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日本人の思想とこころ
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  (2)最澄 ―天台宗の勃興

●平安仏教と最澄
 奈良仏教には南都六宗は存在したが、その成実、三論、法相、倶舎、華厳、律宗は、それぞれが思想や理論であり、官寺と六宗派には直接的な結びつきが無かった。
 その意味では奈良時代には、寺院宗派は存在しなかったといえる。
 平安時代に入り、最澄が天台宗を起こし、空海が真言宗を起こし、ここで初めて日本仏教には宗派が現われるようになった。
 その意味では、日本仏教における宗派の始まりは平安時代といえる。

 日本天台宗の開祖・最澄の誕生は、元亨釈書によれば、神護景雲元(767)年8月18日であるが、角川版「日本史辞典」では天平神護2(766)年となっており、異説があるようである。

 最澄は、近江滋賀郡古津郷の人、父は三津首百枝、祖先は後漢の献帝といわれ、渡来系の家系である。幼時から学問では群を抜き、13歳のとき、近江国分寺で出家し、延暦4(785)年、19歳のときに東大寺で具足戒を受けた。
 この奈良滞在中に、鑑真和上が招来して、その天台の経釈に深く感銘した。

 この頃、仏教界の腐敗が広がりを見せており、京畿諸寺に田宅園地を施入売買することを禁じたり、宅を質にとって高利貸をいとなむことを禁じる令が出るほどになった。
 平城京では、長岡京への遷都の進行とともに、騒然とした雰囲気になっていたと思われる。最澄が東大寺で戒を受けた同じ延暦4(785)年9月に、長岡京において造宮長官の藤原種継が暗殺される大事件が発生した。

 この同じ年の7月に、最澄は比叡山に上り草庵を作った。長岡京が作られている頃の比叡の山は、人も近づかない辺境の深山であったと思われる。
 それから3年の後の延暦7(788)年、最澄はこの比叡山の山頂に一宅を創し、自ら等身の薬師像を刻んで安置し、比叡山寺と称した。これが後の一乗止観院となる。

 比叡山の山頂にこもった頃の最澄は、20歳前後の若い僧であり、まさに世俗を遠く隔てた隠遁者であったと思われる。
 平城京の奈良仏教が堕落していく反面で、これに反発して山にこもって修行する若い僧たちが一方には生まれていた。最澄はその1人であったと思われる。
 丁度、その頃、19歳の隠遁者・最澄が書いた「願文」が残されている。
 それをみると、法然、親鸞の思想の原点がそこに現われていて、驚かされる。

●「願文」に見る最澄の思想
 最澄は言う。「是において、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違し、中は皇法に背き、下は孝礼を欠けり。つつしみて、迷狂の心に従い、三二の願を発す。無所得を持って方便となし、無上第一義のために金剛不壊不退の心願を発す。」(梅原猛「仏教の思想T」、著作集5、206頁)
 我々は、それから400年後に、親鸞により再び、同じような言葉を聞くことになる。

  若い最澄は、自己を世俗から断絶するために5つの誓い」をたてる。
(1) 私の感覚が、真に仏の感覚のごとく清らかになるまで、私は決して他人に何ものも与えまい。
(2) 仏教の理をはっきりとさとる心をえるまでは、私は決して、俗学俗芸にかかわるまい。
(3) 真に戒律を具するようになるまでは、施主の法会にはあずかるまい。
(4) 空をさとり、物事にとらわれない自由自在の心をえるまでは、世間や人間の雑事に交わるまい。ただ、感覚が仏のごとく清らかになれば別である。
(5) この身でうける功徳を、自分で独り占めにすることなく、普く、心あるものにほどこして、すべての心あるものに、みなこの上もない幸いを授けたい。
        (梅原猛訳、「願文」。前掲書、267頁)
  
●内供奉の任命と山上の法華十講
 最澄は、この願文通りに、比叡山の一角において孤独な勉学と修行を志したと思われる。しかし最澄のこの誓願は、その頃の内供奉・寿興に認められた
 内供奉とは、宮中の内道場に供奉する僧のことであり、いずれも戒律と智徳に優れた僧である。定員10人からなるため、十禅師と呼ばれていた。

 延暦16(797)年、最澄は内供奉・寿興の推薦により、内供奉の一員に加えられ、比叡山寺の費用は近江国の正税により支弁されることになった。最澄31歳のことである。
 翌年、最澄は初めて法華十講を山上に開いた。それは11月14日より10日間かけて行なわれた。これは後年、勅会の大典となった法華大会の最初のものである。
 この頃、最澄は比叡山寺に一切経を備える悲願をおこして、諸大寺の僧侶に援助を得て遂にそれを達成し、その頃から比叡山寺は一乗止観院と称するようになる

