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日本人の思想とこころ
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  (4)元の襲来を予言した日蓮

●日蓮の思想の特異性
 
日蓮が、『立正安国論』のなかで、元の襲来を予言した?話は有名である。
 日蓮は、鎌倉時代の思想家としては比較的後期に属しており、しかもかなり特異な性格をもっている。

 その思想における特異性は次の点に見られる。
(1) 日本では珍しく自分の名前をつけた「日蓮宗」という佛教の宗派を開き、開祖に
  なったこと。
(2) それまでの日本の仏教家のほとんどすべてが中国で修行しているのに対し、一
  度も中国にわたらず、日本国内だけで修行したこと、
(3) 天災、地災、外患などの社会的危機の原因を、法華経の教義を護らないことに
  よるものと考え、その観点から社会危機に対する予言をし、その危機の克服を
  自宗の教義に取り入れたこと。などである。

 このような特異な思想をもって、既成の仏教を厳しく攻撃した。たとえば「念仏者は無限地獄の業、禅宗者は天魔の所為、真言者は亡国の悪、律宗者は、国賊の妄説」と激しい言葉で批判し、就中、専修念仏に対して、特に真っ向から反対の立場を表明し、前の執権・北条時頼に建言書を送りつけた。
 このような既成の政治、宗教勢力に対して攻撃的な立場をとったことから、あやうく死刑にされそうになったり、流刑になったり法難も数知れず受けた。
 
 この日蓮の思想は、鎌倉時代にはそれほどの影響力をもたなかったが、後代、特に室町時代以降になり、日蓮宗は浄土宗とならんで非常に大きな勢力をもつようになった。

●出自
 日蓮(1222-1282)は、父を貫名左衛門重忠といい、安房国東条小湊で誕生した。幼名は善日麿という。その出身についてはいろいろな説があるが、日蓮自身は、海辺のセンダラの子であるとか、賎民の子とかいっており、漁夫の家に生まれたとされている。
 12歳で天台密教の寺院である安房の清澄寺に上り、道善に師事して内外の典籍を学んだ。16歳で得度して是聖房蓮長といった。

 元享釈書には、日蓮の名はなく、釈蓮長として、「天性、精勤して、妙経を持す」と簡単に紹介されている。
 同書によると、連長は臨終の時に一茎の蓮の花を持っていた、傍らの人がその花はどうしたのか?と尋ねたら、是は即ち妙方蓮華である、と答え、亡くなるとともに、その花も消えた、とまるで浄土宗系の極楽往生伝に見るような記事が載せられている。

 日蓮の思想の中には、天変、地異、飢饉、戦争への危機感が強く組み込まれており、それらは幼少のときの経験から強い影響を受けたものと思われる。
 たとえば、8歳のときには全国的な天候不順と翌年にかけての大飢饉に見舞われ、京都では多数の餓死者がでた。
 清澄寺で修行していた12歳の頃には、疱瘡が大流行し、比叡山に修行にでた23歳のときに、歴史に残る京都の大地震を経験した。
 そして清澄寺にかえって、日蓮を名乗って法華経の伝道を始めた頃には、鎌倉の大火と大地震に見舞われている。

 このように見てくると、日蓮の思想の中にある天変・地異に対する危機感は、幼少の頃からの生活体験の中から形成されていることがわかる。そして日蓮は、これらの災害は、人々の法華経に対する信仰が薄いことから来るものと考えた。

 16歳の出家から建長5(1253)年に日蓮宗を開宗するまでの10数年間は、日蓮にとって修学と修行の連続であった。
 その間、彼は、清澄寺から始まり、鎌倉、叡山、京都、三井寺、高野山、四天王寺に遊学した。
 初期の日蓮は、天台系の浄土教の立場をとっていたが、この遊学を通じて反浄土教の立場にかわり、法華一経こそ成仏の法であるとする法華経の持経者として確立した。

●立正安国論と幕府への建言
 このような日蓮の災害への危機感のもとで、文応元年(1260)に書かれたのが、主著「立正安国論」である。
 立正安国論は、主人と客人の間で交わされる十の対話から構成されている。そこでの主人は僧であり、おそらくは日蓮その人である。
 また客人は俗人であり、おそらくは密かに時の執権・北条時頼などを想定して問答する形式をとったのであろう。

 対話は、ここのところ、天変地異が天下に満ちあふれ、地上にはびこり、町は人畜の死屍が累々としている。そのことを皆が悲しんでいるという客人の嘆きから始まる。
 それに対して主人は、それは「世皆正に背き、人悉く悪に帰す」こと、つまり世の中が法華経の正しい教えに背き、人々が皆悪に帰した結果であるという。

