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日本人の思想とこころ
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  (2)日本と高麗、元、宋の國際外交と戦争

●その経過
 高麗、蒙古、南宋と日本の外交関係は、それより10年ほど前から始まっていた。その年表を図表-1に挙げる。
図表-1 高麗、元、宋との外交交渉と対応
西暦 天皇 邦暦 記事
1266 亀山天皇 文永3年 高麗王、蒙古の使いを日本に送ることに失敗する。
1267   文永4年 8月、高麗の使い、蒙古王世祖の書と高麗の国書をもって江都を出発、対馬を経由して日本へ向う。
1268   文永5年 1月、蒙古の牒状が大宰府に到着。鎌倉へ送られ、更に京都に転送され、受理拒否に決定。蒙古襲来の不安が広がる。
1269   文永6年 3月、蒙古・高麗の使い、対馬へきて返書を求め、島民を奪って帰る。9月、高麗使、対馬に来て国書を届け、島民を返す。
1270   文永7年 1月、朝廷、蒙古への返事を作り、幕府に送るが、幕府は蒙古へ送らず。
1271   文永8年 9月、幕府、高麗の牒状を奏上、鎮西に所領を持つ御家人を赴任させ、海防を命じる。蒙古の使いが筑前今津にくる。
1272   文永9年 5月、高麗の使い、元の牒状をもってくる。
1273   文永10年 この年、高麗は完全に元に服属。3月、元の使いが太宰府に来る。
1274 後宇多天皇 文永11年 10月、蒙古軍、壱岐、対馬を犯す。ついで筑前に上陸、大風起こり、戦艦200余隻沈没(文永の役)。11月蒙古襲来の報、鎌倉へ達する。
1275   建治元年 蒙古の使い、長門室津へくる。幕府、鎌倉へ呼ぶ。5月、幕府、備後、安芸、周防、長門の御家人を赴任させ、海防を命じる。9月、蒙古の使いを竜口に斬る。12月、幕府、外征を企て、山陽、山陰、南海道の舵取り、水手を召集する。
1276   建治2年 3月、幕府、鎮西将士に命令して石塁を築く。
1278   弘安元年 11月、元の世祖、日本商船の交易を許可する。
1279   弘安2年 7月、元使、大宰府にくる。幕府、これを斬る。
1280   弘安3年 2月、朝廷、諸寺に異国降伏の祈祷を命じる。12月、幕府、鎮西の守護、御家人などに異賊警護に同心する事を命令する。
1281   弘安4年 5月、高麗の兵船、対馬に襲来。6月、元(蒙古と旧南宋)の本隊、高麗軍と合流、志賀島、長門に襲来。閏7月1日、大風雨により元軍壊滅(弘安の役)。11月、幕府、北条時業を播磨に遣わし、警備にあたらせる。この年、幕府、大友、少弐氏に高麗征討を命じる。
1282   弘安5年 10月13日、日蓮入滅。この年、時宗、円覚寺をたて、敵味方の戦没者を供養。
1283   弘安6年 7月、円覚寺を将軍祈願所とする。
1284   弘安7年 元使、対馬へくる。

●元・高麗連合軍の形成
 蒙古が朝鮮半島の高麗を自国配下の完全な朝貢国としたのは、1259年、フビライが第4世の大汗(=皇帝)になる1年前のことであった。
 そこでフビライは、高麗を自国の支配下においた余勢に乗じて、高麗の使節を日本に送ることを命令した。
 1266年暮れに蒙古の使節・コクテキ、インコウを迎えて、高麗の使節は、1267年1月に日本に向う途中、巨済島まで行ったが途中風波が激しく、やむをえずそこから引き返した。

 これらから見ると、高麗はわが国への蒙古の使者派遣の仲介を、いやいや勤めていたことが分る。しかしフビライが、どうしても日本への使者派遣にこだわるため、文永5(1268)年1月1日、高麗の使者・潘阜が蒙古の国書・方物と高麗の副書をもってはじめて大宰府へやってきた
 鎮西奉行・少弐資能は事態に驚き、急使を鎌倉へ送った。幕府もこの先例のない外交問題に驚き、ただちに朝廷に奏上してそこから日本での騒動が始まった。

