15.歴史はミステリー(その10) −空海「いろは歌」のナゾ
(1)戦前期 ―小学校の「いろは歌」
まず「いろは歌」なるものを、ひらがなとカタカナにより次に挙げる。
図表-1 ひらがなのいろは
い |
ろ |
は |
に |
ほ |
へ |
と |
ち |
り |
ぬ |
る |
を |
わ |
か |
よ |
た |
れ |
そ |
つ |
ね |
な |
ら |
む |
う |
ゐ |
の |
お |
く |
や |
ま |
け |
ふ |
こ |
え |
て |
あ |
さ |
き |
ゆ |
め |
み |
し |
ゑ |
ひ |
も |
せ |
す |
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図表-2 カタカナのいろは
イ |
ロ |
ハ |
ニ |
ホ |
ヘ |
ト |
チ |
リ |
ヌ |
ル |
ヲ |
ワ |
カ |
ヨ |
タ |
レ |
ソ |
ツ |
ネ |
ナ |
ラ |
ム |
ウ |
ヰ |
ノ |
オ |
ク |
ヤ |
マ |
ケ |
フ |
コ |
エ |
テ |
ア |
サ |
キ |
ユ |
メ |
ミ |
シ |
ヱ |
ヒ |
モ |
セ |
ス |
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この「いろは歌」は、すべて異なる文字から作られており「字母歌」と呼ばれる。
戦前の小学1年生では「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まる尋常小学国語の教科書を使ってカタカナの読み書きを教えられた。
そして習字の練習には、このイロハ歌が教材として使われた。イロハ歌は、47文字の短い歌で、すべての文字の書き方が練習できるので便利であった。
この習字には、紙が非常に貴重であったために、主に黒い石版と白い石墨が使われ、先生に丸を描いてもらうときに、初めて半紙に清書した
小学1年生でカタカナの読み書きが終わると、2年生にはひらがなの読み書きが教えられた。そして3年生になると、漢字混じりの少年雑誌などが一通り読めるようになるというのが、戦前の小学校における国語練習法であった。この場合、漢字にはふりがなのついている場合が多いため、自然に漢字の本が読めるようになった。
そこでの習字の練習方法は、江戸時代とさほど違わないものであったと思う。
この場合の習字における、いろは47文字の効用は、非常に大きなものであった。
しかしその間、私には「いろは」47文字が歌であるという認識は殆どなかった。
それは図表-1,2のように、通常は、7文字ずつ区切って使われているため、その意味を考えることはほとんどなく、それらの文字は殆ど符牒として記憶した。
つまり「いろはにほへと」、「ちりぬるをわか」という具合であり、それらの文字の連なりは、殆ど無意味な文字の組み合わせと考えられた。
それが6年生の国語において、「いろは」が歌としての意味を持つことを知ったときは、私にとって非常な衝撃であった事が思い出される。
「いろは」47文字は歌であり、しかも深い意味をもつことを知ったのは、小学6年の国語教科書における「修行者と羅刹」の話であった。
それは平安朝中期の学者・源為憲の「三宝絵詞」にのせられている、「涅槃経」の「雪山童子」(上巻、第10話)を書き直したものであることを後で知った。
その話は釈迦が前世に、雪山童子としてヒマラヤ山脈で修行していたときのことである。突然、人を食う恐ろしい羅刹が釈迦の前に現われた。
その羅刹が、童子の前で、「色は匂えど、散りぬるを、わが世たれぞ、常ならむ」とうたった。
修行中の童子は、その歌の深い意味に驚き、自分の命と引き換えに、歌の後半部分を教えてほしいと羅刹に頼んだ。
そのときに雪山童子の命と引き換えに、羅刹が教えてくれたのが「有為の奥山、今日越えて、浅き夢見し、酔ひもせず」という下の句であった。
その偈の後半を教えられた童子は、その言葉を木や石や壁のいたるところに書きつけた。「願わくは、後に来たらん人、必ずこの文を見よ」と言い残すと、高い木のうえから羅刹の前に身を躍らせた。
そのとき羅刹は帝釈天に代わり、童子を受け止めたというのが話の内容である。
この話に私は大きな衝撃を受けた。それまではただの文字の羅列と思っていた「いろは」の言葉が、深遠な意味を裏に持っていることを知った。
しかもそれは、「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」という「雪山偈」の言葉を歌にしたものであった。
さらに、「雪山偈」の言葉も、実は「いろは」の字母歌と同じくらい、ただものではない。
(1)「諸行無常」は、天上へ上る智恵の橋、阿含経の思想である。
(2)「是生滅法」は、愛欲の河をわたる般若の船、大般若経の思想である。
(3)「生滅滅己」は、剣の山を越える宝車、華厳経の思想である。
(4)「寂滅為楽」は、浄土に参る八相成道の義果、涅槃経の思想である。
つまり仏教の主要経典のエッセンスが、見事に組み合わされた偈になっている。
その頃、太平洋戦争は既に末期的な段階にあった。日本本土は、連日米軍の空襲をうけていた。私たちのまわりは死臭にあふれ、明日の命も分らない状態にあった。事実、私たちの同年生は、沖縄決戦では少年兵として多数戦死し、広島では原爆投下の日に爆心地で疎開家屋の撤去作業で全滅していた。
私たちは、その米軍の空襲下、生死の境を行く生活のなかで「いろは歌」の意味を、身をもって知った。
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