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日本人の思想とこころ
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  (4)いろいろなフシギ空間

 古代史における最大級のフシギ空間についていろいろ見てきたが、2000年にわたる日本歴史のなかのフシギ空間は、その他にも限りなく存在している。
 その中のいくつかを取り上げてみよう。

●フダラク浄土
 西方、十万億土という遠いところにアミダ如来の極楽浄土がある話は、仏教を知らない人でも知っている。しかしその他にもいろいろな仏教関係の浄土が存在していた。その一つが、観音菩薩のフダラク浄土(Potalaka,補陀落)である。

 華厳経(68、入法界品)には、「南方に山あり、ホダラカと名づく。そこにボサツあり、観自在と名づく」とある。
 観音菩薩は、あらゆる苦難から人間を救う仏であり、インド、中国でも南の海にその浄土があるとされてきた。たとえばインドでは、南海(インドの南海岸)の補陀落山にあるとしているし、中国では、舟山列島を補陀落山としている。
 またチベットでは、チベットそのものを観音浄土としており、ダライ・ラマはその化身であると信じられてきた。

 観音菩薩のフダラク浄土は、日本各地の南方の遠くへだたった海上にある浄土である。そのため、多くの人々、さらには神様までがこの地を求めて船出した。その記録が今昔物語にある。(今昔物語13、第34話)
 船出といっても、大型の外洋船でいくわけではない。棺おけのような小さな箱に一人入り、外から釘を打ち付けてもらって船出する。船出には北風の日が撰ばれ、箱の中には僅かな油火と食糧を入れる。何十日、何百日かかるか定かではないが、長い間かかり自然にフダラク浄土に漂着するといわれる。
 無事に着いたら、自分で中から蓋を開けると、そこが観音菩薩のフダラク浄土である。そこから再び、無事に日本に生還した話も残されている。

 フダラク渡海の出発地点は、全国的に分布しているが、紀伊半島最南端の熊野が代表的なものであり、その他にも、四国の足摺岬、館山市那古を始め、日本の太平洋に面した海岸の多くがフダラク浄土への入口と考えられていた。
 チベットと似た山の中のフダラク浄土が、日光の二荒山(ふたらさん)である。
 「日光山沿革略記」によると、日光山は天平神護2年(766)に勝道上人が、二荒山内に西本龍寺を創建したのに始まる。さらに上人は二荒山の山腹湖北の地に立木観音を手刻みし、中禅寺を創建した。そこでは中禅寺湖が南海ということになる。 

●アミダ浄土
 フダラク浄土が南海の果てにあるのに対して、アミダ如来の極楽浄土は西方10万億土という遠いところにある。しかしこの気の遠くなる遠い地を求めた渡海も行なわれた。その出発地点の一つとなったのは、大阪の四天王寺である。

 大阪の四天王寺(荒陵寺:あらはかでら)は、聖徳太子創建説のある日本最古の寺である。その創建伝説が記載された「荒陵寺御手印縁起」が世にでた11世紀頃から、四天王寺の西門は「極楽浄土の東門にあたる」という新しい浄土信仰の霊場となった。ちなみに当時の四天王寺の西門は、浪速の海に面して立っていた。

 藤原頼長の「台記」によると、極楽浄土の東門に面するといわれた四天王寺の西門の付近には念仏所ができて、当時有名であった出雲上人という僧が、念仏集団を組織し、百万遍念仏を高声に唱えて、共に往生を期したという。
 「拾遺往生伝」には、金峰山の僧永快が、治暦の年中(1065-1068)の8月彼岸の頃に、天王寺に詣で一心の念仏して百万遍におよんだ。
 その後、私物を弟子に分け与えて、夜中に房を出てひとり高声念仏を唱えながら西へ向い、入水往生した話が記録されている。(「拾遺往生伝」巻下4)

 また別書には、叡山の僧・行範上人が、大治年中(1126-1130)に四天王寺で7日の断食の後、衣の袖に砂を入れ、一心に念仏入水した記事がある。その時「調具音楽、方舟合奏、正修念仏」して亡くなった。そして、同行者には都率天の内院に生まれたという夢告があった。(「本朝新修往生伝」11)

●浦島太郎の蓬莱山と常世国 
 浦島太郎の話の初見は、「日本書紀」の雄略天皇22年7月条である。そこには次のように書かれている。

 秋7月に、丹波国の余社郡管川(現在の京都府与謝郡伊根町筒川)の人である瑞江浦嶋子が、舟に乗って釣りをしていた。そうすると大亀が釣れて、それがたちまち女となった。そこで、浦嶋子は心が高ぶって妻とした。あいしたがって海に入り、蓬莱山(とこよのくに)に至って、仙衆をめぐり見て歩いた。この話は別巻にある。(「日本の名著 日本書紀」中央公論社、286頁)