 ▲蒙古の国書と高麗の副書
 蒙古の国書は、わが国に朝貢を求めてきており、そこには、もし日本がそれを聞かない場合は武力を行使すると書かれていた。その内容は次のようなものである。

 「高麗すでに来帰し、義は君臣たりと雖も歓は父子の如し。日本は開国以来、時々中国に通ずるも、朕が世に到りて、一乗の使の来りて和好を通ずるなし。自今以後、問を通じ好を結び、以って相親睦せしむ。
 止むを得ずして、兵を用うるがごときに到りては、それいずれか好むところぞ、王それを図れ。」      (桜井時太郎「国史大観」第3巻,研究社、625頁)

 その大意は、次のようなものである。
 高麗は既に元と君臣の関係を結んでいるが、それは父子の関係に似ている。日本は、開国以来、中国に朝貢してきたが、それは元の時代になって絶えている。
 そこで今後は、日・元間の友好関係を結び、親密な関係を持ちたいと考える。
 止むを得ず戦争になる事態は、両国にとり好ましいものではない。日本国王はそこのところをよくお考えの上で、適切な処置を講じていただきたい。
 といった内容であり、元の国書としては丁寧な言い回しをしているが、殆んど脅しともとれる内容である。

 さらに高麗王の副書には、次のような内容が記されていた。(原文略。荒木訳)
 わが高麗国は、長年、蒙古大朝に仕えてまいりましたが、蒙古皇帝は仁明で天下を一家のように考えられており、将来を的確に見据えた国政が行なわれています。
 今、蒙古皇帝が貴国と通交しようとするのは、自国のみの利益を考えたものではなく、元の国の名を天下に高めようとするものであります。
 したがって、元と通交を開いてご覧になれば、やがて貴国にとって、実のあるものか否かが分るわけでありますから、試みに元に使節を出してご覧になればいかがでしょうか?

 1268年6月、幕府の上奏により朝廷で御前会議が開かれた。そして元の国書は書辞無礼であり、返諜を出さない事に決まった。ここから、元、高麗、日本の間で数年にわたり外交上のやり取りが続くことになる。
 その状況は、図表-1に示される。そしてその間、当然ながら元と高麗の連合軍は、日本本土の攻撃に向けて準備を進めた

●文永の役(元・高麗連合軍による第1次日本攻撃)
 文永11(1274)年、元・高麗連合軍による第1次日本攻撃が行なわれた。
 この年の正月、元はハ管の察忽を高麗に遣わし、軍船300艘の造船作業を視察した。高麗は日本への遠征に積極的ではなく、造船は故意にかなり遅延していた。
 5月には、1万5千の元の軍隊が高麗に到着したが、肝心の軍船の完成が間に合わなかった。さらに6月には高麗の元宗皇帝が死去し、9月にその葬儀が行なわれた。
 そのため、ようやく連合軍が合浦(がっぽ:現在の慶尚南道馬山)から日本に向けて出発したのは、文永11(1274)年10月3日のことであった

 総司令官・忻都(きんと)、副司令官・洪茶丘(こうちゃきゅう)、高麗主将・金方慶に率いられた元・高麗連合軍の総勢は、蒙漢軍1万5千、高麗兵8千、梢工水手6千7百、総勢約3万、兵船900余艘という大軍団であった。
 これを迎え撃つ日本軍の総勢は、わずか3-4千人以下に過ぎなかった。(桜井時太郎「前掲書」634頁)

 10月5日、対馬佐須浦に連合軍は襲来した。守護代右馬允宗助国はわずか80余騎で応戦したが、とても衆寡敵せず、全滅した。
 元軍は対馬に1週間滞在して、14日に壱岐に向った。守護代平景隆はわずか100騎にすぎず、城により迎え討ったが、14日には殆んど日本軍は全滅し、元軍は2島を通じて殺戮をほしいままにして、博多湾に向った

 大宰府では、対馬からの急報を受け、直ちに六波羅に報告すると共に、激を管内に告げたため、九州の豪族がこれを聞いて博多に駆けつけた。日本軍は、鎮西奉行・少弐景資を総大将にして、箱崎は八幡宮の鎮座後であることから、島津久経が護衛に当たることになった。

