18.歴史はミステリー(その13) −鎌倉時代は思想の花園(2)―禅宗の成立
(5)禅宗の思想とは?
禅宗と浄土宗では、同じ仏教でもそのバックグラウンドが全く異なるようである。
大体、禅宗においては、浄土信仰の前提として考えられていた「末法の時代」なるものが存在しない。それどころか、「この世」とか「あの世」とか言うものも存在しない。禅宗においては、フシギなことにそれらは存在していないからこそ存在している、だから存在と非存在は同じことなのである。
そこが、「常識人」には最初から理解が難しい認識論である。
これらは言葉の遊び?と勘違いされそうであるが、そうではない。人間の生死の問題を考えてみると、それは分りやすい。
人間にもし「死ぬ」ということがなければ、恐らく「生きる」ということもない。
つまり生きている人間は「死ぬ」ことにより「生きる」ということの意味がわかるわけであり、死ぬ事がなければ、生きるということの意味もなくなる。
つまり生きるということの意味は、死ぬことにより初めて分る。だから死ぬということは、生きることでもある。
考えてみると、人間はすでに何十億年も生死を繰り返してきている。そのことから考えると、生とか死とかいうもの自体が、本来「空」である。これが禅宗の弁証法的な考え方である。それを哲学的にいえば、AはAではない、だからAである。そしてそれ自体が空である。
それが「色則是空」であり、禅宗がよって立つ根本思想である。
禅思想を語る重要な経典の一つに「金剛般若経」がある。その中の「荘厳浄土分 第十」に次のような文がある。(平田精耕「一切は空 般若心経」集英社、170頁)
「清浄の心生ずれば、是浄土の荘厳なり、諸相はすなわち荘厳に非ず、
故にこれを受るに荘厳浄土分をもってす」
ダルマから6番目の祖師になった慧能という高僧は、この経文に次ぎのような注をつけている。清浄の一心というものを自覚すれば、それがそのまま極楽浄土を荘厳していることである。なにも西方十万億土まで行って、その極楽浄土ではどのようなお飾りをしているか見てくる必要はない。
つまりこの現世=穢土における苦しみの世界の中での、「本源の一心」つまり「清浄の一心」が自覚できれば、それはそのまま、この世でもって極楽浄土を荘厳していることになる。だから饅頭を置いたり、ミカンを置いたりして飾りたてることが決して荘厳ではない、といっている。
この指摘は大変なことである!浄土信仰においては、死後の極楽浄土を荘厳するために、貴族たちは、生前から自分の屋敷の中に「浄土庭園」を構築して荘厳する試みを行なっている。それは完全に無意味なことだと言っているのである。
さらに重要な指摘が、その後に続く。
「須菩提(しゅぼだい)よ、意において云何(いかん)ぞ、菩薩は仏土を荘厳するやいなや」「いななり世尊、何を以っての故に、仏土を荘厳するとは、すなわち荘厳に非ず、これを荘厳と名く。」
「須菩提よ、菩薩は本心から仏国土、つまり極楽浄土を飾りたてているのですか?」、 「いやそうではありません。世尊よ! 仏国土を荘厳にするとは、荘厳ではありません。だからそれを荘厳といいます!」
これは典型的な禅問答である。慧能の注では次のようにいう。
「清浄の仏土は、無相無形なり。何者か而も能く荘厳せんや、唯だ定恵の宝を以って仮に荘厳と名づく」。
本来の仏国土は、姿も形もない。そこでは花やみかんで飾りつけようがないではありませんか。だから座禅による般若の智恵によって、飾りつけをするわけです。これこそが荘厳なのです。
前にも述べた鈴木大拙氏における「日本的霊性」は鎌倉時代に登場してきた。
そこには、次のように書かれている。「日本的霊性の動きは鎌倉時代に浄土面に現れて、法然、親鸞などの流れを形成し、他方では禅面に現れて、武士の生活を規定した。・・禅は宗教というよりも、むしろ生活そのものとして、我らの間に流れている」(「前掲書」252頁)
つまり唯物的な豊かさよりも、精神的な豊かさをもとめる思想は、鎌倉時代から登場してきたといえる。
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