14.歴史はミステリー(その9) −日本的仏教の誕生
(1)奈良仏教の頽廃
平安仏教は、鎌倉期を通じて仏教が爆発的に大衆化してゆくその原点をなすものである。その意味では、日本の仏教は平安朝に誕生したともいえる。
その平安仏教の第一の担い手は、聖武天皇とは対照的に仏教きらいといわれる桓武天皇であり、第二が、山にこもって南都仏教と対決した最澄と空海である。
奈良仏教と平安仏教の不連続線は、そのスポンサーである天武系王朝と天智系王朝の違いはあるとはいえ、かなり対照的でミステリアスな面を含む。
奈良仏教が政治とのかかわりにより堕落したことへの、アンチテーゼが平安仏教とすれば、その平安仏教自体も後に密教による加持祈祷を中心として貴族と結びつくことにより、頽廃過程を辿っていく。
そしてそれが、さらに過激な鎌倉仏教をつくりだすことは、まさに歴史の皮肉ともいえる話である。
●政治権力に利用された奈良仏教
奈良時代は、日本の歴史において仏教の勢力が最も盛んになった時代であった。
大化の改新から始まった律令体制への移行は、奈良時代には一応の軌道に乗ってきた。そのため、それまでの氏族に分配されていた諸国の富は、天皇を頂点にした国家機構に集中するようになった。
この段階における新しい国家イデオロギーとしての奈良仏教は、国家を疫病や災害から護る思想的手段として利用されることにより、奈良朝の政治に密接に結びついていった。
それが全国の国分寺の建設と、さらにそれらを統合する東大寺大仏の建立に象徴されるものである。この国を挙げての造寺、造仏、造都には膨大な国費が費消され、さらに僧侶が富と権力に結びつくことによって、奈良仏教は急速に腐敗堕落していった。
●藤原仲麻呂(=恵美押勝)の台頭と叛乱
藤原仲麻呂(706-764)は、藤原南家の武智麻呂の第2子である。「続日本紀」によると少年時代の仲麻呂は、「稟性聡敏にしてほぼ書記にわたる。大納言阿部少麻呂に従い、算を学んで最もその術にくわし」と書かれている。
つまり仲麻呂は、書・算の術に詳しい能吏であり、さらに父祖以来の権謀術数に長けた人物であった。
天平9(737)年に全国的に猛威を振るった天然痘の流行により、藤原氏は、右大臣・武智麻呂や、参議・房前、宇合、麻呂といった重鎮を失った。藤原仲麻呂は、その後の権力の空白を受けて、藤原広継の乱後の政界に進出してきた。
天平勝宝4(752)年4月9日、10年の歳月と膨大な国費を費やした東大寺大仏が完成した。その日、孝謙天皇は聖武太上天皇、光明皇太后とともに礼服を着飾り、百官とともに東大寺に行幸になった。
1万の衆僧による読経の中、インドの帰化僧である僧正菩提が大仏の目に墨を入れて、開眼を行なった。
それは「仏法、東帰してより斎会の儀、未だかつて、かくのごとく盛んなることはあらず」といわれるほどの盛儀であった。
この大仏開眼の日、孝謙天皇は内裏に帰らず、光明皇太后とともに東大寺からただちに仲麻呂の私邸に向かわれ、その後、しばらくそこが御在所となった。
この頃、藤原仲麻呂の政治勢力は、光明皇太后の信任を背景に、完全に反対派の左大臣・橘諸兄の勢力を圧倒する勢力になっていた。
藤原仲麻呂の官職推移を図表-1にあげる。
図表-1 藤原仲麻呂の官職推移
聖武天皇 |
天平20年 |
中納言 |
孝謙天皇 |
天平21年 |
大納言 |
淳仁天皇 |
天平宝字2年 |
大保 |
天平宝字4年 |
大師 |
称徳天皇 |
天平宝字8年 |
大師 |
(出典)「公卿補任」
天平勝宝元(749)年7月、聖武天皇が譲位され、孝謙天皇となった後に、藤原仲麻呂は紫微中台という組織をつくり、自らその長官となった。
紫微中台とは、光明皇后の皇后宮職を改称したものであり、その職務は禁中にあって勅を奉じて、諸司に分ち行なうというものである。
ところがその組織が、実際には国政中枢の太政官の機能を奪い、国家の大権を掌握するほどのものになった。
そのため孝謙天皇の治世の間、政治の実権は孝謙天皇にはなく、母・光明皇太后と藤原仲麻呂(=恵美押勝)が長官をつとめる紫微中台という役所がにぎるという、異常な事態になっていた。
聖武天皇は、太上天皇として8年を勤められて、天平勝宝8(756)年5月に崩御された。遺言により道祖王を皇太子としたが、いろいろ風評があるため廃し、翌年4月、大炊王を皇太子とした。その翌月、孝謙天皇は紫微内相をおき、仲麻呂がそれに任命され、中外兵馬の権を握ることになった。
このような状況を受けて、橘諸兄の子の橘奈良麻呂らが7月にクーデターを企て、仲麻呂政権の転覆をはかったが、未然に鎮圧され、仲麻呂の専制的地位はますます強化されていった。
天平宝字2(758)年8月、仲麻呂は舎人親王の子の大炊王をたてて淳仁天皇とし、天皇は仲麻呂を臣下で最高位である大保(=太政大臣)に任命し、仲麻呂は恵美押勝の姓名を名乗ることになった。さらに、2年後の760年には、仲麻呂は大師(=太政大臣)となり、人臣最高の位につくことになった。
