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日本人の思想とこころ
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  (4)壬辰倭乱 −秀吉の朝鮮出兵

●秀吉の朝鮮侵攻は何故行なわれたか?
 戦前においては、日本の海外侵攻を国威の発展と考えるものが多かった。しかし、その立場をもってしても、秀吉の朝鮮侵攻は理解を超えていた。
 例えば、大正15年に出版された早稲田大学・渡辺世祐氏による「日本時代史 第8巻」安土、桃山編には次のように書かれている。

 朝鮮と日本の関係を考えると、「国交上我が国が特に外征せざるべからざるの理由豪も存せず、唯秀吉は武を好むの余、外征を企てしに外ならずして、群臣多く、その弊、その無益を知ると雖も、而も秀吉の威を恐れて一言の之を遮る者なかりしかば、その飽くなき心を以って外征を企て無辜の生民を殺し、国幣を費やす事多かりき、・・・これ単に秀吉の空想にして実行の之に伴うべきものと思われざるなり」  (399頁)

 戦後における秀吉の朝鮮侵略の評価が、これより良いわけはない。できたらこの部分を日本史の記述から抹殺したいと考える学者も多かったと思われる。その代表的なものが、京都市編「京都の歴史4」の「桃山の開花」である。
 これは700頁をこえる大著である。大方の記述は非常に優しく丁寧に書かれている。ところが秀吉の朝鮮出兵の主要記述はわずか2頁にすぎない。
 そこでは秀吉の朝鮮出兵の動機について、
 (1) 信長から受け継いだ仕事であること、
 (2) 朝鮮、中国まで征服して家来に知行を与え、政権を拡大しようと考えたこと、
 (3) 日本の首都を北京に移し、後陽成天皇の行幸を北京に迎えようと考えていたこと
  などが、非常に簡単に記述されているに過ぎない。

 秀吉の朝鮮侵略には、「勘合貿易」を復活させるねらいがあった、という見方もある。大体、倭寇の発生原因それ自体、明帝国が国初来、中国人の海外への渡航を禁じ、また外国に対しては朝貢を前提とした「勘合貿易」しか許してこなかったことからきている。

 日本の例を見ても、足利義満の時代に明に朝貢する形で交易が始まり、19回の交渉が行なわれた。しかしそれは天文16(1547)年に終止符が打たれ、倭寇と密貿易にその座を譲ってきていたのが現実である。
 そのため秀吉の朝鮮出兵には、朝鮮と明の攻略により、日本が主体になった貿易体制を確立することがその背景をなすとする説も出てくることになる。
 この朝鮮、中国に対する秀吉の侵攻構想は、1590年頃から形成されたと見られる。

秀吉の朝鮮侵攻計画とその経過
 天正20(1592)年5月18日、豊臣秀吉は秀次に宛てた文書に次のように書いた。
 「大唐都へ叡慮うつし申すべく候、その用意あるべく候、明後年、行幸なすべく候、しかれば都廻りの国々10カ国、進上すべく候・・・」
 つまり日本の首都を大唐の都・北京に移し、天皇の行幸を仰ぐ。日本の天皇を中国皇帝とし、大唐の関白に秀次とし、都廻りの国々10カ国は皇室の御領として献上する準備が出来た、と秀吉は語っている。
 そして、日本の天皇には良仁親王か智仁親王をあて、日本の関白は豊臣秀保か宇喜田秀家にするとも語っている。

 秀吉が、朝鮮、中国への侵攻を外部に表明したのは、天正14(1586)年3月16日にイエスズ会副管区長・コエリュ一行が大阪城を訪問した際、朝鮮、シナの侵攻のために、2千艘の船を造り出兵する予定である事を語り、さらに艤装した2隻の大帆船の調達を依頼したとする記述が、フロイスの日本史に記されており、これが最初のようである。

 秀吉の構想では、文禄3(1594)年には、北京に首都を移した大日本帝国が成立する予定であった。そして琉球はもちろん、台湾、フィリピンからインドにまで書を送って、北京を首都とした大日本帝国に入貢させようと考えていた
 しかし後掲年表を見ると、日本の首都を北京に遷し、秀次を大唐関白にする予定の年には、秀吉は逆に秀次を自殺にまで追い詰めている。
 秀吉の老人性神経症は、殆んどその実現が困難と思われる夢想と、それに対抗して起こってくる周りの人々に対する猜疑心や不安の狭間のなかで、大きく揺れ動いていた。そしてそれがさらに病状を進行させる悪循環を重ねていたと思われる。

●文禄の役=壬辰倭乱
 秀吉は天正20(1592:12月に文禄と改元)年1月、天下の諸侯に対して朝鮮出兵を命令した。肥前名護屋を出兵の拠点とし、関白を秀次に譲り、自らは「太閤」となり、外征の中心的役割を担うことにした。
 3月、秀吉自身、徳川家康とともに名護屋に本拠を移し、総勢16万の日本軍はそこから海を渡って朝鮮半島に侵攻した。
 朝鮮半島への攻撃は3軍に分かれて行なわれた。
 小西行長の第1軍は釜山に上陸して中路を進み、次に加藤清正の第2軍が少し遅れて釜山に上陸して、東路を進んだ。さらに少し遅れて、黒田長政、島津義弘の第3軍は釜山に上陸して、西路を進んだ。
 
 攻撃は快調に進み、第1,2軍は漢城(ソウル)で合流してこれを攻撃し、5月には首都・漢城は陥落し、第3軍もここで合流した。朝鮮国王の宣祖は平壌へ遷都・避難した。
 その後、3軍は再び分かれ、第1軍は平安道、第2軍は咸鏡道、第3軍は慶尚道から全羅道を進軍、日本の陸軍は朝鮮8道を制し、7月には平壌を占領した
 そして日本軍は、北西部の平安道と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、加藤清正の一隊はさらに国境を越えて、明領オランカイへ攻め入った。

