(5)老人性神経症に悩まされた?−晩年の秀吉
●亢龍有悔 ―秀吉による異常な政策の乱発
「易経」に「亢龍有悔」という言葉がある。天に昇った龍は、それ以上に昇れないので後悔する、という意味である。そのため卦では、最高の「大吉」が出ると、その札を木の枝に結び付けてお返しするほどである。
秀吉は、天下を取った途端に、国内で自分の足元を掬う、見えない勢力におびえ始めた。その結果、誰を見ても裏では自分の足元をすくう反対勢力に見えるようになり、重い老人性神経症に悩まされ始めた。その姿は、まさに易経がいう「亢龍有悔」、そのものであった。
秀吉は、天正13(1585)年7月に関白、翌年12月に太政大臣となり、尾張中村の水飲み百姓のこせがれが、この時点で位人臣を極めた。
もはや国内において秀吉に対抗して地位を脅かす勢力はなくなっていた。
天正15(1587)年10月1日、この年、九州征伐を成功裏に終了した秀吉は、真の天下人になったことを天下に示す行事として、京都の北野で空前絶後の大茶会を催した。
この日本で最高の天下人になり、それを象徴する北野の大茶会にのぞんだとき、秀吉は52歳であった。茶は、それを頂くときは、3尺という顔色が読める距離で相手と向かい合って座る。なにげない話をしながら、相手の気持ちを知るのに、茶会は絶好の場であり、秀吉はたびたびそれを利用した。
その猜疑心が大茶会になり、また外敵に反対勢力の力を向ければ、自分の政権転覆の力をそぐであろうという衝動が、朝鮮、中国の侵攻に秀吉をかりたてたと私には思われる。
天下人となってからの秀吉の行動は、明らかに異常なものが多くなっている。それらを図表-1に列記してみよう。
図表-1 晩年の秀吉年表
西暦 |
邦暦 |
秀吉の年齢 |
事 項 |
1585 |
天正13年 |
50歳 |
7月、秀吉、関白となる |
1586 |
天正14年 |
51歳 |
12月、秀吉、太政大臣となり、豊臣の姓を受ける |
1587 |
天正15年 |
52歳 |
6月、秀吉、日本を神国として宣教師の追放令を出す。外国貿易は禁じなかった。
10月、北野の大茶会 |
1591 |
天正19年 |
56歳 |
閏正月、宣教師ヴァリアーニ、遣欧使節4名と共に、聚楽第で秀吉に合う
2月、千利休自刃
9月、秀吉、朝鮮征伐を命じる |
1595 |
文禄4年 |
60歳 |
7月、秀吉、秀次を高野山に追い自殺に追い込む |
1596 |
慶長元年 |
61歳 |
8月、聖フエリペ号、マニラからメキシコへ向う途中,暴風で土佐に漂着。秀吉、バプチスタなどフランシスコ会の会士を捕縛、死刑にする事を命令。
8-9月、京都大地震、伏見城に被害
9月、秀吉、家康の諫止を聞かず朝鮮出兵を決定
11月、長崎で26殉教者の処刑を決定 |
1597 |
慶長2年 |
62歳 |
2月、26人が十字架で処刑 |
1598 |
慶長3年 |
63歳 |
醍醐の花見宴
8月、秀吉死す
12月、日本軍,朝鮮から撤兵を完了 |
この図表を見ると、秀吉が関白、太政大臣となり、位人身を極めたころから、突然、不可解な政策を連発し始めている事が分かる。
(1) キリスト教の弾圧、宣教師や信者の処刑(1587、1596)
(2) 信頼してきた身近な人材を自殺へ追い込む(千利休、豊臣秀次など)
(3) 周囲の諫止を聞かず見通しのない外征の強行(朝鮮出兵)
これらの背景には、秀吉の老人性神経症が大きく寄与しているように思われる。朝鮮出兵はその典型的なものであり、そのことは、秀吉の死とともに日本軍は朝鮮から撤兵している事が、明白に物語っている。
●倭乱終焉
秀吉は、慶長3(1598)年春、桃山時代の栄華、ここに極まれり、といわれる盛大な「醍醐の花見」を行なった。この醍醐の花見宴が終わって2ヶ月後に病気になり、8月18日に死去した。
朝鮮派遣軍に対しては、既に3月には、一部の軍に帰国が命じられ、5月には撤兵が始まっていた。
8月の秀吉死去はしばらく伏せられ、朝鮮からの撤兵に着手した。8月25日、徳川家康、前田利家は、2人の使者を朝鮮半島に送り、諸将をして和を講じ、軍を撤収させることを命じた。
朝鮮の水軍は撤収する日本軍を襲撃したが、李舜臣の戦死によって襲撃はやんだ。
12月10日に最後の軍が日本に帰国して倭乱は終焉した。
秀吉の辞世の句は、たしか次のようなものと記憶している。
露と落ち、露と消えにしわが身かな
浪速のことも、夢のまた夢
浪速のこととは、醍醐の花見のことである。その屏風絵をアメリカの美術館でみたとき、絢爛豪華な花見宴の大きな屏風の中心に北政所?の手を引く秀吉の、あまりにも小さく頼りなげの寂しい姿に、私は息をのみ凍りついた。
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