このような中で、光明皇太后が崩御され、孝謙上皇と淳仁天皇との間の軋轢は激しくなり、仲麻呂の政治はその中で、なおも続いた。
孝謙上皇と淳仁天皇の不和の中、孝謙上皇が保良宮で病気になられたとき、看護禅師として上皇に仕えたのが道鏡である。その後、道鏡は内道場に出入りするようになり、上皇の寵愛を集めるようになる。
この段階で上皇と天皇の不和は、道鏡と仲麻呂の権力闘争の形を取り始める。
権力の座が危なくなってきた仲麻呂は、天平宝字8(764)年9月に、都督四畿内三関近江丹波播磨等の国の兵事使となり、船親王、池田親王を味方に引き入れ、兵力をもって太上皇と道鏡を排除しようと図った。
しかしこのクーデター計画は事前に漏れたため失敗に終わり、仲麻呂は近江で敗死し、10月に淳仁天皇は淡路に配流となり、翌年崩御される。
そして淳仁天皇の配流と同時に、上皇は称徳天皇として重祚されて、765年10月、道鏡は太政大臣禅師という人臣の最高の地位につくことになる。
●天皇の座を狙った僧・道鏡
仲麻呂に代わって登場してきた道鏡(?−772)は、法相宗の僧である。
称徳天皇の寵を受けて政治に進出し、天平宝字8(764)年に大臣禅師という異例の地位についた。さらに翌天平神護元(765)年10月には、太政大臣禅師という地位に上った。
道鏡が、政治的に進出する直接的なきっかけは、764年に天皇の擁立を図っておこされた大師・太政大臣の藤原仲麻呂(=恵美押勝)による叛乱の鎮圧に果たした、道鏡の貢献による。
仲麻呂も道鏡も、ともに「大師・太政大臣」であり、このことから、当時いかに僧籍にあるものが政権の中枢を占めていたかが分る。
天平神護2(766)年10月、道鏡の腹心である円興の弟子基真(山階寺の僧)が、密かに小珠3粒を隅寺(=海竜王寺)の毘沙門天像の前に置き、仏舎利が出たと奏上する奇怪な事件が起こった。天皇は、仏舎利の色や形の美しさから、それを百官主典以上に礼拝させ、この奇跡の功績により、なんと道鏡には法王、円興には法臣、基真には法参議が授けられた。
称徳天皇の寵愛を受けて位人身を極めた道鏡は、翌天平神護3(767)年の正月には、西宮前殿において百官群臣の拝賀を受け、自ら寿詞を告げる天皇のような振る舞いをみせるようになった。
神護景雲3(769)年5月、太宰府の主神(かんづかさ)の中臣習宣(すげ)阿曾麻呂が都にきて、道鏡を皇位につかせれば、天下は太平になる、という宇佐八幡宮の託宣があったと奏上する事件が起こった。
そこで女帝は和氣清麻呂を召し、宇佐八幡の神に託宣を求められた。
和氣清麻呂に対する宇佐八幡の神の託宣は、「わが国家は開闢以来、君臣定まりぬ。臣をもって君とすること、いまだこれあらざるなり。天つ日嗣には必ず皇緒(皇族)をたてよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」というものであった。
この道鏡による皇位を伺う策謀は、一体誰がしかけたかについて、古来いろいろな説があるが、本当のところは分らない。
神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇が崩御された。この女帝には跡継ぎがなかった。称徳天皇の崩御により、一挙に皇位継承の権力闘争が持ち上がった。
天皇の支えを失った道鏡が体制を整える前に、藤原氏の藤原永手や藤原百川が、すばやく次の皇位を目指した行動を起こした。
先帝の遺詔と称して天智天皇の孫である白壁王を擁立し、光仁天皇として即位させることに成功した。そして道鏡は、造下野国薬師寺別当として左遷された。
●桓武天皇により新京への移転を禁じられた奈良の寺院と僧
光仁天皇の即位により、天武天皇以来続いてきた、持統―文武―元明―元正―聖武―孝謙―淳仁―称徳という天武天皇系の皇統が終わり、光仁天皇―桓武天皇という天智天皇系の皇統に代わった。
桓武天皇の治世が始まったとき、日本の国家財政は奈良時代を通じて打ち続いた遷都、造寺、造仏と、蝦夷征伐の負担により危機的状態にあった。
その危機的財政にも拘らず、桓武天皇による長岡京、平安京への遷都が行われた。
しかし、この遷都にあたり、平城京の官寺や僧の新京への移転は一切行なわれなかった。そのことは、上に述べてきた奈良仏教の頽廃に対して、桓武天皇はほとほと嫌気がさしていたことを示している。
このことから桓武天皇は、仏教嫌いといわれるが、本当はそうでもなく、新しい日本の仏教を新京に起こしたいという考えであった事が段々わかってくる。
そこへ最澄や空海の平安仏教が登場してくる。
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