 延暦21(802)年正月、かねて最澄の学徳を崇敬していた和気弘世(=清麿の子)が、高雄山寺(=後の神護寺)に法華三大部の講義を開き、最澄を招請した。最澄はこれに応じて山を降りて講義に望むことになった。

 この高雄山寺の法華講義は、ただの祈祷法会ではなく、天台教の宣揚を目的にしたものであり、最澄にとっては天台宗の講義を行なう絶好の場となった。
 最澄の講義は、7月中旬から始まり、9月上旬にわたり、その学識は南都六宗の諸大徳にも認められて、さらに桓武天皇の上聞に達するまでになった。

 この法華講義が契機になり、最澄は留学生の一段上の「還学生」(けんがくしょう)として、弟子の義真を通訳にしたがえ、遣唐大使・藤原葛野麻呂の一行に加わり、延暦23(804)年7月に入唐することになった。

●最澄入唐と天台宗の開立
 延暦23(804)年7月6日、遣唐大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)の一行は、入唐する最澄、空海を乗せて、4隻の船により九州肥前田の浦から唐へ向かって出帆した
 大使や留学僧・空海の乗った第1船は、8月10日に無事に福州(福建省)長渓県の赤岸鎮についたが、最澄と副使菅原清公(きよきみ)の乗った第2船は、海上を漂う事54日、ようやく9月1日になって明州(浙江省寧波府)に到着した。ちなみに第3船は途中から引き返して日本に戻り、第4船はついに消息不明になった。当時の入唐の船旅は、それほど大変であった。

 最澄は大使と分かれ、南方の浙江省の天台山国清寺に行き、そこで智者大師7世の座主という道○(すい)法師から一心三観の旨を伝授され、さらに、仏隴寺の行満から天台法門を伝授された。また越州の龍興寺の僧順暁による灌頂を受け、天台のほかに密禅戒の教義の伝授を受けた。
 このようにして最澄の天台宗は、シナ天台に加えて、密・禅の2宗と菩薩の円戒を加えて1宗としたものであるが、その基礎を中国に学び、1年たらずの在唐をへて、延暦24(805)年5月に明州をたって帰朝した。

 最澄は、それから天台宗の発揚に努め、延暦25(806)年、南都六宗に加えて、新しく天台宗として年度者2人をおくことを許された。ここで天台宗は独立の1宗として公認されることになった。
 この最澄の開いた日本の天台宗は、台密禅戒(=天台宗、真言宗、禅宗、梵網宗)の4宗派の教義を組み合わせたものであり、その後の日本仏教の出発点となった。その意味から、日本的仏教は、最澄から出発したといえる

●最澄における法華一乗
 ▲仏教教義の特徴 ―人はいかにして仏になれるか?
 最澄の天台宗の思想を語る前に、簡単に仏教の教義について述べる。
 通常の宗教では、教祖が説いた教えが聖典とされている。キリスト教ではイエス・キリストの教えが聖書であり、イスラム教では教祖ムハンマドの教えがコーランである。
 ところが仏教では、教祖シャカムニの教えは仏典のごく一部にすぎず、その大部分は狭義の人間シャカムニによる教えではなく、抽象的なブッダの教えとして説かれている
 それが仏教において「大乗」(=大きな乗り物)といわれる教義の特徴であり、日本に伝来した仏教は、まさにこの「大乗仏教」であった。

 仏教はインドのシャカムニ(シャカ族の聖者=仏陀)を教祖とする宗教である。この歴史的人間として実在したシャカムニは、紀元前5世紀に、カピラ城の王子として生まれ、29歳で出家、35歳で悟りを開き説教を始め、80歳にウシナガラで亡くなった。このシャカムニの教えにこだわる狭義の仏教を、「小乗仏教」という。

 この「小乗」に対する「大乗」の教えでは、聖者シャカムニは歴史的時間を越えて、前世ですでに悟りを開いた人、即ち仏であったと考えられる。
 そのため仏教では、教祖も経典も時間・空間を越えて抽象・拡大化される。
 つまり仏教における仏は、実在の人間・シャカムニを離れて、時間・空間を抽象化し、教祖・仏陀は人間の持つ肉体、精神、思想からはなれ、永遠不滅の仏性をもつ存在となる。
 そのため教祖・仏陀の説法は、他の宗教には見られないほど大規模化した経典となって現われる

