(6)奈良仏教の不思議な守護神 ―八幡神の登場
奈良仏教には、八幡神という不思議な仏教の守護神が突然、登場してくる。この神は、鎌倉時代には弓矢八幡大菩薩という仏様にもなり、武士階級の守護神=仏?になるが、八幡神が歴史に登場してくるのは東大寺大仏殿の造建からである。
それは、後には与謝野晶子の歌にうたわれた鎌倉大仏に繋がってくる。
●八幡神とは?
聖徳太子のころから奈良時代の中期まで、仏教の守護神といえば「四天王」であった。四天王とは、持国天、増長天、広目天、多聞天のことである。
いずれも仏界を守護し、正法を護持する国家鎮護の神であるが、すべて外国生まれの神である。飛鳥、奈良、平安、鎌倉期を通じて、四天王は仏教守護、外敵鎮護の祈りを込めた神として信仰されてきた。この仏教鎮護の神に新しく日本生まれ?の八幡神が加わる。
何故、奈良仏教の守護神に八幡神が登場してきたのか?いろいろな説はあるが、本当のところはよく分らず、ナゾの部分の方が多い。
八幡神は、その後、鎌倉期を通じて武士階級の守護神になり、神仏習合によって八幡大菩薩という仏様にもなり、仏教のみか国家守護の神+仏となった。
この八幡神は、一体、どのような神なのであろうか?
昭和60年の文化庁の統計調査によると、日本の神社総数は81,410社あるという。そのうち全国の八幡神社の数は43,000社もあり、半数以上を占めているのである。
その八幡神の出自は、高天原の中心地・大和からは遠く離れた九州大分の宇佐八幡宮である。
その宇佐八幡宮が、平安時代の初期の859年に僧・行教の働きにより、山城国綴喜郡の男山に石清水八幡宮として勧請された。
宇佐八幡宮の分社は15,000社、石清水八幡宮の分社は25,000社、合わせて40,000社になり、2宮の関係だけで八幡神社の大半を占める。
八幡宮の祭神には、応神天皇、比盗_(ひめがみ)や神功皇后が祭られている。
応神天皇は、このシリーズの「7. 4〜5世紀の倭国王朝 (3)4〜5世紀の倭国は?」で取り上げたが、神功皇后を母として生まれ、九州王朝と大和王朝を統合して「河内王朝」の初代王となった天皇である。
この天皇は、朝鮮半島に何度も攻撃を加えた行動の激しさと、古墳などに見られるスケールの大きさから、かっては「騎馬民族」の出身といわれた天皇であり、その後に武士階級の守護神になったことも納得できる。
九州宇佐の八幡宮は、神名帳頭註に欽明5(544)年顕座といわれるが、久米邦武氏の「奈良朝史」によると、欽明は元明の誤りとされる。
元明天皇であれば8世紀のはじめであり、奈良時代には生まれたて、ほやほやの神宮である。
この八幡宮が、続日本紀にはじめて登場するのは、天平9(737)年4月である。
天皇が、従来奉幣してきた伊勢神宮、大三輪神社、筑紫の住吉神社、香椎宮に、新しく宇佐の八幡宮を加える、とする記事である。
そこにあげられている神宮は、すべて古来の由緒をもつものである。これに出来たての宇佐の八幡宮が加えられたことになる。さらに、宇佐縁記には、「(豊前国宇佐郡)馬城峯に広幡八幡宮が祭られたのは、聖武天皇の神亀5(728)年と言う」と記されており、宇佐の八幡宮が大仏建立の応援に乗り出したのは、神社が出来たばかりの初めての仕事であった可能性が高い。
●宇佐八幡宮の進出のナゾ
続日本紀が記載する、宇佐八幡宮による聖武天皇の大仏建立への支援の記事を追ってみると、天平12(740)年10月9日の藤原広嗣の乱で鎮圧に向かった大将軍・大野東人の戦勝祈請から始まり、天平勝宝元(749)年11月には、鋳造がなった東大寺大仏参向のため、八幡大神は宇佐を出発して京に向かうほどの肩の入れ方であった。天平勝宝元(749)年12月18日には、八幡大神はとうとう京に入り、京の南に神殿が建立された。
このような八幡大神の奈良朝廷への肩入れは、非常に心細い思いをしていた聖武天皇や孝謙天皇には、大変心強い支援になったと思われる。
そして出来たての宇佐八幡宮は、この大仏建立への肩入れにより、朝廷の中で大きな地位を占めることになった。
この宇佐八幡宮の進出の背景には、藤原氏の影がちらつく。久米邦武氏の推理によると、神武天皇のとき、宇佐津姫を藤原氏の祖の天種子命に賜ったという記事があり、また近いところでは正倉院文書の大宝2(702)年筑前国嶋郡の戸籍に、中臣部氏や卜部氏が多く居住していた記事がある。
その今津は、古来、唐韓船が来るところである。もともと中臣部氏や卜部氏が多く居住していたところに、天平に到って藤原宇合が西海道鎮撫使及び太宰師となり、そこで筑紫の貿易は、藤原氏が掌握していた。
このことから考えると、当時の筑紫の貿易は藤原氏の手に掌握されていたと思われる。この状況を背景にして、藤原広嗣の乱で征討の詔が大将軍東人に出され、そこで八幡神に祈請が行なわれた。このことが八幡神の朝廷への接近の契機になったと久米氏は推理されている。
しかしその後の八幡神は武家階級の守護神になっていく。とこがあろうことかこの日本の武家階級の神が、実は日本生まれではないという説が新たに登場して、その出自のナゾは更に深まった。
それは京都大学の中国学研究者・福永光司氏が、八幡神の出自を中国とする見解を発表されたことによる。
それによると室町時代にできた「八幡宇佐宮託宣集」には、「昔、吾は震旦国中国の神であった」と記録されており、さらに八幡とは三国時代の蜀の名将、諸葛孔明の戦闘隊形の八陣図をもとに、唐代に生まれた破陣楽舞で使われる八幡(八つの幡)からきているという。(岩波講座「東洋思想」巻13、中央公論版「日本の古代」巻13)。
八幡大神とは、日本版の玉皇大帝といわれるが、出典の時代が非常に新しい室町時代であり、もう少し様子を見る必要がありそうに思う。
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