12.歴史はミステリー(その7) −長岡京・平安京遷都のナゾ
(1)長岡京遷都―桓武天皇の新政
●長岡京とは?
戦前の著名な歴史学者・喜田貞吉氏の名著 「帝都」(大正4年発行、日本学術普及会)には、桓武天皇による平城京から長岡京への遷都は、「歴史上最も解すべからざる現象の一つ」(211頁)と書かれている。
さらに、長岡京から平安京への遷都は、長岡遷都と同様に、「甚だ不可思議なる史上の一現象」(245頁)と記されている。
つまり、我々が歴史で知る784年の平城京から長岡京への遷都と、794年の長岡京から平安京への遷都は、共に「不可思議なる史上の一現象」と喜田貞吉氏は言っている。では、一体、これらの遷都のどこが不思議なのか?
それを考えてみようと手元の高校の教科書を開いて見て驚いた。
そこには長岡京の説明は全くなく、長岡遷都それ自体が全く無視されていた!
それこそ歴史教科書における「不可思議なる史上の一現象」である!
まず文部省の検定が不合格になったことで有名な、家永三郎氏による歴史教科書を見た。そこには「桓武天皇も(律令政治の復活強化の)方針を押し進め、794(延暦14年)、山城国の平安京に都を移した」と書かれており、平城京から平安京にじかに遷都したことになっている。
家永氏の教科書は、1956(昭和31)年発行予定で古いものである。そこで今度は、最新の2006年版「新しい歴史教科書」(扶桑社・改定版)を見た。
同教科書は考古学の最新の発掘成果などを入れて作られている。しかし予想を超える大きな考古学的成果を出した長岡京の発掘は、完全に無視されていた。
同書には「桓武天皇は、寺院などの古い仏教勢力が根を張る奈良の地をはなれ、都を移す事で、政治を立て直そうと決意した。
新しい都は、794(延暦13)年、交通の便の良い今の京都の地に作られた。」(52頁)と書かれており、ここでも平城京から平安京に直接、遷都したことになっている。同書の「課題学習」には「奈良・京都の文化遺産を調べてみよう」(60-63頁)と書かれているのに、重要な文化遺産の長岡京は全く無視されていた。
昔は、長岡京は「幻の京」とも言われていて、未完の首都として造都が中断されたと思われていた。
しかし中山修一氏などの執念による発掘により、今では長岡京は殆ど完成に近い状態までいった後で、廃都になったことが分ってきている。
この長岡京を無視して平安京を語る精神は、まさに不思議である。
そこでまず長岡京の概要を述べる。
長岡京の所在地は、現在の京都府長岡京市、向日市、乙訓郡大山崎町にまたがる地域である。
ここに784(延暦3)年に、平城京から都を移すための造営が開始された。
しかしこの遷都は、それからわずか10年後の794年に突然、中止された。そして翌年、遷都先は平安京に変更され、長岡京は廃都となった。
784年に、何故、平城京から長岡京に遷都が決定したのか?
それが10年後に、何故、長岡京から平安京に変更になったのか?
これこそが喜田貞吉氏をして「不可思議なる史上の一現象」といわせたことである。この長岡京への遷都、廃都のナゾを考えてみるのがここでのテーマである。
●桓武天皇の出自
神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇が崩御された。この女帝には跡継ぎがなかった。称徳天皇の時代は、道鏡が皇位を狙った事で有名であるが、その天皇が崩御されたことにより、一挙に皇位継承の権力闘争が持ち上がった。
藤原氏の藤原永手や藤原百川が、すばやく次の皇位を目指して行動を起こした。
藤原氏の系譜は、藤原不比等の後、南家、北家、式家、京家の4家に分かれた。
このうち藤原房前から始まる北家が、その後に藤原道長などに繋がる藤原氏の主流になるが、藤原永手はこの北家の人である。
また藤原宇合から始まる式家は、有能ではあるが陰謀家が多く出ている家である。九州で叛乱をおこした藤原広継、ここに出てくる藤原百川、そして長岡京の造営長官として暗殺される藤原種継もこの式家の人である。
藤原永手や藤原百川は、先帝の遺詔と称して天智天皇の孫である白壁王を擁立して、光仁天皇として即位した。
ここで天武―持統―文武―元明―元正―聖武―孝謙―称徳と続いてきた天武天皇の系列は終わり、天智系の天皇がそれに代わることになった。
天智天皇の孫の白壁王が、光仁天皇として皇位につくことができたのは、聖武天皇の皇女であった井上皇后のおかげと思われている。
しかし白壁王の擁立から3年後の宝亀3(772)年になり、再び、藤原百川の策謀により、天武系であった井上(いうえ、いがみ)皇后とその子の他戸(おさべ)皇太子は、光仁天皇を呪詛したという疑いから共に廃后・廃太子にされ、ここに天武系の皇統は完全に絶えた。
他戸皇太子は、次の皇位が約束されている立場にあり、光仁天皇を呪詛する必要など全くないわけである。したがって、この事件は天武系の天皇の復活を阻止するために、藤原氏がデッチ上げた事件であることは明らかであった。
