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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方

11.歴史はミステリー(その6) −奈良時代の伊勢神宮と東大寺造仏のナゾ
12.歴史はミステリー(その7) −長岡京・平安京遷都のナゾ
13.歴史はミステリー(その8) −日本の女性天皇
14.歴史はミステリー(その9) −日本的仏教の誕生
15.歴史はミステリー(その10) −空海「いろは歌」のナゾ
16.歴史はミステリー(その11) −庶民における地獄・極楽の誕生
17.歴史はミステリー(その12) −鎌倉時代は思想の花園(1)―明恵、泰時、法然
18.歴史はミステリー(その13) −鎌倉時代は思想の花園(2)―禅宗の成立

19.歴史はミステリー(その14) −元寇と日蓮の予言
(1)チンギス・カーンと元帝国の建国
(2)日本と高麗、元、宋の国際外交と戦争
(3)「神国日本」の登場
(4)元の襲来を予言した日蓮

20.歴史はミステリー(その15) −歴史の中の未来記
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  19.歴史はミステリー(その14) −元寇と日蓮の予言

(1)チンギス・カーンと元帝国の建国
 13世紀の世界は、歴史が経験する最大級の変動が起こった世紀である。
 それは蒙古にチンギス・カーン(1162?−1227)が登場し、アジア、ロシアからヨーロパに及ぶ「大モンゴル帝国」(後の元帝国)が形成されたことによる。
 チンギス・カーンの蒙古族は、元来、黒竜江上流から出た遊牧民族であるが、13世紀にテムジン(鉄木真)が現れてから急速に勢力を拡大し、チンギス・カーンと名乗ってアジアからヨーロッパにおよぶ大帝国を作り上げた
 そして日本もこの時代に、史上初めて外国(=モンゴル帝国)からの本土攻撃を2度まで受けることになった。今回はこの話からはじめる。

●大モンゴル帝国の出現 −テムジンからチンギス・カーン(皇帝)へ
 モンゴル帝国の創始者チンギス・カーン(=ジンギスカンは、その訛ったいい方)は、1162年頃?に、モンゴル部の貴族エスガイの子として生まれた。幼名はテムジンという。
 テムジンは、1189年頃、モンゴルを統一してカーン(=皇帝)の位につき、チンギス・カーンと名乗った。
 このチンギスとは、シャ−マン教の光りの神であるハジル・チンギス・テングリに由来するといわれ、カーンは蒙古語の皇帝を意味する

 源義経の生年が1159年で、テムジンと殆ど同じ歳である。義経は1189年に衣川で自刃したことになっているが、落ち延びて蒙古に渡り、チンギス・カーンになったという義経伝説が根強く存在している。
 それはチンギス・カーンが、モンゴルの中で勢力を伸ばし始めたのが、13世紀の初頭であり、時期的にぴったり符合することが、伝説に真実味を与えたことにある。

 チンギス・カーンは、丁度、義経が破竹の勢いで平家を追討したように、1206年にはモンゴル帝国のカーン(=皇帝)となり、翌1207年には西夏に侵入、1211年には南方の金に侵入して、それらの領土を徹底的に略奪した
 1215年には金の首都・燕京(今の北京)を占領して金を征服し、大モンゴル帝国の建設を目指した

 さらに中央アジアからロシア南部、インド北部まで勢力を拡大したが、領土保全にはあまり関心がなく、1225年には蒙古に戻ったりしている。そして1227年に再び西夏に侵入してこれを滅ぼした。
 その領土は、西はヨーロッパ・ロシアの一部から、南は中国本土、当時の金国を含む広大なものになり、初代チンギス・カーンは1227年に亡くなった

●元の世祖フビライと高麗
 ▲大モンゴル帝国の皇帝・世祖フビライと元の建国
 このチンギス・カーンにより作られた大モンゴル帝国が、遊牧国家から中国風の専制的官僚国家として確立してくるのは、13世紀後半の世祖フビライからである。フビライ(1215-1294:クビライともいう)は、モンゴル帝国の第5代皇帝である。

