10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
(1)大化改新から「倭国」は「日本国」になった!
現在、わが国の建国記念日は2月11日と定められている。これは日本書紀において、BC660年辛酉の1月1日に、神武天皇が橿原宮で即位されたとされる日である。その日本書紀の元になった聖徳太子の日本歴史の編纂においては、中国の陰陽五行説に基づく讖緯(しんい)思想(=未来予見の説)が利用された。
その際、超長期の歴史を見る区切りとして、「1蔀」(ぼう:1260もしくは1320年)という単位が導入された。
そこで、601年の聖徳太子による斑鳩宮における新政を基点として、そこから1蔀さかのぼった時点に神武天皇の建国日が設定された。それがBC660年であったことは、既に「聖徳太子のナゾ」において述べた。
面白いことに、BC660年から1蔀下った時点を1蔀=1320年として計算してみると、AD661年辛酉になる。この年には、斎明天皇が亡くなり、代わって中大兄皇子が事実上の天智天皇(=称制)として、大化改新への取り組みを本格的に始められた年である。
つまり神武天皇即位を基点として考えた場合、日本歴史の第2蔀は大化改新から始まることになる。これはいろいろな点から面白い見方である。
645年6月12日、「大化改新」は中大兄皇子、藤原鎌足などが、朝鮮3国の朝貢の日に蘇我入鹿を暗殺するという政治クーデターにより開幕した。この政変により皇極天皇は退位され、このクーデターに自らも参加した軽皇子が、その2日後の6月14日に孝徳天皇として即位された。
そして孝徳天皇の大化の新政権は、早速、次にあげるいろいろな新しい政策を打ち出した。
(a)「日本国」の国号宣言
日本書紀によれば、蘇我入鹿暗殺から1ヶ月後の7月10日、高麗、百済、新羅の大使に対して、天皇の詔を通じて国号を「日本国」とすることが高らかに宣言された。
これによりヤマト中心の部族国家であった「倭国」は、統一国家としての「日本国」にイメージ・チェンジし、そのことが海外に宣言されたことになる。
天皇の名前にも「日本」が使われた。
日本書紀が記載する孝徳天皇の正式名は,天万豊日天皇(アメヨロズ トヨヒノスメラミコト)であるが、大化元(645)年の高麗の使者に対する詔では、「明神御宇日本天皇」(アキツカミト アメノシタシラス ヤマトノスメラミコト)とされ、ここで天皇の名前に初めて「日本」という文字が使われた。
さらに、翌大化2(646)年2月15日、右大臣蘇我倉山田石川麻呂に詔を読み上げさせたとき、孝徳天皇の名は「明神御宇日本倭根子天皇」(アキツカミト アメノシタシロシメス ニホンヤマトネコ ノスメラミコト)とされ、そこでは「日本」と「倭」が重ねて用いられた。
現在、「日本倭」を合わせて「ヤマト」と呼ばれているようであるが、ここでは「日本」と「倭」は明らかに意識的な重ね言葉として用いられており、かつて本居宣長や飯田武卿が読んだように、「ニホン・ヤマト」と呼ぶのが本当であると私は思う。
(b)元号の採用
孝徳天皇により、わが国ではじめて「大化」という元号が採用された。そして645年は、6月19日から大化元年となった。中国では皇帝は歴代すべて元号を定めており、「大化」をもって日本の天皇は中国にならって、元首として確立したといえる。
(c)律令国家への宣言
当時、アジアの中心をなした国は中国である。その中国では、推古天皇の西暦618年に隋が滅びて唐に代わり、翌619年には租庸調の制度が定められ、さらに625年には武徳律令が制定された。つまり、唐はこの律令制により隋の制度を受け継いだのみでなく、漢以後の律令を集大成して統一国家制度に纏めあげた。
この中国の律令制への歩みは、朝鮮半島の政治にも大きな影響を与えた。三国時代の高句麗が4世紀から、新羅が6世紀から律令を制定したといわれ、さらに7世紀に成立した統一新羅の王朝、8世紀に起こったツングース系の渤海、10世紀にこの渤海を滅ぼした契丹族の遼や同じころの高麗など、すべて律令法に基づく国家体制が朝鮮半島で形成された。
この流れの中、唐から623年に帰国した僧恵斎ら日本の留学生は、「大唐国は、法式が備わった珍しい国であり、是非、通交すべきである」と推古天皇に上奏した。
このときには、既に17条憲法を制定(604年)して、わが国で最初の律令への第1歩を踏み出していた聖徳太子は逝去されており、律令制への取り組みは、日本の次の指導者に託されていた。
つまり日本においても、大化改新の前から律令制へ向けて強い政治的背景が作られていた。
大化2(646)年1月、正月の拝賀式のあとで、「改新の詔」が発布された。しかし書紀が記載するその内容には、後代になって使われた言葉が多く見られ、その信憑性が問題になっているものの、なおこの詔は大化改新のねらいを明確にした点で重要な記述である。
そこには次の4点が述べられていた。
(1) 公地公民制への移行
朝廷の直轄領、氏族などの私有地や私有民を廃止し、公地公民制とする。
(2) 地方行政組織の確立
都城、防御施設、西海防衛組織、交通・通信制度、地方行政区画など、地方行政の組織、制度の制定。
(3) 戸籍作成と班田収授法の実施
戸籍の確定と土地租税制度の創設。
(4) 租庸調など統一的な賦課制度の施行
旧来の力役の制度から田の調への移行。
つまりここでは従来の氏族制度による皇室・豪族の個別支配権が否定されて、中国の律令制にならった中央集権的・官僚制的支配体制を確立することをねらいにすることが明確に示された。
|