(7)明正天皇と後桜町天皇
奈良時代から長い間見られなかった女性天皇が、江戸時代になって再び登場した。
しかしここでは古代天皇制と基盤が大きく変わっているため、女帝の登場した理由も全く変わっている。
●明正天皇と紫衣事件 ―抗議の女帝誕生
寛永4(1627)年7月、京都で宮廷、政界、宗教界に大きな衝撃を与える大事件が発生した。それが紫衣事件である。
幕府は以前から主な寺院の出世入院、香衣、紫衣、僧侶の任官昇進などの勅許について、あらかじめ武家伝奏を通じて幕府に申告し、許可を得る事を定めていた。
しかしこの規制は朝廷側から無視され、従来の伝統に従がった綸旨による勅許により、京都の主な禅寺における出世入院が行なわれていた。
是に対して幕府の宗教行政を担当する南禅寺の金地院以心崇伝が、老中・所司代と協議して、元和以降に幕府を経由せず、勅許だけで授けた五山・十刹の紫衣入院出世と浄土宗の上人号授与の無効を宣言し、元和元年以降の綸旨を京都の寺院から没収するという措置に踏み切った。
つまり幕府の権威と朝廷の権威が、真っ向からぶつかるという大事件が起こった。
大徳・妙真の両寺では、硬軟両派に分かれて紛糾したが、穏健派は寛永5年11月、幕府に詫び状を提出した。しかし強硬派は、幕府に連名した激しい抗議状を提出した。
怒った幕府は、強硬派の大徳寺の沢庵宋彭らを流罪にするという事件に発展した。この幕府の措置に抗議した後水尾天皇は、11月8日、突然帝位を輿子内親王に譲ることを表明された。これが明正女帝の誕生した理由である。
●後桜町天皇 ―最後の女帝
江戸時代の最後に誕生した女帝は、後桜町天皇(1740−1813)である。
その経過は、1762年7月に桃園天皇が崩御され、後継天皇は桃園天皇の第1皇子であるが、皇子の年齢が、まだ4歳であまりにも幼なかった。
そのため桜町天皇の第2皇女であった智子内親王が、明正天皇の故事にならい、後桜町天皇として即位された。
桃園天皇の第1皇子は、その後、1770年に受禅、翌71年4月に13歳で後桜町天皇に続く後桃園天皇として即位された。
そのようなわけで後桜町天皇の女帝としての即位は、直接的には政治問題と関係はない。しかしこの時代に、朝廷と幕府の間の関係は、既に騒然としはじめていた。
桃園天皇の1758年には宝暦事件で竹内式部が逮捕されており、さらに後桜町天皇の1767年には、山県大弐、藤井右門が死刑、竹内式部が流刑になるという明和事件が起こった。この対立は、幕末に向かって拡大していった。
|