アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  82  83  84  85  >> 
  前ページ次ページ
  (3)キリスト教布教の成功と弾圧の始まり 2

●秀吉によるキリスト教弾圧
 ▲天正禁令の発布
 天正14(1586)年、イエズス会・準管区長コエリヨは、長崎を出発して大阪城の秀吉を表敬訪問した。高山右近が、オグスチーノ小西行長、シモン黒田孝高らと明石に出迎え、その接待案内を務めた。
 同年5月4日(3月11日)、秀吉は諸大名列座の下、威儀を正してコエリヨを引見し、コエリヨは、オルガンチーノ以下、神父4人、ロレンゾ以下、修道士4人、日本人同宿15人など、総勢30余人を従え、威儀を正して会見の場に臨んだ。そこでの通訳はフロイス神父が勤めた。

 秀吉のコエリヨ接待は懇切丁重を極めており、人々を驚かせた。公式会見の後でも高座を下りて、神父たちと談笑し、大阪城内を自ら案内しており、ここからは1年後に、秀吉がキリシタン宣教師の弾圧に踏み切るそぶりは、全くなかった。
 しかしそれから暫らくして、秀吉側近のキリシタン大名の高山右近は、コエリヨ神父にキリスト教弾圧の暴風の襲来、聖堂の破壊、神父の追放の心配を語っており、その前兆はすで見られていた。(片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」時事通信社、69頁)

 1587年7月24日(天正15年6月19日)、キリスト教布教の禁止、外人宣教師の追放令が、朝鮮出兵の仮営地で突然、秀吉により発表された。
 その「伴天連追放令」とは、次のようなものであった。
(1) 日本は神の国であり、キリスト教の布教は禁止する。
(2) 寺院を破壊したものは処罰する。教会に領地を寄進してはならない。
(3) 外国人宣教師は、20日以内に国外退去する。
(4) 貿易目的のポルトガル船の自由な往来は認める。
(5) 仏教の教えの妨げにならない限り、キリスト教国から往来は認める。

 この禁令は、有力なキリシタン大名である大友宗麟(5月23日死去)、大村純忠(4月17日死去)を受けて発表したとする説(徳富蘇峰「近世日本国民史」)や、側近の施薬院徳運の扇動説(姉崎正慈「切支丹伝道の興廃」)など諸説があるが、それらは今ひとつ説得力に欠けており、突然のキリスト教の布教禁止令は今なお不可解なナゾとして残っている。
 
 私は、キリスト教の大名との結びつき、特に、キリスト教を利用した大名による海外貿易や軍事力の強化を考えると、秀吉の天下統一の大きな障害になると考えられ、この危険性を断ち切ることが、秀吉によるキリシタン禁止令の大きな目的ではなかったかと考える。
 この禁止令がもとになって、さらに後述する26聖人の殉教事件が引き起こされ、江戸時代に入ると鎖国政策まで発展していく新しい時代の始まりになった。

 ▲キリシタン大名・高山右近と禁令の拒否・国外追放
 同じキリシタン大名でも、大村純忠の場合には九州の貿易港を通じて、世界貿易の窓口となる地理的条件に結びついていた。しかし高山右近の場合には、それとは別に中央政治の立場からキリシタン大名を選択した。それを次に見てみよう。

 高山右近(1552-1614)は、摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)の出身の国人領主である。父の高山飛騨守の時代には、当時畿内一円に大きな勢力を振るっていた三好長慶に仕え、大和国宇陀郡の沢城を居城としていた。
 永禄7(1564)年に、12歳で父とともに奈良出身の半盲の琵琶法師でイエズス会会員であったロレンゾ了斎から洗礼を受けた。
 ロレンゾ修道士は、彼を抜きにして16世紀に渡来したキリスト教の布教を語る事は出来ないといわれるほどの人物である。(川崎桃太「フロイスの見た戦国日本」中央公論社、143頁)

 元亀年間に荒木村重が、石山本願寺周辺を除く攝津全域の領有に成功すると、高山親子は元亀4(1573)年4月に高槻城を乗っ取って自ら城主となり、荒木村重の支配下に入った。
 既に50歳をすぎた父の友照は、高槻城主の地位を息子の右近に譲り、自らは教会建築やキリスト教の布教に仕事の重点を移した。

 天正6(1578)年、荒木村重が主君・織田信長に謀反した。このとき右近は村重の謀反を阻止しようとしたが成功せず、村重と信長の間で悩み、イエズス会会員・オルガンチーノに相談した。しかし結局、織田方につき高槻城主の地位は安堵された。

