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日本人の思想とこころ
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  (3)揺らぐ8世紀のアマテラス神と伊勢神宮
 アマテラス神は、天皇家の氏神である。そのアマテラス神を祭る伊勢神宮に対する信仰は、鎌倉時代から武家階級に広がり、さらに室町期ごろから庶民による「お伊勢もうで」にひろがった。
 さらに、そのはては幕末における民衆による伊勢信仰の爆発的な展開となり、「ええじゃないか」という社会的運動まで引き起こした。
 しかし、古代における伊勢神宮は、貴族、皇族でも天皇の許可がなければ奉幣すら許されない、庶民とは無縁の禁断の神宮であった

●内宮の創始
 伊勢神宮は、アマテラス神を祭る内宮と、トヨウケ神を祭る外宮から構成されている。まず伊勢神宮の内宮の創始は、日本書紀の崇神天皇の条に記されている。
 崇神天皇の5年に国内に疫病がはやり、人口の半分以上が死ぬという大惨事になり、さらに6年には百姓の流亡や背反が広がった。
 その原因を調べると、朝廷の中にアマテラス神と倭のオオクニタマ神を合わせて祭っていることにあることが分った。

 そこでこの2神を分けてお祭りすることになり、アマテラス神にはトヨスキイリヒメがついて、大和の笠縫村に祭られることになった。
 次の垂仁天皇の代に、アマテラス神は皇女ヤマトヒメに奉じられて、新しい大宮の安住の地を求める一大流浪の旅が始まった。
 この旅は、大和の菟田の篠幡からはじまり、近江国へ入り、東の美濃をへてようやく最後に伊勢の国にたどりつき、そこの五十鈴川のほとりに伊勢神宮の内宮が創設された。このアマテラス神の大流浪の目的はまったくのナゾである。

 この遷幸には、有力な武将である「五大夫」がヤマトヒメに随行しており、巡行の各地では国造や県造が、「神の御田や神戸」を次々に進献している。
 そのために神道学者の田中卓氏は、流浪の目的を大和朝廷による「皇威の宣布」とされたが、その流浪の範囲はあまりにも広く、本当の目的はやはり分らない

●外宮の創始
 外宮の創始については、なぜか日本書紀に記述がなく、平安初期の「止由氣宮儀式帖」に記述されている。

 それによると雄略朝に、丹波国の比治の真奈井から御饌都神(みつけ神:食物神)である等由氣(=豊受)神を伊勢の度会に移し祭ったのが、外宮のはじまりとされる。
 しかし一方では、アマテラス神の内宮が創始されたとき、すでに伊勢の度会の地に土地神が祭られていたとする説もあり、これもよく分らない。

 また古事記におけるニニギノミコトの天孫降臨の条に、高天原からつき従った神の中に登由宇気神の名があり、「こは外宮(とつみや)の度相(わたらい)にます神なり」と記述されている。
 これらのことから、8世紀初頭には、伊勢神宮の内外宮がともに存在していたことは確かである。

●天武、持統天皇による伊勢神宮の諸制度の整備
 アマテラス神を中心にした日本神話のシナリオを書いたのは、天武天皇と持統天皇であると考えられる。
 特に天武天皇の皇后であった持統天皇は、「万葉集」の藤原宮役民の歌にも「吾が大君 高照らす 日の皇子」と歌われており、天皇自身が高天原のアマテラス神にも擬せられる女帝であった
 伊勢神宮を東の果てに置いた藤原宮の造都の過程にあった持統天皇の3(689)年3月、天皇は皆の反対を押し切って伊勢行幸を強行されており、それほどまでに伊勢への関心は強かった。

 そこでは伊勢神宮を権威づけることが、同時に持統天皇自身の権威を高めることでもあったと考えられる
 壬申の乱の後、皇位についた天武天皇とその皇后の持統天皇により、伊勢神宮の諸制度は大きく整備される。その出発点は壬申の乱であった。

 この乱において、大海人皇子(=天武天皇)は吉野宮に兵を起こして近江京へ攻め上る途中の672年6月24日、朝明郡迹太川(とおかわ:三重県三重郡朝明川)のほとりで、遥かにアマテラス神の伊勢神宮を遥拝し、戦勝を祈念されたことはよく知られている