 第4代皇帝モンケ(憲宗)は中国経営に力を入れたが、1259年にモンケが死去すると、モンゴル帝国の分裂は決定的なものになり、フビライとアリクブカという2人の皇帝が並立することになった。
 アリクブカは、国都カラコルムにあって遊牧帝国の伝統を守ろうとし、一方のフビライは上都(開平府:現在、その町はない)を本拠にして広大な中国大陸に勢力の基盤を求めた。
 その結果、中国大陸をおさえたフビライが優勢になるのは当然の勢いであり、1261年にフビライの軍は、アリクブカの軍を破って、フビライの優勢が確立した

 その前年の1260年に、大モンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・カーンは即位した。
 フビライ・カーンの初期におけるモンゴル帝国の領土は、西はヨーロッパ・ロシアの大部分、東はシベリア東部から満州、朝鮮に及び、南西はチベット、ココノル、雲南及びインドシナの一部、南は中国北部を占有して南宋を圧迫するという広域に及ぶ大帝国になった。
 1271年には国名を元とし、都を大都(いまの北京)に置いた。紙幣を発行して通貨を統一した。さらに、1279年には南宗を滅ぼし、元は中国の大統一国家となった。

 「元」の国号の由来は、「易経」の「大いなるかな乾元、万物資始す」という言葉からきている。この国号の制定は、フビライが中国の支配者である事を自認し、自己の政権を中国に君臨した王朝と見做したことを物語るものである。

 ▲高麗王朝
 続いて日本に近い朝鮮半島の当時の状況を簡単に述べる。
 朝鮮半島において、高麗が前王朝の新羅に代わって全半島を統一したのは、10世紀のはじめ、日本では平安中期の延喜年間のことである。国都は開城(ソウル)にあった。
 しかしその高麗の国内では、後に日蓮が警告した「自界の叛逆」、つまり国内紛争が王朝の最初から続いていた
 元来、高麗では文人貴族が権力を持っていて、武人は低く見られていた。1170年に庚寅(こういん)の乱という武人によるクーデターにより、崔氏という武人による政権が約60年(1196-1258)にわたり出現した。
 蒙古軍が高麗へ侵入したのは、その崔氏政権のときである。

 日本において武家政権が力を持った鎌倉時代と同時期に、高麗でも特異な武人政権が成立しているのは興味ある現象といえる。
 蒙古軍が高麗へ侵入したとき、崔氏は家兵を温存して、首都の防衛に当てた。
 前線の諸城には平素、軍官、兵士が配置されていたものの、中央からの増援は期待できず、諸城は土豪、農民、奴婢などを動員して蒙古軍に対抗していた。

 朝鮮半島に対する蒙古軍の攻撃は、1231年から始まった。それから1258年までの30年間に6回にわたる蒙古の大攻撃が行われ、高麗は国の存亡をかけて蒙古軍と戦った。
 高麗は1232年にその戦争のため、陸地から離れた江華島に王都を移した。そのため水軍が弱い蒙古軍は、30年かけても江華島を占領でできなかった。そのうらにはこの崔氏による武人政権の活躍があった。

 しかし江華島に篭って蒙古軍と戦った高麗の崔氏政権は、1258年に江華島でクーデターが起こり、崔○(チオニウイ、さいぎ)が王政復古派に殺された。
 そのために1259年には、蒙古との和睦に応じ高麗は蒙古に対する朝貢国になった。しかし、その後も元に対する強い反対運動は続き、済州島に拠点を移して築城して戦いを続行したが、1273年に高麗は完全に元に服属することになった

 高麗と元の講和が成立すると、元は海を越えた次の国、日本の攻略を目指して、高麗に協力を求めてきた。元は、元来、海のない内陸の国であるため、陸戦は得意であるが海戦は苦手であり、どうしても高麗の海軍の協力が必要であった。






 
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