 天正10(1582)年6月、織田信長が本能寺で亡くなると、明智光秀は右近の協力を期待していたが、右近は高槻へ戻ると秀吉の幕下についた。そして山崎の戦いでは、先鋒を務めて明智光秀を敗走させ、清洲会議では軍功が認められ、加増された。

 本能寺の変で安土のセミナリオが焼けると、それを高槻に移転した。これらの行動を見ると、高山右近は典型的な戦国大名であり武将である。しかし仁徳の人としても知られており、牧村正春、蒲生氏郷、黒田孝高などの大名が彼の影響から洗礼を受け、細川忠興、前田利家などは、洗礼は受けなかったものの、キリシタンに好意を持つようになった。

 秀吉の信任の厚かった右近は、天正13(1585)年に播磨国明石に新しく領地を与えられ、領主となったが、2年後の天正15(1587)年、キリシタン禁教令が秀吉により施行されると、右近は窮地に立たされることになる。
 秀吉側近の黒田孝高は、真っ先に棄教し、キリシタン大名の脱落が始まった。

 右近は、キリスト教信仰を守ることを条件に、領土、財産のすべてを放棄して世間を驚かせた。右近は、その後、しばらく小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住んでいたが、天正16(1588)年に加賀国金沢城主の前田利家に招かれた。1万5千石の扶持を受けて、食客として暮らした。
 前田利家は、鉄砲の伝来以来、キリシタンの軍事技術、築城技術などに重大な関心を寄せており、キリシタン禁令後もひそかに隠れキリシタンを保護して、西洋流の軍事、築城技術の研究を続けたといわれる。
 金沢城修築のときには、右近の先進的な築城術の知識が大きく貢献した。しかし右近のキリシタン信仰の目的は、貿易でも軍事技術でもなかったようである

 慶長19(1614)年、徳川家康によりキリシタン禁教、バテレン国外追放令が発令された。そのため加賀で暮らしていた右近は、この新しいキリシタン追放令により、人々の引きとめる中を、加賀を退去して長崎から家族共に船でマニラに向った。

 12月にマニラに着いた右近たちは、イエズス会報告や宣教師の報告で有名になっており、スペイン人総督らから大歓迎を受けた。
 しかし、慣れない気候や生活のために、右近は翌年2月、マニラで亡くなった。葬儀(=召天式)は、聖アンナ教会においてマニラ全市を挙げて盛大に行なわれ、遺体はサンタ・マリア聖堂に葬られた。享年63歳であった。

 ▲日本26聖人の殉教
 慶長元(1596)年8月26日、スペインの商船サン・フエリペ号がマニラからメキシコへ向う途中、日本の土佐浦戸湾で難破し漂着した。兵器が積まれていたとする説もあるが、「甫庵太閤記」の積荷目録を見ると、兵器は見当たらない。
 土佐の国主・長曾我部元親は、この漂着を秀吉に報告し積荷を没収した。

 一説では、このサン・フエリペ号の船長のデ・ランダという男が、スペインでははじめに宣教師を送って人民を教化し、信徒が増えるのを待ってこれに内応させてその国を征服するのだ、と述べたのを秀吉が聞いて怒り、船の積荷を没収、キリシタン弾圧にのりだしたともされる。(「日本西教史」「日本26聖人殉教記」)
 しかしこの説も、ちょっと単純すぎており、実際にはかなりいろいろな条件や要因が関わっていると思われる。

 一方、この頃の京都では、8月30日と9月4日に、たて続けに大地震に見舞われ、伏見城にも大きな被害が出ていた。このような中で、明使が秀吉に会ったのは9月1日のことである。このとき明使は、秀吉に提出した国書の中に秀吉を国王にするという有名な一条を入れていた。これに秀吉が激怒した話はよく知られている。

 この頃、秀吉はかなり強度の老人性神経症の疾患に悩まされていた。さらに、神経的疾患に加えてこれらの政治的、社会的悪条件が重なり、秀吉は明らかに異常な心理状態に置かれていたと思われる。
 その異常心理がサン・フエリペ号の積荷の没収、乗組員の監禁、宣教師の捕縛といった信じられないほどの国際的不法行為を生み出した。
 その上に宣教師追放令の再発とも言える、キリシタン捕縛令を生み出すことになったと考えられる。

 それは全く突然のことであった。慶長元(1596)年11月、秀吉はフランシスコ会の宣教師とその指導下にあるキリシタン全員の処刑を、京都奉行・石田三成に命令した。フランシスコ会は、ポルトガル系のイエズス会に独占されていた日本への布教に対して、スペイン系の布教組織として少しでも布教の遅れを取り戻すべく、文禄2(1593)年以来、かなり積極的な活動をはじめていた。
 このフランシスコ会の活動にも秀吉の神経を苛立たせるものがあった。

