16.歴史はミステリー(その11) −庶民における地獄・極楽の誕生
(1)浄土思想の成立
●厭離穢土、欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)
奈良時代から平安時代初期における日本仏教の世界観は、現代のそれとは大きく異なっていた。現代の仏教に見られるような地獄・極楽を含む個人の死後世界、その中で輪廻・転生するといった浄土思想などが現われ、朝廷、貴族をはじめ庶民にまで広まっていったのは10世紀の後半以降のことである。
我々がイメージする仏教は、死後世界の地獄・極楽を切り離しては考えられない。
しかし10世紀前半までの仏教においては、驚くほど生者の現世利益に重点が置かれていて、しかもその対象も天皇や貴族を中心にしたものであった。
それが10世紀の後半以降、個人の死後世界を中心にしたものに変貌し、さらにその対象も天皇と貴族から、民衆を中心にしたものに転換していった。
その新しい仏教の担い手になったものが、浄土思想であった。
その一方、聖徳太子(574-622)の時代に、既に浄土世界としての「天寿国」が登場していた。これについては家永三郎氏の「上代仏教思想史」に、「聖徳太子の浄土」の詳細な研究がなされている。
そこには中国における弥勒、釈迦、観音、その他の造像銘に見られる「仏の浄土」が多数あげられているが、そこでの「浄土」は、無数に存在する仏の理想世界の存在を示したものであり、現実世界の「穢土」や、さらにひどい「地獄」の対極として、「浄土」が考えられているわけではなかった。
現実世界を「穢土」と考え、さらにひどい「地獄」から理想世界としての「浄土」にいたる死後の世界観が登場したのは、9世紀の「日本霊異記」以降のことである。そしてその新しい浄土思想は、10世紀の源信による「往生要集」により確立した。
そこで現実世界を明確に「穢土」と規定し、それから離脱して彼岸の浄土を希求する「厭離穢土、欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)という新しい考え方が確立した。
そこでの究極の浄土は阿弥陀如来の「極楽」であり、それに対立するのが、現実世界の「穢土」、そしてさらに過酷な死後の「地獄」であった。
この思想は、10-11世紀にかけて、時を同じくして到来した仏教における末法時代を受けて、現世利益を希求する仏教から死後の極楽往生を求める仏教に大きく転化していった。
●末法の時代の到来 ―1052年、日本は末法の世に入る!
仏教の面白いところは、自らの思想の滅亡を予め想定していることにある。
そこでは仏教の教祖シャカムニが亡くなってから、仏教の教義を構成する「教、行、証」に対する市井の受容が、次の3つの時代を経て変化していくと考えられた。
(1) 正法の時代・・そこには仏教教義が正しく残っており、教(=教説)、行(=その実践)、証(=その結果)がすべて完備している時代
(2) 像法の時代・・そこには教説と実践のみしか残っていない時代
(3) 末法の時代・・教説のみしか残っていない時代、それがさらに進むとすべて消滅する法滅期に入る。
それぞれの時代がどれほどのあいだ続くかについては、次の諸説があり、必ずしも一定していない。(「京都の歴史1」学芸書林、581頁)
(1) 正法500年、像法1000年
(2) 正法1000年、像法500年
(3) 正法500年、像法500年
(4) 正法1000年、像法1000年
日本においては、(1)または(4)が一般的に支持されていたようである。
この正法、像法、末法3時の教説は、釈迦入滅の年を始点にしているが、釈迦入滅の年にも諸説あり一定してない。
最澄に仮託されている「末法灯明記」によると、釈迦入滅の年は、周の匡王4年(BC609)年とする説と周の穆王53(BC949)年の2説ある。
わが国に定着している末法入りの年は、後者によっており、正像2千年後、つまり上記の(4)をとる。
日本では、釈迦の入滅は周の穆王53(BC949)壬申の年2月18日としている。この考え方をとると、2000年-949年=1051年に像法の時代が終わる。
