになり、1972年には参謀本部が碑文を改竄したとする李進煕氏による拓本研究が発表されて、研究者に衝撃を投げかけた。

 まず碑文は、大きく分けて、次ぎの3つの部分からなる。
 第1段:高句麗の建国にいたる伝説と広開土王の業績,王碑建立の理由など
 第2段:王の活躍についての編年的記述。
 第3段:王の墓守のことなど。
 したがって碑文の最も重要な部分は、第2段である。

 特に問題となる碑文は、第2段の第1面、第8行・第34字から第9行・第24字までであり、そこには次のように書かれている。
百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡□破百残□□□羅以為臣民
 これを普通の読み方をしてみると、大体、次のようになる。(読下し文;荒木)

 百残(=百済)、新羅は、もとこれ属民なり。由来、朝貢す。而して倭が辛卯の年を以って来る、□を渡り、百済、□□、□羅、を破り、以って臣民となす。

 普通に訳してみると、百済と新羅は、もともと高句麗の属民であり、そのために高句麗に朝貢してきた。ところが辛卯の年(西暦391)より、倭国が()を渡ってきて、百済、(新羅)、()羅を破り、臣民にしてしまった。

 文中の□は、判読ができない文字である。そこで私が想像した文字を(カッコ内)に示した。ここには当然、いろいろな文字を入れることができる。
 この文章の内容には、言葉のアヤとでもいえる誇張したことが書かれている。
 例えば、百済、新羅が高句麗の属民であった事実はないし、海を渡ってきた倭国が百済、新羅、加羅を臣民にした事実もない。

 しかし、上のような読み方に反対する朝鮮の歴史学者の(1)金錫亨,(2)朴時亨の両氏は、次のような読み方をしている。
(1) 倭以辛卯年来。渡□破百残、□□□羅、以為臣民。
 金錫亨氏の読み方でいくと、辛卯の年に倭がやってきた。そこで高句麗が、海をわたって百済を破り、新羅を□□して、臣民にした、という。ここでは、主語が高句麗になるため、上記とは逆の解釈になる。
 しかし高句麗と百済は地続きであり、高句麗が海を渡って百済を破るという表現は、常識的にはかなり無理がある。その上、倭国と三国の関係がよく分らない。

(2) 而倭以辛卯年来。渡□破。百残□□□羅、以為臣民。
 朴時亨氏の読み方も、高句麗が海を渡って破る、は同じであるが、□□□に「招倭侵」とか「聯侵新」をあてるべきであるとされる。しかし、この漢文の読み方にはかなり無理があり、3文字を当てはめる根拠や必然性が明確でなく、かなり強引な読み方であると私は思う。

 この読み方については日本の学会でも議論が起こり、佐伯有清氏は、「倭、辛卯の年に来る、を以って、」と読まれた。しかしこれを通常の漢文で書けば、「以倭辛卯年来」となり、これも非常に無理な読み方といえる。

●広開土王陵碑文と倭国による朝鮮攻略
 碑文の読み方の論争よりも、史実がどうであったかの方がより重要である。
 そこで広開土王(好太王)の即位から崩御までの史料を、三国史記、三国遺事、碑文の記事からまとめたものを図表-1に揚げる。