 壬申の乱に勝利した天武天皇は、その即位の673年に、自分の娘の大来皇女を、早速伊勢神宮の斎王に任命された。このことにより推古朝のころから絶えていた斎王が復活し、伊勢の斎宮が制度として確立した
 斎宮とは、未婚の皇女に斎王(いつきのひめみこ)という役職を与えて、伊勢神宮に奉仕する制度である。斎王のはじまりは、垂仁朝のヤマトヒメが初代となるが、斎宮が制度化されたのは天武天皇からである

 この他にも、天武天皇の時代に伊勢神宮と天皇祭祀に関する多くの制度が確立した。その一つは、式年遷宮の制度である。現在、行なわれている20年毎に社殿を新しく建替える式年遷宮の制度が、初めて計画されたのも天武天皇のときであり、持統天皇の時代から実施に移された。
 内宮の第1回遷宮は持統天皇の4(690)年、外宮の遷宮は持統天皇の6(692)年から始まる。

 さらに、天皇即位の際に天皇霊を引き継ぐ天皇の一世一代の新嘗祭である「大嘗祭」も、天武朝において確立した
 天武天皇におけるこのような天皇祭祀の改革は、次の持統天皇に引き継がれて、伊勢神宮と天皇家との制度的な関係は、天武天皇と持統天皇の時代に完成した

●アマテラス神話の確立
 日本歴史の最古の史書は古事記と日本書紀であり、現在のアマテラス神話は、この2書によって確立した。その内容は、聖徳太子以来、続けられてきた修史事業を基にしているものの、アマテラス神話の骨子は天武、持統天皇のときに確立したと思われる

 日本書紀によると、天武10(681)年3月17日、天武天皇は大極殿に出御され、川島皇子、忍壁皇子をはじめとする人々に帝記および上古諸事の編纂を命令されて、中臣大島、平群臣子首が筆をとって編纂に当たることになった。

 その経過はよく分らないが、日本書紀の原撰はこのときに形が出来たと思われており、それがまず古事記となって現れた。
 古事記は、天武天皇の命を受けた稗田阿礼が誦習した上古から推古天皇にいたる帝記と旧事を、太安万侶が撰録したとされる日本最初の史書であり、712年に完成した。

 さらに、日本書紀が、天武天皇の第3皇子である舎人親王によって編纂された官選史書として、720年に完成した。
 日本書紀は、上古から持統天皇までを対象にしており、聖徳太子と天武天皇による修史事業の集大成が日本書紀になったと考えられる

 つまり皇祖アマテラス神を頂点とした日本神話から始まる歴史の筋書きは、天武、持統天皇の時代に確立し、それが古事記、日本書紀という大著としてまとめられ、その中で皇祖アマテラス神を頂点とする神話の構成が確立した。

●伊勢神宮寺の創設
 8世紀の日本は、後で述べるように仏教の勢力が圧倒的に強くなった時代である。そのために伊勢神宮も、仏教と関係を持つ必要があった。それが伊勢神宮寺である。

 続日本紀の天平神護元(765)年の称徳天皇の勅には、「朕は仏の御弟子、菩薩の戒を承りてあり、これによりて上つ方は三宝(=ほとけ)に仕えまつり、次に天社国社の神たち」と述べられている。
 つまりこの勅をみると、奈良時代では、日本の天社国社(=神社)の神々が、仏の下位に置かれていることがよく分る

 この事情を反映して、伊勢神宮にも「伊勢神宮寺」という寺院が作られた。神宮寺とは、神社に付属して建てられた寺のことである。神も仏教を喜ぶとする考え方からきており、社僧別当が、神社の祭祀を仏式で行なうものであった。
 このような神宮寺は、近世になり神仏習合、本地垂迹説が一般化するに従い、殆どの神社に見られるようになり、明治維新による廃仏毀釈まで続いた。

 天平神護2(766)年7月の条に、「使いを遣わし、丈六の仏像を伊勢の大神宮寺に作らしむ」という記事がある。8世紀の始めから、伊勢神宮寺をはじめとして、全国的に神宮寺がいくつか造られた。たとえば、715−716年に越前の氣比神の氣比神宮寺、養老年間の若狭比古神宮寺、741年の宇佐八幡の三重塔、天平勝宝年中の鹿嶋神宮寺、758年の住吉神宮寺、天平宝字7(763)年の多度神宮寺などがそれであり(藤谷、直木「伊勢神宮」三一新書、73頁)、8世紀の前半期に多くの神宮寺が建立されたことが分る。




 
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