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日本人の思想とこころ
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  (4)平安仏教における最澄と空海

 奈良仏教において、仏教を国家と結ぶことにより全国的に拡大する役割を果たしたのは、地方の豪族であった。
 それは仏教の地方への普及に貢献した優婆塞(=在家信者)の出身者に、戸主が多いことを見ると分る。最澄も空海も地方豪族の出身であり、共に奈良仏教に対しては批判的な立場をとって登場してきた。
 しかし地方豪族の立場から考えると、奈良時代とは違う形で、国家仏教にかかわろうとしたといえる。(家永、赤松,圭室監修「日本仏教史T」法蔵館、184頁―)
 
 最澄と空海は、平安仏教の創始者として上記のような共通したものがある反面、最澄が南都教団に対して壮烈な批判を展開しているのに、空海の方は政治的に柔軟に対応して様子をみるやりかたをした。

●全国各地の伝道と社会事業
 最澄は、弘仁5(814)年九州に赴き、弘仁7(816)年には関東で伝道を行ったし、空海は、たえず西国を巡回し、一方では門弟を、東国をはじめとする各地に派遣して伝道を行なっている。
 それらは天台、真言といった宗派の一乗主義に沿った教理と実践を踏まえた伝道であることから、かなり画期的なものであったといえる。

 さらに、それらの伝道は、奈良時代の行基上人の路線につながる社会事業をともなっていた。最澄は、弘仁7年の東国伝道に際し、美濃から信濃への道筋で難所を見つけ、そこに広済院、広拯院という簡易宿泊所を設けた。
 空海の社会事業は、さらに大規模である。有名な讃岐の満濃池をはじめとして、空海が開いたとされる弘法池、弘法井は、伝説として全国いたるところに残されており、弘法大師信仰の事跡とされている。

●神仏習合思想の導入
 また最澄、空海は、仏教伝道にあたり、共に、かなり積極的に神仏習合を推し進めたようである。その理由は、仏教の伝導に当たり、そのほうが民衆が取り入れ易いと考えたことにあると思われる。
 最澄は比叡山を開くに当たり、大比叡、小比叡の神を守護神と仰ぎ、空海は高野山の開創にあたり、丹生明神の託宣を得てこれを勧請し、また東寺の鎮守として稲荷神社を祭った。
 これらはいわゆる「護法善神」の思想を適用して、叡山と高野山の基礎を固めたものである。

 また最澄の関東伝道にあたっては、「我も千部法華経の知識に預からん」という諏訪大神の託宣があったとする怪異を「叡山大師伝」は記しており、また弘仁5年の九州伝道にあたっては、最澄が宇佐八幡の神宮寺で法華経を講じたところ、八幡大神の「和上に知遇して正教を聞くことをえたり」、という託宣があるなど、伝道先の神々が種々の瑞祥を表わす話がいくつか記録されている。

●山岳仏教の発展
 最澄、空海共に、山修山学による樹下石上の生活を修行の出発点に位置づけている。これは官大寺を中心に展開した奈良仏教の主流派が堕落していたことへの、アンチテーゼであったと思われる。奈良仏教にも山林修行は存在していたが、それは求聞持法などの呪術的な秘法と結びついた、私的なものであった。

 是に対して最澄、空海の山林仏教は、今までの山林修行から呪術的な要素を払拭したものであり、比叡山が勅額を賜る大寺院になり、高野山が同様に勅許を受けた寺院になるなど、山岳修行を公認することにより形成された。これが奈良仏教における山岳修行と、大きく変わった点であった。

●その後の平安仏教の展開
 奈良仏教においては、天皇崩御の読経などは行なわれたものの、仏教による葬送儀礼は行なわれていない。これは現代の人々から見ると、意外な事であると思う。
 そこでは仏教は、現世の福徳をはかる方便と考えられていたのである。
 
 仏教が葬送儀式と密接なかかわりを持ち、人間の死後世界を担当するようになるのは、平安時代からである。たとえば淳和天皇(786−840)は亡くなるとき、「人没して精魂天に帰し、空しく冢墓を致す。鬼物ここにより終わりに祟をなす。今宜しく骨を砕いて粉となし、之を山中に散らせ」(「続日本後記」)という詔を残してなくなられた。この頃から、平安仏教の中で浄土教が大きな位置を占めるようになる。




 
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