図表-1 広開土王年表

西暦 干支 歴史事項
391 辛卯 高句麗の広開土王、即位。倭、渡海して百済、新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑文)
392 壬辰 高句麗、新羅に使いを出す。新羅、高句麗に人質を出す。高句麗、百済・契丹を討つ。高句麗、百済の城を落とす。
393 癸巳 夏5月、新羅へ倭人が来たり金城を囲む。
394 甲午 百済、高句麗と水谷城下に戦い敗北。高句麗、国南に7城を築き百済に備う。
395 乙未 高句麗の広開土王、自ら水軍を率いて、百済を大いに破る。
396 丙申 高句麗、百済をせめて奴客とし、人質を連れて帰る
397 丁酉 百済、倭国と好を結び、大子を人質にする。
398 戊戌 高句麗,莫新羅城を攻略す?百済、高句麗を討たんとし、漢山の北柵にいたる。
399 己亥 百済、高句麗を討たんとし、大いに兵馬を徴発。民、役に苦しみ、多く新羅に走る。新羅、高句麗に救援をこい、倭に備える。百済、誓いに違い、倭と和を通ず。新羅、使いを高句麗に遣わし、倭人その国境に満ち奴客をもって民となすを告げ、以って請明す。
400 庚子 高句麗、新羅を救援して、倭を打つ。高句麗、5万の兵を出して新羅を助け、男居城より新羅城にいたる。城中に倭軍満ち、高句麗の官兵、倭賊を退け、追撃して、任那・加羅に到り、城を攻略して帰服させる。安羅人の兵、反撃して新羅城を奪回。(碑文)
401 辛丑 新羅の人質、高句麗より帰る
402 壬寅 新羅、倭国と通好し、人質を出す。百済、使いを倭国へ遣す。高句麗、燕を攻める。
403 癸卯 百済へ倭国の使いがいたる。百済、新羅の辺境を侵す。
404 甲辰 高句麗、燕を侵す、倭国、帯方界へ進入
405 乙巳 高句麗、燕王来たり勝たず帰る。倭兵、新羅に来たり攻める。勝たず帰る。
406 丙午  
407 丁未 倭国、新羅の東辺を侵す、又南辺を侵す。
408 戊申 新羅王、倭人を対馬に討つ。高句麗、使いを燕に遣わす。
409 己酉 高句麗、国東に6城を築き平譲の民戸を移す。百済へ倭国の使者きたる。
410 庚戌 高句麗、東夫餘を討つ、破る城64
411 辛亥  
412 壬子 新羅、高句麗に人質を出す。
413 癸丑 倭国、東晋に方物を貢ず。(晋書)。安帝のとき、倭王賛在り。梁書諸倭伝・倭)
414 甲寅 高句麗王死す、広開土王の碑建つ


 この年表をみるとかなり事情が明らかになってくる。まず三国と倭国に関係する記事は太字で示してあるが、広開土王の時代にその記事が非常に多くなったことが分る。
  しかもその内容は、倭国の新羅、百済、高句麗への攻撃の記事に満たされている。
  例えば、393年  倭国による新羅の金城攻撃
       399年  新羅、倭国に和を通ず。倭人が国境に満ちた
       400年  高句麗による倭軍攻撃
       404年  倭国による帯方界への侵入
       405年  倭兵による新羅攻撃
       407年  倭国による新羅の東辺及び南辺攻撃
       408年  新羅による倭国の対馬攻撃
      
 上表を見ると、広開土王の時代になった391年から5世紀の初めにかけて、倭国による新羅、百済、高句麗への攻撃が多発している
 ちなみにそれ以前の倭国による三国攻撃の記事を調べてみると、30年ほど前の364年甲子に、新羅へ倭兵が多数攻撃してきたという記事がある。
 さらに、それより20年前の345年に新羅は倭国と国交を断絶し、そのため翌346年乙巳に倭兵は新羅の風島を侵し、さらに進んで金城を囲んだ、という記事がある。

 つまり倭国は20-30年に一度の頻度で朝鮮に攻め込んでいた。ところが391年以降の広開土王の時代になると、上表からも明らかなように激しい頻度で三国を攻撃し始めた
 碑文にいう「而倭以辛卯年来渡□」という言葉は、まさに「391年以降の」広開土王の時代に、海を渡った倭国による新羅、百済、高句麗への攻撃が始まったことをいっているのである
 上記の年表を見ると、そのことがよく分る。

 次に倭国と三国の関係を考えてみる。上記年表の『三国史記』と『三国遺事』では、日本を表現するのにすべて倭国、倭兵、倭人という言葉を使っているが、この「倭国」が、九州の部族国家なのか、大和国家なのかもここからは分らない。
 ところが倭国から最も遠く、最も強力であった高句麗の広開土王碑文における別の箇所では、「倭」の拠点に『任那加羅』(任那の加羅)という言葉が使われており、倭国は朝鮮最南端の加羅の国と軍事同盟を結んでいたと思われるのである。
 しかしこの時代は、一体、日本書紀のどの部分に対応するのか?それがさっぱり分らない。

 三国時代に、まだ朝鮮最南端の加羅の国々は立派に存在していた。それにもかかわらず三国史記では、彼らは殆ど三国から無視されてきている。
 しかしこの高句麗の広開土王の碑文では、その存在が日本との繋がりにおいて確認されており、注目される。しかもそのことは高句麗の全盛時代の広開土王が、加羅と結ぶ日本の存在を非常に気にしていたことを示しているとも考えられるのである。




 
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