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日本人の思想とこころ
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  (5)奈良仏教の経典と民衆仏教への展開

 国分寺の造営は、それから30年にわたり続けられた。そして出来上がった寺院では、護国経典の金光明最勝王経が読み上げられた。
 この新訳の経典は、唐の義浄により703年に新しく訳されたものであり、718年に唐から帰国した学問僧・道慈により日本に齎された。
 神亀5(728)年12月に、早速、聖武天皇はこの新訳・金光明経を諸国に配布された。その頃、わが国ではまだ義浄以前に翻訳された金光明経が使用されていた。

●金光明経とは?
 金光明経は、護国3経(法華経、最勝経、仁王経)の一つである。諸経の王ともいわれて、国土安穏、智恵弁才、五穀豊穣を説く経典である。
 この経典を読誦すれば、四方四仏が罪業を除去し、四天王が加護するといわれた。

 四方四仏とは、東方の阿シュク尊、南方の宝相仏、西方の無量寿、北方の天鼓音であり、四天王とは、多聞天、持国天、増長天、広目天のことである。
 この経の力を借りれば、一切の罪を滅ぼし、あらゆる罪業が除去され、妙法吉祥懺の中で最も優れたものといわれる。

 金光明経の中核思想は懺悔と慈悲といわれ、また護国経典、呪術的経典としての役割のみか、国分寺における読誦の経典としても大きな役割を果たした。
 又放生会、四天王、吉祥天などのイデオロギー経典としても影響力をもった。
 東大寺をはじめとする国分寺は、鎮護国家祈願の大道場として、金光明経の思想に基づいて建立された。
 このため地方国分寺の正式名称は、金光明四天王護国之寺と呼ばれた。

 聖武天皇の神亀5(728)年12月に、金光明経の新訳の経典が諸国に配布され、この経典がいかに聖武天皇により重要視されていたかが分る。
 天平10(738)年4月、聖武天皇は詔書により国の繁栄と安寧を祈念して、京、畿内、七道の諸国において3日間、金光明経を転読させられた。
 そして、さらに一歩すすめて全国に国分寺を造り、金光明経を普及することになった。

●華厳経の思想と東大寺大仏の造営
 聖武天皇は、3度の遷都を繰り返した上で、再び平城京に戻るという不可思議な行動の間に、全国国分寺の釈迦仏を統括するKing of Kingsの仏として、東大寺大仏=盧舎那大仏を建立する計画に到達した
 その直接的な動機は、天平11(739)年に聖武天皇が河内智識寺へ行幸され、そこで盧舎那仏を見たことによるといわれるが、それ以上に聖武天皇と華厳宗の創始者・良弁の出会いが、背景をなしていたと思われる。

 華厳宗の創始者・良弁(689−773)は、姓は百済氏、近江志賀里の人である。
 はじめ義淵について法相宗を学び、奈良東山に山房を構えて金鐘行者と呼ばれた。
 それは良弁が、740年に金鐘寺(=東大寺の前身)において新羅僧・審祥から華厳教学を学び、日本の華厳宗の開祖となったことからきている。
 良弁は、華厳教学の立場から諸国の国分寺の総まとめとして東大寺を建て、盧舎那大仏を建立することを聖武天皇に進言した。

 東大寺・盧舎那大仏の背景をなす華厳教学の事々無礙法界、重々無尽の思想は、非常に難解である。それは千数百年をへた21世紀の最先端の現代数学やカオス理論にも類似しており、文学の方では三島由紀夫が、晩年の大作「豊穣の海」の中でその思想にふれた。
 ここでは石田茂作氏の「東大寺と国分寺」(至文堂、23頁)により、出来る限り分りやすく説明してみよう。

 華厳教学の教えは、文字を見ただけでは全く理解できない4つの法界、つまり事法界、理法界、事理無礙法界、事々無礙法界の意味から説明をする必要がある。
    事法界=物質世界のこと。     
    理法界=精神世界のこと。
    事理無礙法界=物質には精神が伴い、精神には物質が伴うと考える世界。
    事々無礙法界=一見、関係のないものが相互に関わりあっている世界。

 まず事法界(=物質世界)と理法界(=精神世界)の2つの世界は別のものではなく、物質には精神が伴い、精神には物質が伴うと考えるのが事理無礙法界である。
 これに対して事々無礙法界とは、一見、なにも関係のないものが、実は、関係しているという世界であり、華厳経の本質はこの法界にある。

 たとえばここに1軒の家があり、そこに松が生えているとする。松と家は、ここでは個々独立のものであるが、家は松があることによりその趣きが出てくる。
 つまり物と物の関係は、個々別々でありながら、お互いに関係している。この関係は無限に続いており、インドではインダラ神のネットワークと呼ばれている。

 このような関係の中で、仮に一つの玉に変化があると、その変化は個々の玉すべてに及ぶ。個人と国家の関係で考えてみると、個人は国家の一員であると共に国家の縮図である。したがって、個人の一挙手一投足は敏感に国家に影響すると同時に、国家の変化が個々人の全部に及ぶことになる。
 したがって、個人が良くなれば、国家が良くなり、国家が良くなれば、個人が良くなる。この事々無礙法界、重々無尽の世界を花蔵世界と名付ける

