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日本人の思想とこころ
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  (3)空海 ―真言密教の誕生

●空海の出自
 空海(774-835)は、「元亨釈書」によると、姓は佐伯氏、宝亀5(774)年、讃岐の多度郡屏風が浦(現在の香川県善通寺市善通寺)に生まれた。父はこの地方の豪族の佐伯直田公(さへきのあたい たきみ)、母方は阿刀氏である。
 母方の外舅にあたる阿刀大足は、のちに桓武天皇の皇子・伊予親王の侍講になった大学者であり、空海は幼時よりこのオジの大足について、漢籍を学んだ。

 24歳のとき空海が書いた思想劇「三教指帰」では、15歳で大足に学んだと述べており、18歳で都の大学へ入った。「空海僧都伝」では、「博く経史を覧しかども殊に仏経を好む。常に謂へらく、我が習うところは古人の糟粕(残りかす)なり」、といっている。
 「三教指帰」によると、大学で1人の僧侶から「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)を教えられ、阿波の大滝山や土佐の室戸岬で山野を跋渉しながら修行をしたといわれる。「虚空蔵菩薩求聞持法」とは、法相宗の神叡や奈良仏教の高僧たちが吉野の比蘇山寺で修していたといわれる山林修行の法であり、密教の聖典であった。18歳から24歳の「三教指帰」の著作までの空海の5年間は、儒教から仏教への転向期であった。

 「三教指帰」の著作から、31歳の延暦23(804)年7月に最澄とともに入唐するまでの7年間の消息はよく分らない。空海は優婆塞(=在俗の信者)的な修行者であったが、当時、佐伯今毛人一族の氏寺であった奈良の佐伯院や大安寺、東大寺とかかわりを持っていたと思われる。
 つまり延暦17年から21年までは、奈良仏教の研鑽と修行を行なっており、その最後には、ある程度の密教の知識にたどり着いていたと思われる。

●空海入唐
 空海は大使藤原葛麻呂と同じ遣唐船に、留学生として乗り込み、延暦23(804)年8月10日、福建省についた。一行はその後、苦難の旅を続けて、12月下旬に長安の都についた。空海は、在唐中にインド僧般若三蔵から梵語と南インドのバラモンの哲学をはじめ、目に触れる限りのものを貪欲に学んだ。
 特に、大広智三蔵の弟子であった恵果から、真言密教の伝授を受けたことが大きな収穫であった。

 当時の留学僧は20年間在唐して修行する事が義務付けられていたが、空海は僅か2年で切り上げて、大同元(806)年10月、勝手に帰国する。
 そして大同4年までの3年間、筑紫の太宰府に居住して請来品の整理や密教流布の準備をする。
 彼が請来した経典類は夥しい量であり、しかも最新の貴重なものであった。都を離れた太宰府に身を置き、「請来目録」を朝廷に献上して様子を見ていたと思われ、極めて要領の良い学僧の一面をもっている。

●真言密教の創始と体制・反体制事業の推進
 空海は、弘仁元(810)年11月1日より、京都の高尾山寺において国家護持のための修法を行なった。9月に薬子の乱が鎮圧されたばかりのときであり、しかもここでの国家護持は奈良仏教のそれとは違い、密教における密厳浄土の建設を理念とするものであった。

 密厳とは、秘密荘厳の意味であり、大日如来による絶対の悟りの世界をさすものであった。さらに、弘仁3(812)年11月15日と12月14日に胎蔵界と金剛界の灌頂壇を高尾山寺で開き、このときに最澄が空海から灌頂を受けている。つまり、密教においては最澄が空海の弟子ということになる

 最澄は、在唐期間が短期であったために、密教についての情報収集が乏しいままで帰朝していた。そのことは最澄に大きなコンプレックスとして残ったようである。
 最澄は、唐に残って密教の学問を修得した後輩の空海に弟子入りしてまで密教を学ぼうとした。
 また空海が請来した経典類の借用をたびたび申し込む。そのことから空海は、最澄を避けるようになり、最終的には両者の関係は断絶に追い込まれた。

 空海は弘仁7(816)年6月、紀州高野山を真言密教の修行のための根本道場として賜りたいとする上奏文を天皇に差し出し、7月に勅許を得た。
 高野山開創の目的は、一つは国のため、いま一つは修行者のため修禅の一院を建立するためであった。
 それは、少年の日に高野山を訪れた思い出をつづった、「高野雑筆集」所収の書簡に見られる。そこには、かつての山岳優婆塞として出発した空海の若き日の姿を見ることができる。

 弘仁14(823)年1月、平安京の官寺として建立されていた東寺が空海に給豫された。そしてこの東寺を通じて、空海の鎮護国家の根本道場としての活動が始まる。
 ここから空海における律令制、反律令制の矛盾した2つの活動が、並行して始まることになる。

 空海の場合、その矛盾した2つの活動は、当時の平安官人と交際して追善法会を行ない、密教の造像・造画やマンダラの作成を行なう半面で、弘仁12(821)年から始まった四国讃岐における満濃池の修築など、衆生救済の事業を進めていることに見られる。

 天長5(828)年、東寺の東隣にあった邸宅の一部の提供を受けて、綜芸種智院という学校を開設した。これは日本で最初の庶民学校である。当時、貴族のための学校はすでにいくつかはあったものの、このような貧しいものの学校は他に類例を見ない。この「綜芸種智」とは、この世のあらゆる学問芸術は、すべて真言密教の教主である法身・大日如来の絶対智の表れとする、根本理念を表わすという言葉からきている。

●空海入定
 天長9(832)年8月22日、高野山で万灯万華会が行なわれた。この頃には、空海は活動の拠点をすべて高野山に移していた。
 万灯万華会は、生きとし生けるものの幸福と繁栄を祈念するための儀式である。更に、承和2(835)年正月、7日間をかけて宮中で正月の御修法(みしゅほう)が行なわれた。これは鎮護国家の理想への念願をかけたものであった。
 この2つの大きな行事を無事済ませて、835年3月21日、空海は高野山で入定した。




 
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