アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  66  67  68  69  >> 
  前ページ次ページ
  (3)愚管抄の歴史観

●「愚管抄」の前提になった『野馬台詩』
 『野馬台詩』の前提となるものは、「百世、天工に代る」、つまり日本の天皇は100代までは栄えるが、そこで終焉を迎えるという予言であった。
 小峯和明氏によると、『野馬台詩』における「百世」という数字が、具体的に天皇の実数に結びついて、100代で日本の天皇制が終わるという思想になったのは、比較的新しいこととされている。
 文献的には「小右記」(しようゆうき:道長と対立した公家・藤原実資の日記、978-1032)が、その早い例といわれ、1031年8月4日条における、伊勢斎宮の託宣の記事にあるといわれる。

 当時の天皇は第68代後一条天皇であり、この頃から百代終焉の思想が意識されるようになったようである。そしてこれから述べる「愚管抄」の時代には、百王百代の思想は、もはや完全に常識化していたと思われる。
 それは例えば、「愚管抄」巻3において「神武天皇の御後、百王ときこゆる、すべて残り少なく、84代にも成りにけり」とか、巻7の「百王の今16代残りたるほどに」とかいう、言葉のはしはしのいたるところに現れてくることから分かる。
 ちなみに第84代天皇は、その後に承久の乱で佐渡に流刑になる順徳天皇である。

 つまり日本の天皇は、100代で終わるという『野馬台詩』の予言が、当時の史論の前提になっていることを念頭において、慈円や日蓮の未来記を見る必要がある。
 ちなみに慈円の未来記が書かれたときは、まだ「承久の乱」の前夜であり、そこでは鎌倉幕府の支配権は確立していず、天皇もまだ16代残っていた。

 これに対して、後述する日蓮のころには、鎌倉幕府の支配権は既に確立しており、しかも時の執権・北条長時の父重時は、日蓮が災いの源と考える念仏宗の信者である。
 さらに天皇は第90代亀山天皇になっており、もはや残された時間は10代しかないという切迫感が漂っている時代であることを、念頭に置く必要がある。

●愚管抄とは?
 「愚管抄」は、天台座主・慈円(1155-1225)により、日蓮の「立正安国論」の40年前に書かれた歴史書であり、かつ未来記でもある。
 著者の慈円は、摂政・関白を務めた九条兼実(くじょうかねざね:1149-1207)の弟であり、朝廷、貴族、さらに頼朝を通じて幕府とも関係の深い天台座主をつとめた高僧であり、かつ新古今集の歌人としても有名な人物である。

 この慈円によって書かれた歴史書の「愚管抄」は、武士階級がそれまでの朝廷、貴族に代って勃興し、最終的に朝廷を圧倒するようになる流れを記している。
 そして慈円は、武士階級の勃興が、朝廷や貴族階級と武力衝突を引き起こし、『野馬台詩』の百世百代の予言が実現することを、衷心から危惧していた。

 武士階級の勃興の流れは、慈円が生まれた翌年に起こった保元の乱(1156)で幕が開いた。そしてその3年後の平治の乱(1159)をへて、最終的には頼朝死後の「承久の乱」(1121)により天下の大乱にまで発展した
 しかし慈円は、貴族である上に九条家を通じて幕府に繋がる立場から、朝廷が幕府権力と真に決定的な衝突をすることを恐れていた。

 そのため「承久の乱」の前年に成立した「愚管抄」は、朝廷、貴族、幕府に強いかかわりを持つ天台座主・慈円が、朝廷と幕府の衝突を回避させようと、後鳥羽上皇に建言した書がその成り立ちであるとする有力な説がある。
 しかしその慈円の力は及ばず、承久3(1221)年5月に「承久の乱」は起こった。その結果、朝廷側は敗北して、後鳥羽上皇をはじめ3上皇が流刑されるという政治的な大事件に発展した。

 「愚管抄」は、後鳥羽上皇に対する慈円の建言書として書かれたとする説のある一方で、「承久の乱」後に成立したとする見解もあり、その文体の混乱や複雑さとあいまって不可解な点も多い歴史書である。

 その第一は、「愚管抄」が承久の乱以後に成立したとする津田左右吉氏の見解である。その論拠は、承久の乱に関する記述が文中にあることからくる。
 現在の定説は、一応、乱の前年に成立したとしてはいるものの、津田氏の指摘通りの不可解な事も多い。
 第二は、「愚管抄」の本文はカナ交じり文で、しかも膨大な量であり叙述が雑然として、論理も入り組んでおり極めて読み難い史書である。
 もし後鳥羽上皇への建言が目的であれば、まず文章は漢文で書かれるはずであり、カナ混じり文で書かれることはありえない。また文体や論理も、もう少し分かりやすいものになるはずである。

 このように考えると、慈円の史論で未来記でもある「愚管抄」は、後鳥羽上皇への建言を目指していたとしても、建言書そのものではなく、そのための研究ノートであったと考えられる。
 そのように考えると、論理が入り組み雑然としていることや、しかも承久の乱以後の事実や見解まで書き込まれていることも納得できるであろう。