この見解をとると、後冷泉天皇の永承7(1052)年から、日本では末法の世に入る。
事実、後冷泉天皇の時代に入ると、それを裏付けるように、平安京では放火が連日のように昼夜を問わずに起こり、盗賊は横行し、その上、大火、地震、庖瘡、大旱魃、飢饉などの天災があいついだ。
これらの異変は、将に末法到来の前兆であるという現実感をもって受け止められ始めた。
●横川の僧・源信の「往生要集」
このように末法の世が到来する恐ろしい時代を背景にして、死後に極楽浄土を希求する阿弥陀信仰が大きく発展することになった。
それはすでに京都の市井に念仏を広める空也上人の聖の活動として、10世紀の前半から始まっていたが、さらにそれを貴族世界まで拡大したのが、天台沙門・源信(942-1017)の「往生要集」(984)の出現であった。
「市の聖」(いちのひじり)と呼ばれて遊行漂泊の旅を続けて市中念仏を広めていた空也上人が亡くなったのが972年、源信30歳のときである。
源信(942-1017)は、9歳で比叡山に上り、横川の良源(=その後、天台座主になった高僧)につき、32歳で広学堅義という学問上の名誉ある地位を得て、さらに宮中に出入りする内供奉十禅師という高い地位にまでのぼった。
しかし源信は、このような寺門権力における名誉栄達を放棄して、984年に43歳で横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に隠遁し、天台浄土教の原典ともいうべき「往生要集」(985)を完成した。
源信は、この往生要集において、浄土往生に関する従来の経論を抜粋、編集し、過去の160数部の文献から950余の文章を引用して、極楽浄土に往生するための思想と方法を詳細に説いた。
源信の書は、第1章の「厭離穢土」において、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六道の世界の内容を詳細に記述した。特に、地獄における等活地獄から阿鼻地獄にいたる8段階の恐ろしい世界の描写は、鬼気迫る迫力をもっている。
第2章の「欣求浄土」では、念仏を積んだ人が死に臨んだとき、阿弥陀仏が多くの菩薩や比丘たちを連れて迎えに来る「聖衆来迎楽」をはじめとする十の楽をあげて、極楽浄土への転生を勧誘した。
第3章の「極楽の証拠」では、十方浄土や兜卒浄土に対して極楽浄土が優れている証拠を挙げた。
第4章では、極楽往生のための念仏修行の方法を具体的に述べている。
「往生要集」は、従来の難解な仏教理論に対して、念仏往生のための明快な理論と方法を提起することにより浄土宗への契機を作り出した。
●仏教における輪廻転生の世界観
浄土思想の背景となる仏教的世界観の概要を説明する。
仏教における世界は、次の3つの世界、つまり「三界」から構成されている。
(1) 無色界
(2) 色界
(3) 欲界
そしてこの最下段の「欲界」は、さらに、次の6段階で構成されている。
(1) 天
(2) 人
(3) 修羅
(4) 畜生
(5) 餓鬼
(6) 地獄
これを「六道」(ろくどう)といい、人間の魂は、この「六道」の中を輪廻転生(りんねてんしょう)すると考える。
仏教における「死」とは、人間の魂がこの六道の中で次の世界へ転生することである。この「輪廻転生」の思想は、インドにおいては、古来行なわれてきたものであるが、仏教思想の伝来を通じて中国、日本においても、人の生を無限の過去から無限の未来に開く新しい思想として受容された。
この思想は、古く万葉集においても、
この世には 人言しげし 来む世にも
逢はむわがせこ いまならずとも (高田女王)
この世にし 楽しくあらば 来む世には
虫にも鳥にも 我はなれなむ (大伴旅人)
などと、既に、輪廻転生の思想が歌われている例を見ることが出来る。
道長などの平安貴族は、当時、既に生前から極楽世界を模した寺院を建立して、「生ける浄土」を実現しようと考えていた。輪廻思想は、平安貴族の中では常識化していたと思われる。(和辻哲郎「日本の文芸と仏教思想」、「続日本精神史研究」所収)
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