 日本軍が防戦の手筈をたてていた19日に、元軍の大船団が博多湾に姿を現し、一部が、今津(=今の長浜)に上陸した。
 また20日には、元軍の主力が早良河口付近の百道原沿岸に上陸を開始し、赤坂の高地方面に進出し、激戦が展開された。大勢は日本軍が優勢であり、元軍は赤坂以西の地から進出できなくなった。
 さらに元軍の主力部隊は、博多正面から箱崎付近にかけて上陸を開始し猛烈な戦闘が開始された。

 箱崎方面は、島津久経の軍がよく支えたが、後続の元軍が次々に上陸してきて苦戦になった。
 この戦争では、広大な大陸において一斉に集団で銃砲まで使って攻撃する元軍の戦闘方式に対して、日本の戦闘は弓矢・槍・刀剣による一騎打ちを原則にしたものであり、全く戦争の方法が違うため、日本軍は非常な苦戦を強いられた。
 それは丁度、太平洋戦争において、戦車や重火器、マシンガンを普通に使う米、ソの軍隊に対して、日露戦争の38銃や銃剣で戦った日本軍に似ている。

 元軍のねらいは、日本軍の本拠である大宰府の占領であり、当面の目標は博多の攻撃に向けられた。そのため箱崎方面では箱崎八幡をはじめ民家に火がかけられ、博多方面も水城に退却して防衛線を敷く状況になった。

 この夜、日本軍は水城に防衛線を敷き、元軍は夜襲を恐れて船に引上げた。
 ところが夜半から暴風が吹き荒れはじめ、元軍はやむなくわが国の沿岸を去って合浦に引き上げた。
 翌朝、日本軍が海岸に斥候を出すと、前日には海を覆いつくしていた元の船は消えており、志賀島に1艘の残破船と百余人が残るだけであり、それらはすべて捉えられた。元軍の被害は、船は約200隻が沈没、死者は1万3千余人に及んだ。

 11月27日、遠征軍は1万3千5百人余りの未帰還者を残して合浦にたどりつき、その敗戦の悲報は元の都にも届いた。そして1ヶ月をへた12月28日に、敗残の将兵たちは開京(ソウル)に戻り、翌年の春1月に、元軍の将軍たちは祖国に帰った。

●弘安の役(元・高麗・旧宋の連合軍による第2次日本攻撃)
 フビライは、文永の役の失敗は暴風被害によるものであり、日本との戦争に敗れたわけではないと考えていた。しかし高麗は軍事費の負担で窮迫しており、その実情視察のため、元の特使派遣を要請していた。
 元はその高麗の内部事情にかまわず、翌建治元(1275)年4月に、杜世忠など5人を日本に使節として派遣し、再度、朝貢を促してきた。

 それに怒った鎌倉幕府は、9月にその使節を斬首刑にして首を晒した。そして九州を中心にした国防体制を強化し、さらに11月には、北条の一族の前上総介実政を博多に遣わし、逆に朝鮮半島に出兵する計画に着手した。これが九州探題のはじまりになる。

 幕府は、本土の防衛と警備のために、鎮西の要所に守護を配置し、九州北部の十数キロにわたる石畳による防塁を建設し、さらに造船にも着手した。
 一方、元・高麗軍のほうでは、特に、高麗が財政や内政の問題で出兵を渋ったことや、元の内部にも日本攻撃の前に南宋の攻略を先行させるべきとする意見があったことから、第2次の日本攻撃は大幅に遅れていた

 その原因の一つになった南宋は、1279(弘安2)年2月に克Rに滅びた。そして第2の原因であった高麗では、日本攻撃に積極的ではなかった元宗皇帝に代わり、元の政策を積極的に支持する忠烈王が1275年に即位していた。
 このように第2次日本攻撃の環境が整ったため、フビライ皇帝は、文永の役から7年後の弘安4(1281)年1月に、再び日本への攻撃を命令した

 ▲弘安の役における元軍の総兵力と司令官たち
 弘安の役における元軍の勢力は、旧宋の江南軍の兵力が加わったために、文永の役に比べて飛躍的に大規模なものになった。
 それは次のようなものである。
東路軍(蒙古、漢、高麗軍) 兵力2万5千人、梢工水手1万7千人、船900艘
江南軍(旧宋の江南の漢軍) 兵力10万人、梢工水手6万人、船3500艘
 両者を合わせると、元軍の戦闘兵力は12万5千人、総船数は4400艘という大規模な兵力である。そのため、この大軍を迎え討つ日本は、建国以来、最大の国家存亡の危機を迎えることになった

