(4)いろは歌の作られた時代と作者
現在、「いろは歌」は、それが作られた時代も作者も正確には分っていない。しかし定説のようになっているのは、まず空海によって作られたものではなく、空海より百年後くらい後に作られたとするものである。
そこでまず、現時点において明確にできることを確認してみよう。
空海の生没年は774年-835年である。そして1079年の「金光明最勝王経音義」の写本には現存する最古の「いろは歌」が書かれている。
ここから、いろは歌がつくられた時代の上限と下限が分る。次に970年に成立した源為憲(?-1011)の著書である「口遊」には、字母歌「たゐに」がのせられており、それまで使われていた字母歌「あめつち」より優れていると書かれている。
もしそのとき「いろは歌」が成立していたら、まず、第一にそれが挙げられたはずである。
このことから、970年には「いろは歌」がまだ成立していなかった可能性が高い。でもそのことは別の面からも検討する必要がある。
●五七調から七五調への変身
「いろは歌」は、見事な七五調で作られた短歌である。短歌において、この七五調という形式がとられるのは非常に新しく、新古今和歌集(1205年成立)でもまだ基本的には五七調が使われているほどである。
しかし長歌や仏教関係の和讃や今様の分野では、いち早く七五調が取り入れられ始めていた。その意味で、いろは歌を作った人は、多分、仏教関係の和讃、今様などに関わる人であり、その最先端にいた人と思われる。
平安朝に入ると、それまで、日本の短歌の世界を支配してきた五七調に対して、まず長歌の分野において七五調が登場し始めた。
平安京は、仁明天皇(832-850)の時代になり、ようやく奈良の旧都をしのいで山城第一となったといわれるが、この時代の嘉祥2(849)年に天皇の40歳を奉祝する行事の中で、興福寺の大法師たちが柿本人麻呂の149句を大幅に超える、310句という空前絶後の長歌を奉献した。
この長歌は、「日の本の やまとの国を かみろぎの・・・」(続日本後紀,巻19)という五七調の言葉で始まるが、その中で、句並びが一定しないまま、歌の中に七五調が混在してくるのである。この頃から、七五調への変身が始まった。
この嘉祥2年は、紀貫之の誕生より20数年まえ、菅原道真は、まだ5歳であり、短歌に七五調が導入されるには、早すぎる段階であった。
つまり空海の存命中には、七五調の短歌が作られたことは考えにくいのである。七五調の短歌が作られ始めるのは、多分、延喜(901-)以降のことになる。
七五調の短歌が作られ始めるのが10世紀であり、しかも「いろは歌」は七五調としても非常に手馴れた言葉使いであることから、10世紀初頭ではなく後半の可能性が高くなり、源為憲の著書「口遊」(970)以降と考えるのは妥当性をおびてくる。
それは現在の定説に近いものであり、そのことから「いろは歌」の成立は大体、10世紀後半から11世紀の前半と考えられる。
●柿本人麻呂に仮託された人物は誰か?
「いろは歌」に暗号として組み込まれていたのは、「咎なくて死す」という言葉と、「かきのもとひとまろ」という文字であった。しかし上記のように製作年代が10世紀後半以降ということになると、万葉の大歌人である柿本人麻呂は、歌の作者ではなく、人麻呂に仮託して同じような悲劇的な立場におかれたことを世の中に知らせるメッセージが、暗号として組み込まれたと考えられる。
そこでまず「柿本人麻呂」のことを簡単に説明する。
柿本人麻呂は、万葉集の歌人として有名な人であるが、その正体はあまりはっきりしない。まず生没年が不明である。文武天皇(687-707)の頃の人で、皇室を権威づける歌を多く作っていることから、朝廷に勤めていた官僚で、何かの不祥事の責任をとって石見で処刑されたと思われている。
それが仏教的な「いろは歌」の中に組み込まれていることを考えてみると、次にあげるいくつかの条件が考えられる。
(1) 人麻呂という有名人に仮託されていることから、当時の人なら誰でも知る人であること。
(2) 仏教的な性格をもった短歌に組み込まれている事から、仏教、なかでも真言宗や空海に関係している可能性があること。
(3) 歌人、文筆家の可能性が高いこと。
(4) 政治的な事件に巻き込まれ、無実のまま死を迎えていること。
(5) 政治的な事件は、空海の亡くなった9世紀から10世紀の終わりころまでと考えられること。
▲第1の候補者
そこでまず空海の亡くなったころから、上記の条件に合うような事件を調べてみる。最初に登場するのが、9世紀初頭の「薬子の変」(807)である。
ここでは「まんだら探偵」と違って、私はこの事件で最も被害を受けたのは、平城上皇の皇子で廃太子になった高岳親王であると考える。
この事件がなければ、高岳親王は嵯峨天皇の次に皇位についた可能性のある皇子である。それが廃太子となり、真如という名前で空海の10人弟子の一人になった。そして貞観4(862)年に入唐し、さらに貞観8(866)年に北方に向かい、翌年、長安に入った。当時の唐は、武宗による棄仏の後で、仏教は衰退の状況にあった。
そこでさらにインドへ向かい、羅越国(ラオス? シンガポール?)あたりで消息を断ったといわれる。それは870年頃で、親王の歳はすでに80歳前後であったと思われる。私には、いろは歌の候補者は、まず高岳親王ではないかと思われる。
▲第2の候補者
第2の候補者は、橘逸勢(はやなり:?-842)である。書道の名人で、空海と並び三筆のひとりに数えられる。804年に遣唐使に従い入唐し、在唐中には空海の「三十帖策子」の書写を助けた。
仁明天皇の承和9(842)年7月、藤原北家・良房らの策謀で皇太子恒貞を廃し、仁明皇子・道康(後の文徳天皇)がこれに代わる事件が起こった。(「承和の変」)
橘逸勢は、このとき皇太子恒貞を擁し、仁明天皇の廃立を謀った首謀者として流罪にされ、伊豆へ流される途中で遠州において亡くなった。橘逸勢は、その後、御霊の一人として祭られるようになっている。
▲その他の事件
該当する時期の大事件としては、菅原道真公(845-903)の事件がある。これも冤罪で、無念のまま九州でなくなっている。道真公は、歌人、文筆家であり、藤原時平がからむ無実の事件であるが、ここでは仏教的な側面より、天神、雷神との関係が深く、天神様として祭られるようになった。江戸時代の浄瑠璃作家の竹田出雲は、「いろは歌」に仮託された人物として道真公を考えたようである。
平安朝において無実の罪で死を迎えた人は非常に多い。しかしそれらの怨念は、その後、「御霊信仰」の対象としてその後に祭られ、鎮魂されるようになった。
上記の候補者の内で、橘逸勢も菅原道真公も、御霊信仰の対象として鎮魂されるようになっている。
「いろは歌」の柿本人麻呂は、御霊信仰の対象にはなっていない。平安朝において無実の罪で死を迎えた人は非常に多いが、その後に「御霊信仰」の対象として祭られ、鎮魂されるようになっており、橘逸勢も菅原道真公も御霊信仰対象として鎮魂されるようになっている。
とすると無実の罪で不遇の死をとげながら、「御霊信仰」で鎮魂されていない人物をいろは歌は示唆しているのではないか? とすると、高岳親王か?
高岳親王が亡くなった年代は、870年前後とみられる。それから百年後に親王をしのんで真言宗の僧が追悼の歌を字母歌としてお経の本に書き込んだのか?
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