 この花蔵世界が地上に作り出したものが、全国の国分寺に安置された釈迦仏であり、その全国の国分寺の釈迦仏が映し出しているものは、中央に作られた巨大な盧舎那大仏である
 このことによりわが国土は、さながら現世の花蔵世界になるというのが良弁により作り出された華厳教学の世界の理想であったと考えられる。
 この考え方に沿って、天平15(743)年に聖武天皇の大詔を発せられ、近江紫香楽の地に盧舎那大仏の造営が開始され、大仏造顕と全国の国分寺創建計画が進められた。

 東大寺・盧舎那大仏の創建には、実は非常にナゾが多い。最初、近江紫香楽で建造に着手されたものの、天平17(745)年5月に急に平城京への復都が決まると、近江紫香楽における建造は中止されて、天平18(746)年に現在の奈良東大寺の地で大仏の建造が始められた。
 但し、このとき、「東大寺」という名称が使われていたかどうかは疑問であり、大和金光明寺、つまり大和の国分寺として発足したことが考えられる。

 続日本紀によれば、聖武天皇から孝謙天皇に代わった天平勝宝4(752)年夏4月9日、東大寺大仏は完成して開眼供養が行なわれた。この日、孝謙天皇は、文武の官人をつれて東大寺に行幸され、供養の食事が設けられ、盛大な法会が行なわれた。
 その斎会は、かつてない盛大なものであったと記されている。

●奈良仏教の変質 ―行基上人による社会事業の取り込み
 奈良仏教は、国家仏教の一方で、それと正反対の民衆仏教の側面も持ち始めた。既にそれは聖徳太子のころから、「知識」=信仰団体の組織的な活動などにみられたものである。それが藤原京のころから、民衆仏教の活動元興寺の禅僧・道昭の社会事業の形をとって現われ始めた。
 その内容は続日本紀の文武4(700)年3月条に、道昭和尚の死去の記事の中で詳しく述べられている。

 それによると道昭は、河内国丹比郡の人であり、653年に遣唐使に従い25歳で入唐し、661年に帰朝した。そして元興寺の東北隅に禅院を建てて止住したが、その後、天下を周遊して井戸を掘り、橋を架け、渡し場を作るなどの社会事業を行なった。
 山脊の宇治川の橋は、その一つといわれる。その後、元興寺の禅院に戻り、そこで亡くなった。死後、弟子たちにより最初の火葬に付されたといわれる。

 道昭が、天下周遊を始めたのは、680年代の前半といわれる。そのころは僧尼令の「僧尼はつねに寺内に住し、もって三宝をまもれ」(日本書紀、天武8(679)年10月条)という統制がきびしくなり、大寺制が確立し国家仏教が形成され始めていた。
 この段階で僧尼令に違反して始められた元興寺・道昭の行動は、当時の社会に大きな衝撃を与えたと思われる。

 7世紀末から8世紀初頭にかけて、畿内の先進地域では道昭のような大寺の官僧などが、民衆を相手に伝道教化に乗り出し始めた。これが仏教の地方浸透の契機になったと思われ、地方豪族による寺院建築も多くなっていった。(中井真孝「日本古代の仏教と民衆」評論社、75-78頁)

 このような僧侶の社会事業は、国家仏教の思想とは真っ向から対立するものである。霊亀3(717)年4月に元正天皇は詔を出し、その中で、このような僧の代表として行基上人を名指しで、非常に厳しく糾弾した。
 そこでは行基上人とその一行を「小僧行基ならびに弟子等」と呼び、「詐りて聖道と称し、百姓を妖惑す」と激しい言葉で非難しており、朝廷の怒りは尋常ではなかったことを示している。

 行基(668-749)については、「元亨釈書」(巻14)に詳しく述べられている。
 それによると行基は、和泉大鳥郡蜂田郷の出身で、百済国王の子孫といわれる。15歳で出家して薬師寺に入り、道昭、義淵らについて法相宗を学んだ。
 やがて故郷に帰り、民間布教に従事し、信者の力を借りて池溝、道橋、布施屋を各地に開いた。彼の初期の行動は僧尼令違反として禁じられた。上にあげた続日本紀(717年)における激しい糾弾は、そのときのことである。

 その後、行基は獄に繋がれたが、聖武天皇が行基上人を高く評価し、天平17(745)年には大僧正に任命された。そして東大寺が造営される8世紀の中ごろには、政府・行基の双方共に状況が大きく変化し、行基上人は、弟子たちと共に、聖武天皇の盧舎那大仏建立のために積極的な活動を始めた。

 聖武天皇の行基上人に対する対応は、盧舎那仏建立を境に弾圧から支持に一変した。行基上人の社会事業と民衆の参加は、盧舎那仏建立に合流し、華厳経が描き出している花蔵世界の実現に向かって動き始めた。

 華厳経の導入により、聖武天皇の目指す世界と行基上人が社会事業を通じて目指す世界が、花蔵世界で一致した。そのことにより奈良仏教は、8世紀の後半になり、国家仏教が民衆仏教を取り込んだ形で展開されるようになった




 
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