 仏教における説法は、歴史的実在者としての釈迦を超えて、次ぎの3つの体を持った仏陀の説法であり、それらにより仏典が構成されている。
 (1) 応身=実在者としての釈迦仏
 (2) 法身=説法者としての真理そのもの (例)宇宙の森羅万象
 (3) 報身=法や真理が仏体化したもの (例)阿弥陀仏
                     
 ▲大乗仏典としての法華経
 仏となるための「乗物」のたとえは、天台宗の代表的な仏典である法華経の中に登場する。法華経の「譬喩品」(ひゆほん)の中に、一切衆生を救うたとえとして、有名な「火宅」とそこから衆生を救い出すための「乗り物」の話が出てくる。

 ある長者の家が火事で燃えている。家は焼け落ちようとしているのに、長者の子供たちは遊びに夢中で、長者がどんなに言っても外へ出てこない。そこで長者は、一計を案じて、家の外に牛の車、山羊の車、鹿の車があるから、どれでもあげる。早く出て取りなさい、といったら子供たちは争って外へ出て火に焼かれる事を免れた。

 子供たちは無事に火宅を出て、四方に通じる道の露地に座っている。しかしそこには牛の車も、山羊の車も、鹿の車も無かった。そのとき長者は、子供皆に平等に大きく美しい「大白牛車」(だいびゃくごしゃ)を与えた。
 子供たちは、白い牛が引く大きな牛車に乗りびっくりした。それらは、最初に予想していた牛の車、山羊の車、鹿の車のどれよりも、はるかに立派なものであった。
 舎利弗よ!これは子供にうそをついたことにならないか?世尊はたずねられた。これが法華経の有名なたとえ話である。

 ここで火がついて燃えている火宅とは、生老病死、憂悲、苦悩の中で生きている我々が生活している世界のことである。その世界から衆生を救い出すための方便としての教えが上述の車のたとえで語られる。

 牛の車、山羊の車、鹿の車は、次のことを表している。
 三車―山羊の車―声聞乗(しょうもんじょう)―声を聞く、教えを聞く
   ―鹿の車 −縁覚乗(えんがくじょう)―ひとり自ら悟る
   ―牛の車 −菩薩乗(ぼさつじょう)−仏智を完全に発揮した智恵を求める
 大白牛車―仏陀―大乗の車
 直接、釈迦が説いた小乗仏教は、山羊と鹿の車、つまり説教を聴いて自ら悟る声聞乗と縁覚乗の二乗を中心にするものであったと思われる。これに対して、大乗では、牛の車、すなわち菩薩乗を加えて三乗とした。

 さらに法華経は、同じ大乗でも、この三乗ではなく、大白牛車の一乗をもって大乗とした。法華経の「譬喩品」は、まさにこのことを言っているのである。
 大乗仏教の本質が一乗であることは、日本ではすでに聖徳太子による三経義疏のなかで述べられていることであり、最澄による法華一乗の思想は、基本的には聖徳太子の教義を引き継いだものである

●一向大乗の戒壇設立
 この時代に正式な僧の資格を得るには250戒という厳しい戒律について、免許を受ける必要があり、この免許を発行できる試験機関である「戒壇」は、全国に奈良の唐招提寺と東大寺、それに九州の観世音寺、下野国の薬師寺の4箇所しかなかった。そのために比叡山の最澄の下で修行しても、正式な僧にはなれないということになり、それは比叡山の存立にかかわる問題であった。

 しかも当時の仏教思想は、小乗から始まって大乗に及ぶという考え方から、僧侶の資格を得る儀式については小乗の儀式が採用されていた。そのために奈良仏教は大乗であるのに、戒壇においては小乗戒が採用されていた。
 そこで最澄は弘仁10(819)年、比叡山に一向大乗戒の戒壇を独立して設立することを奏請した。この主張は、奈良仏教の勢力と教義を交えての大論争となり、奈仏側を代表する藤原仲麻呂の子の徳一と最澄との間で激しい議論が行なわれた。

 この論争は、最澄の法華一乗思想を明確にした非常に水準の高いものであり、これにより日本の大乗仏教の理論的水準が高められた。この問題についての最澄の見解は、「顕戒論」3巻の中に理をつくし微に入り述べられている。但し、その内容は、非常に難しい!
 最澄の大乗戒壇の独立は、その努力にも拘らず、生前には達成できず、最澄の入滅の同月、弘仁13(822)年6月4日にようやく認められた。




 
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