井上皇后とその子の他戸皇太子は、大和国宇智郡の家に幽閉され、同じ日に共に亡くなった。おそらく暗殺されたと思われている。
平安朝における権力闘争では、多くの貴人たちの命が奪われた。その犠牲者たちの復讐を恐れて、これら怨霊の鎮魂のための「御霊会」が、桓武天皇の逝去された後の863年から平安京で行なわれるようになった。
その第一の「御霊」=怨霊となるのが、この井上皇后とその子の他戸皇太子、そして長岡京遷都の過程で不慮の死をとげる早良(さわら)皇太子であった。
この藤原百川により擁立された白壁王(=光仁天皇)の子が、桓武天皇である。
桓武天皇は、白壁王を父、渡来系の高野新笠を母として生まれた天皇である。従来の天武系の天皇のもとでは、皇位につくことは全く考えられない立場にあった。
このような桓武天皇の出自が、長岡、平安京への遷都に深く関わってくる。
●桓武天皇による易姓革命と遷都
桓武天皇は、非常に有能であり、かつ専制君主的な性格が強い天皇であったと思われる。そのため天武系王朝に代わり、新しい天智系王朝を創設したという意識が非常に強くあったように思われる。
たとえば奈良時代を代表する天武系の聖武天皇は、仏教思想を非常に強く打ち出したが、これに対して、桓武天皇は聖徳太子や天智天皇以来の中国の道教的な讖緯思想を強く打ち出してきた。
そのことは即位の年を、天応元(781)年の辛酉1月1日に設定した事からも分る。その年はまさに辛酉革命の年であり、即位日は神武天皇の即位にならって正月元日が選ばれた。
辛酉革命とは、讖緯思想でいう「天命が改まる易姓革命」の年である。
続日本紀によると、その日、桓武天皇は詔を出して、「天を以って大となす、これに則るものは聖人なり、民を以って心となす、・・」と述べられ、自ら民を心として、天にのっとる聖人に位置づけられている。
この日、伊勢神宮には瑞兆の美しい雲が現れ、天皇の即位を天が応えたとして、年号を「天応」に改元すると記されている。
そこからは極めて中国的な「天人相関の思想」を読み取ることができる。
翌2(782)年4月には、緊縮財政に関する詔が出された。
そこには「公私が疲弊しているため、建設工事をやめ、収穫を増やす事に勤め、政治は倹約を旨とし、財貨を増やす事に勤めたい。そのためには、今ある住居で居住するには十分であり、仏寺の建立は終わりにする。
貨幣価値は下がっているので、この際、造宮、勅旨の2省と法花、鋳貨の2司をやめて、財政を補填したい、云々。」という趣旨のことが述べられている。
しかし45歳、働き盛りの桓武天皇の本心は、天武系の仏教思想に支配される平城京から何とか抜け出し、新しい都において新しい政治を始めたい、という気持ちで一杯であったと思われる。
そのために、この緊縮財政に関する天皇の宣言は、わずか1年しかもたなかった。
延暦3(784)年甲子の年は、讖緯思想によれば、法制が改まる「革令の年」であった。この年の5月7日、難波の京に不思議な事が起こった。
色の黒いまだらのあるヒキガエルの2万匹もの大群が、市の南の道を三丁ほど進んで四天王寺に入り、昼ころに消えた。
同様なことは孝徳天皇が難波宮に遷都されたときにもあり、そのときは、ねずみの大群が移動したといわれる。
また天智天皇の大津宮遷都のときにも、ねずみの群行がみられた。
このことから動物の群行は、遷都の前兆といわれており、それが現れた。
その直後の5月16日に、早速、藤原小黒麻呂、藤原種継、佐伯今毛人をはじめとする遷都のための視察使が、長岡村を訪れた。
続日本紀は、「乙訓郡長岡村の地をみせしむ。都を移さんがためなり」と書いており、この段階において既に遷都が目的であったことを明確にしている。
乙訓郡は、桓武天皇の母・高野新笠の出生地といわれるところである。
この段階で2年前の詔における緊縮財政の宣言は吹き飛び、桓武天皇による新しい遷都を目指した活動が開始された。
6月10日には、藤原種継が造長岡宮使に任命され、都城と宮殿の建設が始まった。それから半年後の11月11日には、桓武天皇は長岡宮へ移行するというあわただしさであった。
ちなみに造長岡宮使の藤原種継は、藤原百川と同じ式家の人であり、その後に「薬子の乱」で有名になる藤原薬子は、藤原種継の子にあたる。
では何故、遷都先に長岡村が選ばれたのか? また何故、このように急に遷都計画が出てきたのか?を考えてみたい。
●5千年に1度の冬至の日が造都開始日に撰ばれた
冬至は、太陽が1年の内で最も弱まる日である。それは逆にいうと、太陽が再び力を取り戻し始める復活の日でもある。そのため古代中国では、周漢以来、歴代皇帝はこの冬至の日に在天の上帝を迎えて感謝をささげる、帝王祭祀の中で最も重要な冬至昊天祭が行なわれてきた。
日本でも「類聚国史」をみると、聖武天皇の神亀2(725)年11月10日から天皇が冬至の日に賀辞をうける儀式が行なわれている。