 高麗では、日本攻撃を渋っていた前の元宗から忠烈王の時代になっていた。忠烈王は蒙古との関係も深く、自らも辮髪にしてすべてを蒙古のために忠勤を励もうと考えていた。
 そのため第2次日本攻撃の命令を元から受けた4月には、忠烈王自身が都を出て15日に合浦に到り、18日には、元の将軍たちとともに閲兵式を行なったほどである。

 さらに、文永の役のときには元と対峙していた旧宋の大軍は、今度の戦争では江南軍として日本攻撃に参加することになり、宋の将軍であった范文虎が10万の江南軍を指揮した。
 元の総司令官は、都元帥忽敦(忻都ともいわれる)、高麗の司令官には、都督使金方慶が就任した。ところが元・高麗の東路軍は、江南軍の到着をまたずに5月21日に、対馬の佐賀村大明神浦において日本軍と戦闘を開始した。

 ▲東路軍の戦闘開始と疫病の発生
 東路軍は26日には対馬を出て壱岐のフルモト(風本?)に向った。
 高麗史節要によると、5月26日、元の3将の東路軍は、日本世界村(=佐賀村?)大明(明神?)浦に襲来した。
 さらに、6月6日には九州の筑前海上に現われ、志賀島に来襲した
 東国通鑑によると、6月8日に東路軍は日本軍を300人以上殺したものの、この頃、蒙古軍の中で疫病が発生・流行し、3千人以上が船中で死亡していた
 このため東路軍の士気は戦争の出だしから衰えており、壱岐に引揚げて、遅れている江南軍の到着を待つことになった。

 一方、10万を越える江南軍の大兵団は、正月の出発を前にして主将のアラツカンが病死したため、出征が大幅に遅れ、合流地の平戸に到着したのはようやく7月になってからであった。
 その前、日本軍は壱岐に向った東路軍を追撃して、6月29日と7月2日に壱岐沿海で大激戦を行った。その戦果には諸説あるが、双方互角であったようである。
 このときに江南軍の先発隊が壱岐で合流しており、元軍の意気は再び高まった。

 ▲江南軍・東路軍の合流と大暴風の襲来
 7月はじめには江南軍の主力は平戸に進出し、7月27日になると東路軍と江南軍の主力が合流して筑前海岸に向かい、いよいよ本戦が始まろうとしていた。
 これに対して日本軍は、夜を徹して元の兵船に対して襲撃を行なった。
 その7月30日晦日の夜半から、大暴風が再び九州を襲った。そして翌閏7月1日の早朝には元の船団は、その殆んどが沈没し、10万余の元軍の7-8割が溺死するという大惨事になった。

 ここで分かり難いのは、当時の日本の暦は、旧暦7月の晦日は7月30日で終わり、翌日は閏(うるう)7月1日になることである。
 つまり日本の旧暦7月は、ここでは2ヶ月連続しており、7月と閏7月と7月が2回繰り返され、1年が13ヶ月で構成されていることである
 なお元の暦では、7月30日の翌日は8月1日となる

 弘安の役の大暴風は、丁度7月30日深夜、つまり閏7月1日の午前0時頃から猛威を振い始め、その日の午後9時頃まで約21時間にわたり続いた。
 しかもその台風の規模は、気圧950ミリバール、風速は55メートルという猛烈な風雨が吹き荒れたと推定されている。(伴野朗氏「元寇」上、下、講談社)
 なお閏7月2日の天気は台風一過の晴天になった。

 そのためこの事件の日付は、日本史では閏7月1日、元史では、8月1日になり、日中間の史料では、同じ事件でも日付が異なるので注意を要する

 この2日間を八幡愚童記は次のように記している。
 「7月晦日(=30日)の夜半より、戌亥(=西北)の風おびただしく吹きて、閏7月1日は、賊船ことごとく漂蕩して海に沈みぬ。大将軍の船は風の以前に青龍海より頭をさし出し、硫黄の香 虚空にみちて、異類異形の物共 眼にさえぎりしに、恐れて逃去りぬ。残る所の船どもは、皆破損して磯にあがり沖にただよいて、海の面は算を散するに異ならず。死人多く重なりて、島を築くに相似たり。

