(3)「神国日本」の登場
弘安の役において日本に襲来した元の軍勢は、既に述べたように12万5千、船舶4400艘という大兵力であった。これを迎えうつ日本の軍勢は、「鎮西要略」によれば、これまた25万という大軍であった。
もし両者が激突して、日本本土で戦闘が展開されていたら、どのような修羅場になったか想像にあまりある。
それはおそらく太平洋戦争における本土決戦に匹敵する大戦争になったと考えられる。しかし文永、弘安の役共に、元の大軍は2度までも台風により一夜にして壊滅するという結末になった。それは誰が考えても奇跡としかいいようのない事態である!
この戦争において朝廷、貴族、庶民にできることは、異国退散を神仏に祈ることであった。そして異国降伏の祈祷は全国の神社、寺院で行なわれた。その結果が、「神風」になったと考えられたのは、自然の勢いであった。
この戦勝が天佑によったことから、諸神社における奇跡が多く伝えられた。なかでも有名なものは次のものである。
7月30日、伊勢風社の神殿より赤雲が生じて、忽ち大風になったというものである。いわゆる「伊勢の神風」である。このことから風社は、その後、永仁元(1293)年に別当に列せられて風宮となった。
また石清水八幡宮では、7月30日、大般若経による供養が行なわれていたとき、鏑矢が社殿から出て西方に飛行したことから大風がおこったとされる。
江戸時代の国学者・橘守部がまとめた「歴朝神異例」によると、「この数日(=7月30日ころ)の大風の事を、後に聞きあつむるに、香椎、宇佐、当社(=箱崎八幡宮)の震動と、伊勢の風宮の震動と、津国住吉社の振動といずれも皆同時なりきと、そのよしおのおの告参らせたれば、京都を始め、九国の人民一同に、神の威霊のたふときを仰がぬ者こそなかりけり」(巻5)と書かれている。
つまり7月30日から閏7月1日にかけて、日本中の有名な神社の社殿が振動していた。もっともその日は、日本列島は猛烈な台風に襲われていたのであるが・・・。
文永、弘安の2回におよぶ外患の危機は、共に「神風」によって助けられた。そのことから、わが国は神により護られている「神国」であるとする国家的な思想?が形成された。そしてそれは現代まで影響を及ぼすことになった。
明治の日露戦争の旅順攻撃や日本海海戦のときもそれであり、太平洋戦争の末期にも最後には神風が吹いて、結局、日本はアメリカに勝つという信念がいたずらに戦禍を長引かせることになった。
この日本は神国である、という出典のはじまりは、おそらく日本書紀の神功皇后摂政前期における新羅王の言葉と思われる。
そこには「吾れ聞く。東に神国あり日本という。また聖王あり、天皇という、必ずその国の神兵なり」と述べられている。
神功紀は、その全体的に記事の内容があやしいとされるのが定説であるが、この言葉は特にフシギである。
それは「日本」という言葉が使われるのは7世紀中葉からであり、3-4世紀の神功皇后の時代に新羅王が、「日本」という言葉を使うはずはない。
次に「天皇」という言葉も、はじめて使われたのは推古天皇の6世紀であり、一般的に使われ始めたのは7世紀の天武天皇からである。
この文章は、7世紀以降に、書紀の編集者によりつくられた典型的な作文である。そして日本=神国という思想が登場してくるのは、元寇の役を経験した鎌倉時代からではないかと私は考えている。
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