 日蓮の「立正安国論」は、預言書の性格を強くもっている。日蓮は、「末法思想」に基づいて議論を展開しており、正法が滅びるとき、三災、七難がおこると予言した。
 三災は、大集経にあり、(1)穀物の払底、(2)戦争の勃発、(3)疫病の流行である。
 また七難は薬師経が指摘するものであり、(1)疫病の発生、(2)他国からの侵略、(3)内乱の発生、(4)星宿の変化、(5)日食、月食の発生、(6)時ならない風雨、(7)旱魃、である。

 「立正安国論」の最初に指摘されたように、日本では過去にいろいろな天変地異が発生しており、この七難の内の五難が既に起こっている。しかし未だ二つの難が残っていて、それは「他国侵逼(しんぴつ)の難」と「自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難」である、と主人はいう。つまり日蓮は、この2つの国難が近日中に発生することを本気になって心配していた

 その原因は、正法がまもられず、邪法である念仏宗が強い影響力を持っていることにあると考えた。そこで前の執権・北条時頼に対して、念仏宗の取り締まりと、法華経の興隆を訴える建言書を「立正安国論」にまとめ、文応元(1260)年7月、宿屋入道を通じて前の執権・北条時頼に贈った。そして諸悪の根源である浄土念仏を停止しないと、三災七難たちどころに到り、内訌外患が遠からず起こること警告した。

 しかしこの日蓮の予言は、北条時頼と幕府により完全に無視された。さらに、このような提言が日蓮によりなされたことに怒った諸宗の信徒たちは、松葉谷の日蓮の草庵を襲撃して焼き討ちする事態に発展した。日蓮はかろうじて下総の信者のところへ逃れたが、翌弘長元(1261)年に、さらに幕府は日蓮を伊豆へ流刑にした。

 しかしこの日蓮の予言は、14年後の文永11(1274)年10月、元寇=蒙古軍の日本襲来という現実の事件となって現れた。このように日蓮の予言は的中したが、そのことは幕府や社会から殆んど評価されず、逆に日蓮は思想的に弾圧された

 日蓮は、弘長3(1263)年2月に伊豆の流刑から赦免されて、11月に父の墓参りと母の病気見舞いのために故郷の房州へ帰ったところを、地頭の東条景信の襲撃をうけ、一行の何人かは殺され、日蓮はかろうじて逃げて鎌倉へ帰った。
 文永の蒙古襲来の予言が的中したことにより、門弟たちの信頼は強くなり、釈伏の伝道も激しくなったが、他宗との軋轢も激しくなり、蒙古襲来の直前の文永8(1271)年9月、幕府は日蓮とその門徒に対する徹底的弾圧に踏み切った

 日蓮は捕らえられ、一度は斬首と決まったが、罪一等を減じられて、10月に佐渡に流刑にされ、門徒にも徹底的な弾圧が加えられ、殆んど壊滅状態に追い込まれた。
 そして蒙古襲来が目前に迫った文永11(1274)年3月、日蓮は赦免されて、鎌倉へ帰った。  翌4月に日蓮は平頼綱と会見して、蒙古襲来の時期や方途について論じたが、今度も日蓮の主張は幕府の受け入れるところとはならなかった。
 そのため失意の日蓮は、文永11年5月に甲斐の身延山に篭り、隠者の生活に入った。

 日蓮の入山から半年後には、蒙古の再度の日本攻撃が現実のものとなった。しかし幕府の弾圧は依然として続き、弘安2(1279)年には、滝泉寺院主代行主の訴えで、幕府は日蓮の弟子日興の信者120名を捕らえ、3名が斬刑になった。
 日蓮は、弘安元(1278)年から健康を害し、入山9年目の弘安5年9月、帰郷と、常陸での湯治を行なうために、身延を下った。
 その途中、病状が悪化して、武蔵池上郷の直壇池上宗仲の屋敷に入り、10月13日、そこで入寂した。

●日蓮思想の影響
 日蓮の生前における門徒は、鎌倉期には関東を中心にして形成されていた。しかし室町期に入ると、京都の町衆のなかに勢力を伸ばし、京都の市民の半分は法華宗といわれるほど勢力を伸ばすようになった。そしてそれは1533年には、法華一揆として一向一揆の向こうを張って洛中を驚かせるほどになる。
 日蓮思想の影響は、法然の浄土宗に比べて未だ小さかったと思われるが、死後、室町時代にかけて非常に大きくなっていった。その日蓮の思想の内容については、次回に述べる。






 
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