 「身没し、魂うかれて、望郷の鬼となる、雲南の濾水もなんぞこれにおよぶべき。鷹島に打ち揚げられたる異賊数千人、船に離れて疲れいたりしが、破舟共に繕いて、7,8艘に蒙古、高麗人は少々乗りて逃げもどる。(中略)千余人降を乞しを搦めとりて、中河の端にて頸を切る」(原文のカナをひらがなに修正:日本思想大系「寺社縁起」所収、192頁)

 ▲元軍壊滅
 なお江南、高麗の艦船の一部は平戸島沿岸にあったが、范文虎の船も沈没しかけたため、他の船に乗り換えて本国へ逃走し、高麗軍も続いて逃走した。
 元軍の死者10万余人、高麗軍の死者7千余人に及び、逃げ帰ることのできたのは元軍が2-3万人、高麗軍が3千人程度と見られる。

●元寇のその後
 このところを元の正史がどのように書いているかはたいへん興味がある。元史、巻208、外夷伝巻95、「日本」に記載されているところを見る。
 そこには当然のことではあるが、自分たちの責任になるようなことは全く書かれていない。漢文の読み下し文をそのまま載せるほどの内容でもないので、若干、はしょって述べる。

 まず6月に司令官(日本行省右丞相)の阿刺罕が病気のため任務の遂行ができなくなり、その代わりに阿塔海が軍事の総帥となった。そして8月(=旧暦の閏7月のこと)、諸将が未だ敵も見ないうちのに全兵力を失い帰還することになった。
 それは、日本まで行って大宰府を攻撃しようとしたが、暴風で船が壊れてしまったことにある。なお軍議をしようとしたところ、萬戸雌ソ彪、招討王国佐、水手総管陸文政などが、節制を聞かずに皆逃げてしまった。そこで本省は、残った軍を船に乗せ、合浦に来て郷里に帰した。

 官軍(=元の連合軍のこと)は、6月に海に入り、7月に平壺島(=平戸?)にいたり、五龍山(=長崎県北松浦郡鷹島町)に移った。8月1日(=閏7月1日のこと、以下同じ)に暴風で船が壊れた。5日、文虎等の諸将は各自、しっかりした船を選んで乗り移った。しかし士卒,十余万人は山下に見捨てられた。
 見捨てられた者たちは、衆議により張百戸というものを総管として選び、木を切り、船を作って国へ帰ろうとした。

 しかし7日に日本軍の襲撃を受け、かれらはすべて戦死し、2-3万人が捕虜になった。9日に八角島で蒙古、高麗、漢人はすべて殺された。しかし江南軍は唐人として、殺さずに奴隷にされた。閭輩がそれである。
 10万の軍のうちで故郷に帰りついたのはわずか3人であった。(元史、外夷伝「異称日本伝」巻上三、所収)

 これらの記述から、日本出兵に関係した元の上層部の政治家、官僚、軍人たちは、自分たちの責任を免れるために、いかにイイカゲンなことを並べたてているか分かる。それは、どこの国についてもいえることであるが、国の中では分かりにくいことが、国の外から眺めると真実が見えてくる典型的な史料といえる。

 元は、日本遠征の失敗の後、日本の報復を恐れて高麗金州に鎮辺万戸府を設けて、また南部海岸一帯に元軍を駐留させて警戒を続けた。
 世祖フビライは、天文家の張康を呼び出して、日本を討つことの可否を占わせた。その結果は、不可と出たので、1282年正月に征東行省を廃止し、一時は日本遠征を断念した。

 しかしどうしてもあきらめきれない世祖フビライは、再び、張康を呼び出して出兵の可否を問うた。張康の答えは、やはり出兵不可であったが、世祖は戦争準備を再開させ、高麗に大小兵船3000艘の建造を命じた。
 しかしこれらの戦闘準備に対する江南の中国人の抵抗も激しくなり、ついに騒動は江南各地の叛乱にまで発展した

 中国人の抵抗で元の出兵計画は一時中止され、日本遠征計画はその後も続けられたが、1283年から元の支配下の中国とベトナムで大規模な叛乱が続発し、さらに1287年から5年間、蒙古、満州、朝鮮を戦乱に巻き込む内乱が起こった。
 そして世祖フビライの死(1294)とともに日本遠征は中止になった






 
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