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  (2)いろは歌の歴史

 いろは歌が、いつ、誰により作られたかは不明である。ただ、それが余りにもよく出来た歌であることから空海の作とされている。
 しかし「いろは歌」のような七五調の歌が作られるのは、空海の時代よりは百年くらい後であると思われている。
 現存する「最古のいろは歌」は、承暦3年(1079)年の奥書のある「金光明最勝王経音義」という書物の写本に掲載されているといわれる。その書物は現在、大東急記念文庫が所有している。(小松英雄「いろはうた」中公新書、29頁)

 そこには、漢音と和音(万葉カナ)により、図表-3,4のように7文字ずつ区切った形のいろは歌として掲載されているという。

図表-3 漢音による現存最古のいろは歌
   
(出典)承暦本「金光明最勝王経音義」

図表-4 和音による現存最古のいろは歌
末麻 介氣 布符
面馬 士志
会廻 皮非 文裳    
(出典)承暦本「金光明最勝王経音義」

 この「いろは歌」は、それが仏教的な内容を含んだ和讃の形式で造られており、しかも内容、形式共に精緻なものであることから、空海の作という説が伝えられていた。小松英雄氏によると、その説の伝承は、12世紀初頭までさかのぼるといわれる。(同氏「前掲書」141頁)

 しかし和歌の形式において七五調が成立してくるのは10世紀以降のことである。
 そのため仏教の和讃においては、七五調が和歌より早く出現してきるとはいえ、空海の時代までさかのぼる事は考えにくい。
 そのことは大矢透氏による「伊呂波歌の空海ノ作ならざる断案」という論文において、今様の成立時期などから空海より100年後の10世紀に作られたとされて以来、大体、その見解が定説になっている。

 前記の最古のいろは歌が掲載されている写本の金光明最勝王経は、奈良時代に国分寺などで読まれた護国経典の代表的なものである。
 それは平安朝に入ると真言宗系統の学問的用途に利用されており、いろは歌と真言宗の開祖である空海のかかわりは、それなりにかなり強いと思われる。
 
 このいろは歌の作者を空海であると言い出したのが、誰であるかも定かではない。しかし、いろは歌が「三宝絵詞」(984年成立)に出てくる涅槃経の「雪山偈」を意訳したものであるといった人は、平安末期の真言宗の僧、新義真言宗の開祖となった覚●(かくばん:1095-1143)といわれる。(村上通典「「いろは歌」の暗号」、文芸春秋、17頁)

 ところがこの「いろは歌」には、暗号が隠されていることに気がついた人が出てきた。その最初の人が誰かはわからないが、江戸時代に、そのことはかなり広く知られていたようである。





 
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