 朝鮮国王は遼東との国境である北端の平安道義州へ逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請した。そこで明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どは、朝鮮の民であったと書かれてある。
 景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ)は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。

 陸軍の弱さに比べて、朝鮮の水軍は高麗の時代から非常に優れていた。元寇のときも元のフビライは高麗水軍に大きな期待をかけていたことがよく知られている。
 李舜臣に率いられた朝鮮水軍が、4月と5月の2回出撃して日本の船団に攻撃を加えた。この攻撃で、海上戦闘用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった豊臣秀吉の海軍は、陸戦部隊や後方の輸送任務の部隊から急遽水軍を編成して対抗せざるをえなかった。

 しかしこの俄か作りの日本海軍は、閑山島海戦で敗北し、続いて援護のために進出していた加藤嘉明と九鬼義隆の水軍が李舜臣の泊地攻撃で敗北すると、豊臣秀吉は海戦の不利を悟って、積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更した。
 この戦術は功を奏し、李舜臣の攻撃は被害が増大し戦果が挙がらず精彩を欠くようになり、出撃も滞ることとなった

 7月、援軍に来た明軍が最前線の平壌を急襲した。これは小西行長によって撃退されたものの、明の救援の開始により戦況は膠着状態になる。
 朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していったが、小西行長は、当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を優先させており、そのため平壌で北進を停止した。また小早川隆景は忠清道方面から全羅道に侵入したが、権慄の反撃によって進撃を阻まれて、南下する明軍の攻撃に対応するために漢城へ移動した。そのため、全羅道の制圧は進まなくなった。

 翌文禄2(1593)年1月、明軍がさらなる大軍で平壌に侵攻しこれを制圧した。また一方の日本軍は漢城郊外の碧蹄館の戦いで勝利し、この段階で両者の戦線が行き詰まってしまい、和平交渉が始められた。
 この頃、驚くべきことには、秀吉も明の朝廷も、共に相手が降伏したという偽りの報告を受けていた。そのような虚偽報告が双方でなされた理由は、自国が勝っていると報告したほうが、講和に持ち込みやすいと双方の関係者が期せずして考えたことにあるらしい。
 しかしその結果は、双方共に相手方の受け入れ不可能な講和条件を提示する結果になった。

 この奇妙な講和会議で、日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。つまり日本は明に降伏して、貿易再開を申しいれたことになる。

 この秀吉の降伏を確認した明は朝議の結果、日本が明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めないことを決め、秀吉に対し日本国王の金印を授けるため日本に使節を派遣した。
 この間、蚊帳の外に置かれていた秀吉は、明から降伏使節が来たと当初は喜んだといわれる。そして文禄5(1596)年9月、秀吉は来朝した明使節と謁見した。しかし使節の本当の目的を知った秀吉は激怒し、明の使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。

●慶長の役=丁酉再乱
 慶長元(1596)年9月、明の使者を追い返し、秀吉は直ちに朝鮮再征を命令し、翌2年正月14日には、小西行長、加藤清正などの先鋒軍は再び朝鮮に入った。
 2度目の外征では朝鮮8道の名前が記憶しにくいので、秀吉は各道を5色に色分けした。慶尚―白、全羅―赤、忠清・京畿―青、平安・江原―黄、咸鏡―黒という具合である。そして2月20日に外征諸将にその分担を決め、総勢14万の大軍は、再び朝鮮半島へ侵攻した。

 文禄の役において活躍した朝鮮水軍では、李舜臣が讒言にあい投獄されていたが、再び水軍の司令官に任命されると、日本水軍は全く動けなくなった。
 それにつけ込んだ明の大軍は、鴨緑江を越えて開城に入り、慶長2年12月には、大挙して加藤清正が立てこもる蔚山へ攻め込んだ。
 清正らは苦戦の末、3年正月、毛利秀元の援軍をえてようやく明軍を撃退できた。これは蔚山の役と呼ばれて、朝鮮出兵で最も苦しい戦いになった。

 今回の日本水軍では前の反省から大艦をもってあたったため、7月15日の巨済島の戦いにおいて朝鮮の水軍は全滅し、日本が完全に制海権を握ることに成功した。
 ところが陸戦においては、日本軍が前回と異なり持久戦にきりかえた上、朝鮮側の防備ができており、さらに、前回の戦争で朝鮮の国土は荒れはて、糧食を求める事も困難になっていた。
 明の記録を見ても、「倭奴は紙をかんで飢にあて、溺(小便)を飲んで渇をとくにいたる。造飯するたびに、まず砲をあつかう者を食わせ、余は餓死するに任せた」(「中国文明の歴史8」中公文庫、356頁)と書かれており、太平洋戦争末期を思わせる苦戦となっていた。

 この慶長の役の経過を見ていると、20世紀の朝鮮戦争に極めて類似していることに気がつく。朝鮮戦争において、中国の義勇兵の大軍が鴨緑江を越えて南下を始めたときから、戦争の局面が大きく変わった。これと同様に、慶長の役でも明の大軍が大挙して南下を始めたときから、情勢は一変した。
 さらに、日本軍の事情も大きく変わっていた。前回は名護屋に自ら出張して指揮をとった秀吉は、大阪城において豪遊安逸の晩年を送っており、朝鮮に派遣されたのは四国、中国、九州の諸将のみであった。そのため士気は非常に衰えており、そのため、2度目の外征は、龍頭蛇尾に終わる気配が濃厚になっていた






 
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