 一方、イエズス会の方は、天正15(1587)年の宣教師追放令が出て以来は表面的な布教活動を自粛しており、その禁令を無視して活動するフランシスコ会の活動は、秀吉の神経を逆撫でしていたと思われる。
 それのみか、先の天正13(1585)年に、教皇グレゴリオ13世は、日本伝道をイエズス会に限る旨の回勅をしていたのに、マニラに伝道の本拠を置くフランシスコ会が、日本の国内で猛然と布教を始めた。
 このことが、ただでも異常さが目立ちはじめていた秀吉の神経を逆撫でしたことは、十分に考えられる。

 慶長元年の秀吉による突然のキリスト教弾圧の動機は、非常にナゾが多い。しかし最初に逮捕された24人のうち、フランシスコ会の関係が20人を占めていることから見ると、同会の活動がキリスト教弾圧の直接の動機になった可能性はかなり高い。

 この慶長元年のキリスト教の弾圧では、フランシスコ会の神父と修道士6人、信徒14人が逮捕された。これに対して、前から日本で布教活動を続けてきているイエズス会関係者の逮捕は僅か3名である。
 この違いにどのような意味があるのか?本当のところは分からない。しかし、とにかく合計24人のキリスト教関係者が、京都と大阪で捕縛された。

 慶長2(1597)年1月3日、24人は京都の上京一条の辻において、全員左の耳を切られて京の町を引き回された。そして1月8日に、24人全員を長崎でハリツケにせよという秀吉の命令が伝えられ、殉教者たちは京都から長崎まで800キロの死の行進をさせられることになった。
 さらに、この24人の殉教者移動のお手伝として、京都のオルガンティノ神父がつけた2人の青年までが、下関へ着く頃には殉教者と同じ囚人にされていた。そして、一行は途中で26人に増えていた。

 これらのことはいくら戦国時代とはいえ、あまりにもメチャメチャな処置であった。殉教者が逮捕された初期段階において、石田三成がいろいろ助命を行なったが、秀吉はその助命に耳を貸さなかった。

 フロイスによると、26聖人の処刑は、長崎から大村へ行く海のほうの西坂という小山で行なわれた。処刑の当日は、長崎奉行の弟の寺沢半三郎が出した禁足令にも拘らず、4千人もの群集が処刑の現場に集まった。
 全員の処刑は、慶長元(1596)年2月5日の朝9時半ころから始まり、11時頃に終了した。そして遺骸は80日間、そのまま十字架上にさらされた。(片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」)
 
 殉教者の最年少者は、尾張出身で12歳のルドビコ茨城少年、また最高令者は、備前出身で64歳の伝道士・デイゴ(ヤコブ)き斎であった。
 ルドビコ少年より1歳年上の長崎出身の中国人・アントニオ少年は、処刑の日、京都で知り合ったスペイン人レンゲルを道端の人垣の中に見つけた。
 少年は「レンゲルサン、アディオス(=さよなら)、パライソ(=天国)、パライソ」と叫んだ。レンゲルさんは涙で答える事ができなかった。(結城了悟「日本とヴァチカン」女子パウロ会、74頁) 殉教者の最後はすべて立派であった!

 ▲鎖国への途
 この26聖人の殉教は、これから日本で始まるキリスト教の弾圧と処刑のはじまりになった。一体、秀吉は、何におびえてこのようなキリスト教の大弾圧に踏み切ったのか?
 秀吉が恐れたものは、キリシタン大名なのか? フランシスコ会とその背景をなすスペインの日本進出なのか? キリスト教の日本での活動の拡大なのか? それとも秀吉の老人性神経症なのか? また、それらいくつかの合併症なのか?
 その真の原因は、いまもってナゾに包まれている。 

 慶長5(1600)年、先に日本伝道はイエズス会に限るとした回勅は撤回され、フランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会などが宣教師を派遣し、日本におけるキリスト教伝道は、一見、華やかになる。しかしその一方で、キリスト教伝道への弾圧も激しくなった。
 1600年の関が原の戦いでは、クリスチャン大名の小西行長が破れ、その領土が加藤清正の手に渡ると、日蓮宗信者の加藤は、猛然とキリスト教弾圧に乗り出す。
 この流れは、最終的には江戸幕府による鎖国政策への途を作り出していった。






 
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  82  83  84  85  >> 
  前ページ次ページ