●愚管抄の成立
 そのためには「愚管抄」が、どのような形で成立した書物であるかを調べて見る必要がある。
 大隅和雄氏の「「愚管抄」の研究史」(「愚管抄を読む」講談社学術文庫、所収)によると、「愚管抄」の名は、13世紀末の「本朝書籍目録(しょじゃくもくろく)」に記載されているものの、九条家以外の人にはあまり読まれなかった史書のようである。
 それが史書として注目される様になったのは、ごく新しいことであり、江戸時代に入ってからといわれる。

 そのことは、この書が九条家を中心にした関係者の研究ノートであったことを示している。大隅和雄氏が、「愚管抄」の研究史のはじめに挙げられるのは、江戸時代末期の国学者の伴信友であることから、「愚管抄」はそれが成立した同時代においては、関係者以外の目には触れにくい史書であったと思われる。
 さらにそのことは、成立の当初から「愚管抄」に著者の名が明記されていなかったことにも現われており、この書がごく限られた範囲でしか利用されなかったことを示している。

 また愚管抄は、現在は7巻で構成されているものの、当初、巻7は秘密扱いにされており、公式には6巻と考えられていたことがある。
 巻7の内容は史論であり、かつ未来記でもある。しかもそこには、公言しにくい慈円の本音が書かれている。その内容については後述する。

●「愚管抄」における日本歴史の発展区分 
 慈円の「愚管抄」は、仏教的な「末法思想」と「道理」を軸にして、開闢以来の日本の歴史を叙述したものである。そこでは日本の歴史が3部に分けて考察されており、その構成は7巻に分かれている。

 ▲第1部 皇帝年代記 公式の歴史概説(巻第1,2)
  巻第1
   中国の年代記
   皇帝年代記 初代神武天皇から50代桓武天皇まで 
  巻第2
   皇帝年代記 51代平城天皇から85代仲恭天皇(86代後堀河天皇)

 ▲第2部 道理の推移を中心にした歴史叙述(巻第3,4,5,6)
  巻第3
   神武天皇(天皇親政)から藤原道長(貴族の進出)まで
  巻第4
   一条天皇から保元の乱(武士の進出)まで
  巻第5
   保元の乱(武士の進出)から陸奥国平定まで
  巻第6
   頼朝上京から承久の乱前夜(幕府権力の確立)まで

 ▲第3部 道理についての総論と時務策
   巻第7
   ここでは歴史における道理の発展を軸とした史論が展開され、その立場から
   現在おかれている社会的状況と時務策が述べられる。

●愚管抄における歴史認識と建言?
 上記の「愚管抄」の構成を見ると、日本の歴史の発展段階を、(1)天皇親政、(2)天皇の後見役の出現、(3)上皇政治の形成、(4)摂関政治の権威の失墜、(5)武士階級の進出、(6)武士政権の確立? というプロセスで捉えている。
 前述のごとく愚管抄の時代には、『野馬台詩』の百王百代の伝説が既に完全に常識化しており、日本国の皇統は残すところ14代で終わる運命にあった。
 したがって愚管抄の歴史展開も、その予言を前提として構成されている。

 そのため「誠には、末代悪世、武士が世に入り」、日本の王政は終末期を迎えることになって、百王の「残り少なく84代になりにけり」(巻3)という状態にある、というのが、慈円の「愚管抄」の時代認識であった。

 しかし、一方の鎌倉幕府のほうも、愚管抄が成立する前年(1219)の1月には、将軍・実朝が暗殺されて、将軍の後継者がいなくなるという一大危機に直面していた。
 そこで幕府は、次の将軍の任命を朝廷に願い出て、朝廷は藤原道家の子で、わずか2歳の九条頼経(よりつね)を将軍として下向させることにした。

 征夷大将軍の地位を、「武士」の役割からはずし、「貴族」に移すということは、まさに一大事件である。しかも朝廷により征夷大将軍に任命されたのは九条右大臣の子で、当年わずか2歳の頼経であった。
 この驚くべき「2歳将軍」といわれる人事を、慈円は「愚管抄」(巻7)の中で高く評価しており、この幼少の将軍に大きな期待をかけるのである
 そこでは次のように書かれている。 「百王を数うるに、今16代は残れり。今この2歳の人々(=東宮・仲恭と九条頼経のこと)のおとなしく成りて、世をば失いもはて、興しもたてむずるなり。・・・」

 言葉使いが難しいが、慈円がここでいっていることは、この若い将軍と東宮が成人してからの後、世を滅ぼすことも、立て直して盛んにすることもできる人々である。
 だから今、彼らに20年のときを貸し与えて、その間、武士に誤った事をしないようにしよう! という天皇の言葉を聞かしてやりたい、ということである。

 またその間、摂関家出身の将軍であれば、謀反を起こすようなことはない、ということを後鳥羽上皇がわきまえて、上皇にあさはかな処置をとらないようにしてほしい。これが「愚管抄」7巻に書かれている、天皇と後鳥羽上皇にあてた慈円の建言であった。

 その建言は実際に行なわれたのか?  それは、どのような方法であったのか?  それに対する天皇や上皇の反応はどうであったのか?  それらは、一切不明である。そして翌年には、承久の乱が発生した。その意味で、愚管抄はナゾに満ちた史書である!






 
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  66  67  68  69  >> 
  前ページ次ページ