アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  66  67  68  69  >> 
  前ページ次ページ
  (2)野馬台詩の予言(2)

●姫姓?の野馬台国の天皇
 詩の冒頭にある「東海の姫氏の国」とか「百世、天工に代る」という言葉は、詩の作者が、中国人ないしは日本人の留学僧?であることを推測させる。

 そこでは日本の天皇が周の皇帝と同姓であり、100代にわたり天意に沿った良い治世が続いている、としている。

 古代中国の王の名は、姓、氏、名の3つの部分からなる。ここでいう姫姓とは、中国古代の伝説的皇帝である黄帝の母が姫水にいて、姫姓を称したことに始まる姓である。 そこから日本の天皇は、中国の伝説の皇帝・黄帝の流れを汲むとしている

 これは日本人の側からは出にくい発想である。しかもこの言葉は日本をむしろ高評価する言葉として使われており、その言葉が詩の冒頭を飾っている。

 古代中国において、周は非常に治世の良かった時代を象徴する大国である。そして日本はその周帝国と同じように、治世の良い国であると冒頭で歌っている。

 その周の治世にあやかり、その後の中国において、小国に分裂して戦乱が絶えなくなった春秋戦国時代においても、呉、蔡、曹、魯、衛、鄭、晋、燕など多くの国王の姓は、周王の姫姓を称していたほどである。

 つまり古代中国において姫姓とは周につながる名門の王家を示す姓であった。したがって東海の名門・倭国の王が、姫姓の流れを継ぐという言葉は、かなりお世辞の表現といえるのである。

 その東海の名門の国は、建国以来、百代にわたり代々栄えてきた。しかし百代の治世が終わる頃になると、猿犬が英雄を称するようになり、内乱により国は荒廃して滅亡する、というのがこの『野馬台詩』の予言である。

●百世、天工に代る?
 日本の第100代は、後小松天皇(1382−1412)である。今から考えると、その時代は南北朝時代にあたる。まさに後小松天皇の前半期は、『野馬台詩』の予言通りに皇統は2つに割れて、激しい内乱が起こっていた。

 後小松天皇は、南北朝時代における北朝系の天皇である。その意味では、当時、日本国は建国以来の存亡の危機を迎えていたわけであり、『野馬台詩』の予言は見事に的中していたことになる

 後小松天皇は、はじめ北朝の天皇として即位したものの、1392年、足利義満の和平提案を受けて、南朝の後亀山天皇から神器を継承して両朝合体が成立した。

 第100代後小松天皇は、1413年に第101代称光天皇に皇位を譲ることにより、「百王の流れ畢(ことご)く竭(つ)きぬ」という『野馬台詩』の予言は外れ、一応、国家存亡の危機は回避された。

 しかし天皇制の存続のためにとられた「公武合体」において、幕府の力は圧倒的に強くなり、そのあと応仁の乱、戦国時代と戦乱が続き、『野馬台詩』の「鐘鼓国中に喧(かまびす)し」という予言は見事に的中した

●百王の流れ竭きて、猿犬英雄を称す?
 後小松天皇は、もともとは南朝系の後亀山天皇と対立する北朝系の天皇であった。それが足利義満の和平提案により、第100代後小松天皇として皇統は1本化されて、日本の天皇制は、それまで長い間心配されてきたように断絶することなく、100代以降もつながることになった。

 しかしその裏で、幕府の実質的な権力は非常に強くなり、逆に朝廷の権力は衰えた。

 その結果として室町時代の京都には「2つの御所(=天皇の宮廷)」が出現した

 一つは、公家権力の中心としての東洞院土御門御所である。それは方1町で、平安京の内裏とは比べものにならない小さなものであった。

 それに対して、今ひとつが、京都 室町の「花の御所」と呼ばれた幕府の政庁である。

 1381年に完成した花の御所の規模は、なんと南北2町、東西1町であり、当時の内裏に比べ2倍の大きさがあった。
 つまり政治権力は、第100代天皇のときから実質的には幕府に移り、その意味では「百王の流れはここで竭きた」ともいえる。

 では「猿犬英雄を称す」とは何を指すのであろうか?実は、南北朝の和平交渉をまとめた将軍・足利義満(1358-1408)は、正丙13(1358)年戊戌、つまり戌(いぬ)年の生まれである。
 義満は、自ら「日本国王」を称したことがよく知られている。それは明に対する使節派遣に際して正式に使用されたほどである。
 まさに「犬、英雄を称す」という予言は、足利義満により実現された

 次に、「猿、英雄を称す」とは、誰の事であろうか? 
 戦国時代に終止符をうち、関白・太政大臣になった豊臣秀吉(1536−1598)は、天文5年(1536)丙申、つまり申(さる)年の生まれである。しかも藤吉郎の頃には「さる」と呼ばれていたことは誰でも知っている。

 秀吉自身が「国王」を称した事はないようであるが、慶長元(1596)年9月1日、大阪城へ来た明使は、秀吉と会見して「汝を封じて日本国王となす」という国書を手渡した。
 この国書に激怒した秀吉は、翌年、「慶長の役」に踏み切る。

 秀吉は、自分では国王を称しなかったものの、明王から「日本国王」に任じられた。つまり『野馬台詩』の予言は、見事に的中していた!

●予言詩の作者は?
 通常、予言詩の作者の鍵は、この詩を紹介した人物が握っている場合が多い。
 予言詩を紹介した大江匡房(まさふさ:1041-1111)は、平安後期の貴族、漢学者で歌人である。後三条、白河、堀河の3天皇の侍読を経て、正二位権中納言兼太宰権師になった人物である。
 
 彼の談話を藤原通憲の父の藤原実兼が筆録したものが、12世紀に成立した「江談抄」であり、そこにはいろいろな故事来歴や世間の雑事が書かれている。そしてそこに『野馬台詩』のことが紹介されている。
 ここから見ると、大江匡房は、故事来歴の一つとしてこの予言詩を紹介しているにすぎず、その後に続く多くの未来記とは、大きく性格が異なるようである。

 21世紀になり、小峯和明氏がこの予言詩について「『野馬台詩』の謎」(岩波書店)という詳細な研究を発表された。
 同書によると『野馬台詩』の伝来を伝える記事は意外に古く、奈良時代の末期までさかのぼるようである。同書が引用する東野治之氏の研究によると延暦9(790)年には、『野馬台詩』の注釈が作られ、利用されていたという。

 さらに同書によれば、「10世紀初頭頃には、観音霊験譚としてひかれるほど『野馬台詩』解説の話は広まっていた。『野馬台詩』をめぐる逸話が貴族界で流通していたことを『善家秘記』は示している」という。(小峯和明「『野馬台詩』の謎」、岩波書店、30頁)
 この記述から考えると、予言詩の作者は奈良時代の中国人もしくは留学僧ということになるのであろうか!

 いずれにしても、『野馬台詩』は、平安朝から戦国時代にかけて、日本の歴史や史論に大きな影響を及ぼした。特に、その後に出現する未来記は、その目的や性質は異なるものの、『野馬台詩』の座標系の上に史論が展開されていた、と私には思われる。以下、それらを見てみよう。







 
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  66  67  68  69  >> 
  前ページ次ページ