冬至の中でも、11月1日が冬至日に当たる場合、これを「朔旦冬至」といい、さらに11月1日が冬至で、かつ干支が物事の始まりを示す甲子に当たる場合は、4617年に1度しかないといわれる特別の冬至日で、「甲子朔旦冬至」と呼ばれる。
延暦3(784)年11月1日の桓武天皇の長岡遷都は、この「甲子朔旦冬至」の日に日程を合わせて行なわれたふしがある。
そのため桓武天皇は、皇后、中宮を平城京に残したまま、11月11日に天皇のみ長岡京に移った。長岡京の工事は6月に着手したばかりであり、11月にはようやく宮殿の一部が出来上がったにすぎない段階である。
さらにこの冬至昊天祭が行われた交野(かたの)山は、長岡京の真南にあたり、桓武天皇による鷹狩の山としてよく利用されていたところであった。
つまり遷都の場所、時期などは、桓武天皇自身によりあらかじめ、明確に設定されていたように思われるのである。
冬至の日は、地鎮祭が行なわれることが多い日である。この日に、天皇自身が新しい都へ単身で移行するということは、革令の年の甲子朔旦冬至日における遷都への、桓武天皇の強いこだわりが感じられるのである。
●四神相応の都―長岡京
なぜ遷都先に長岡村が選ばれたのか? についてはいろいろな説がある。
桓武天皇の有力な政治的支持基盤である渡来系の秦氏などが、古来、勢力をもっていたのが山城を中心とした地域であること、それは同時に、桓武天皇の母方である高野新笠の出身地といわれる乙訓郡とも関連してくること、など。
それらのことからこの地域が、それまでの大和地方を中心にした朝廷内の勢力に対して、新しく桓武天皇の政権を確立するのに最適な地域であったと考えられる。
日本で最初の都城制の首都となった持統天皇の藤原京あたりから、首都の地勢的条件として四神相応の地ということが言われるようになった。
それは北に玄武、東に青竜、南に朱雀、西に白虎という四神に護られた首都という意味であり、中国の陰陽五行の神を配置した土地のことである。それは高松塚古墳の壁画でも有名になった。
この四神は、地相的には、次のように解釈されている。
玄武(北) 都の北に山岳があること。
青竜(東) 都の東に川が南に流れていること。
朱雀(南) 都の南に池溝があること。
白虎(西) 都の西に大道があること。
さらに、東と南が下り、西と北が高くなっていることが望ましい、とされており、これらの条件を満たした地のことを、四神具足の地というとされた。
長岡京は、見事にこの条件を満たしていた。
東から南に桂川が流れ、南には3つの川が合流する山崎の河淵と、さらに東南に巨椋池という池沼がある。西には西山丘陵の裾を南北に走る山陰道がある。そして北には長岡丘陵から北丹波山地にかけての山並みがあり、これ以上の四神相応の地は無いと思われるほどであった。
そしてなによりも水陸両面から、平城京に比べて遥かに交通の便が良い土地である。
●交野山の天神まつり −封禅の儀・冬至昊天祭
さらに、それ以上に桓武天皇が長岡京に着目されたのは、南郊の交野(かたの)柏原にあったと思われる。
続日本紀によると、延暦4(785)年の11月冬至の日に、桓武天皇がここで「天神を交野の柏原に祀る。宿祷(しゅくとう)を賽(さい)するなり」と書かれている。
難しい言葉であるが、桓武天皇は長岡京から、丁度、真南に当たる交野山において、日本の天皇として初めて、中国の皇帝が天神に祈りをささげる最大の儀式である「封禅の儀」の冬至昊天祭を、行なわれたとする記事である。
交野山は、桓武天皇自身が鷹狩などにより、以前から親しい地域であり、ここで中国皇帝に倣った封禅の儀式を行なうことは、桓武天皇の夢であったと思われるのである。
5千年に1度しか巡ってこない「甲子朔旦冬至」の日(延暦3年11月1日)に、長岡京への遷都を果たした桓武天皇は、翌4年11月10日の冬至の日には、この交野山で日本の天皇としてはじめて、中国皇帝の最大の儀式と同じ冬至昊天祭を行なうことができた。
このことは逆に考えてみると、延暦4(785)年の11月冬至の日に合わせて「遷都の日」が決められ、「封禅の儀」を交野山で行なうことから長岡京の土地が決められたのではないかと私は思うのである。
このように考えると、異常に急いで遷都の日程や場所が決められたナゾが解けてくる。しかも、それらは桓武天皇自身の考え方から出てきたと私には思われる。
ところがこの最初の「封禅の儀」が交野山で行なわれる直前に、予想もしなかった大事件がおきた。そのため、この交野山の天神の祭りは、延暦4(785)年11月10日と、1年おいて延暦6年11月5日の2回行なわれただけで終わる。
しかもその結果は、わずか10年で長岡京が廃都となる運命にからんでくる。
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