 浦島太郎が亀に乗って行った蓬莱山のある常世国は、スクナヒコナ神が最後に行った仙境である。この日本書紀の話と同じ話が、「丹後国風土記逸文」に収録されている。
 浦島太郎の出身地の与謝という地名は沖縄にも多く、南海の楽園ニライカナイとの繋がりを感じさせる。丹波、丹後には、南方とのつながりがある地名が多いが、これもその一つである。
 ここでいう「別巻」の意味はよく分からないが、浦島伝説は、万葉集巻9の1740にも、高橋虫麻呂の長歌として登場している。
 そこでは大亀は登場せず、海神の娘に会い、神の宮へ行った話になっている。
 そして誰でも知っているように、そこから帰ったら既に家は無くなっていた。
 そして開いてはいけないといわれた箱の蓋を開けてしまったため、一挙に老人になり死んでしまった、と歌われている。

 浦島伝説については、高木敏雄氏の「日本神話伝説の研究」に詳細な研究がある。それによると、シナ神仙説の蓬莱山の神女が日本に移動して固定したものとされており、万葉の長歌が原始の説話に近いものと考えられている。
 しかし私にはどうもこの話がしっくりこない。その理由は、シナ神仙説の蓬莱山は南の海の中にあるはずなのに、それが何故、丹後国という日本列島の北側に位置する日本海側の伝説として出てきたのであろうか?

 これが太平洋岸における静岡県の美保の松原とか、四国の高知、鹿児島県の大隅の海岸などが舞台であれば、非常に納得できるし、浦島伝説の発祥の地が沖縄であればさらに納得できる。
 浦島伝説について、私と同じような疑問を持った方もある。例えば、松田修氏の「日本逃亡幻譚」(朝日新聞社)には、「私たちの浦島イメージは、みな南海のイメージであり、・・・むしろ、丹波という設定こそ異様であるのかも知れぬ。」と書かれている。全く同感である!

 そして同書には、太平洋岸の浦島遺跡のケースが紹介されている。それによると、曲亭馬琴の「夢想兵衛胡蝶物語」には、太平洋岸の仮名川(神奈川)の浦島塚が舞台になっており、「丹後国水之江」生まれの浦島は、そこでは神奈川生まれになっている。
 ふざけた馬琴は、「われ(浦島自身)も知らねども、仮名川は、わが生まれし郷なりとて、西蓬寺に塚を築かれ」たと語る。
 つまり浦島伝説の竜宮城はどうしても南の海でなければ、シナ神仙説における蓬莱山のすじが通らなくなると私は考える。

 また谷川健一氏の「常世論」(平凡社選書)では、万葉集巻9の「常世国」は、高橋虫麻呂の出自が藤原宇合の属官であり、「常陸風土記」の編纂に関与していたことから、常世を「常陸国」とされており、浦島伝説の竜宮城は太平洋の中と考えられている。

●山上の仙境 ―吉野
 浦島伝説の常世が海上の仙境であったとすれば、もっと近い吉野の地は、古代の都人にとって身近な深山渓谷であり、千女の遊ぶ山上の仙境であった
 そこには古くから天皇の離宮がつくられており、日本書紀の初見では、応神天皇19年10月の「吉野の宮に幸す」という記事があることから、4世紀には吉野宮が既に存在していた可能性がある。

 古事記の雄略天皇の条は、異事奇談が多いが、その一つに天皇が吉野川のほとりで見初めた乙女を伴い吉野宮に遊幸したとき、自ら弾く琴に合わせて舞う乙女をめでて、「呉床座(あぐらい)の、神の御手もち弾く琴に、舞する女、常世にもがも」と詠嘆した話が記されている。

 この話は11世紀には、高唐神女が吉野宮の天武天皇の前で舞ったという伝説(「政事要略」)となり、さらに、宮中の重要な儀礼のひとつである「五節の舞」の起源とされるまでになっている。
 このことは古代の朝廷において、吉野を神仙郷として信仰する思想が古くから形成されていたことを示している

 神仙郷としての吉野の地は、万葉集をはじめとする歌集に数多く取り上げられた。
 そして、吉野川を流れてきた柘の枝を取り上げたら、それが仙女となって仙境へ導かれたという伝説が、「万葉集」や「懐風藻」にいくつか歌われている。
 「懐風藻」においては、吉野に関する17首の殆んどすべてが、吉野を神仙境として歌っているほどである。

 神仙境としての吉野は、天武・持統天皇のときに最盛期を迎えた。持統天皇によって造られた藤原京の中心を南北に貫く線は、「聖なるライン」と呼ばれる聖域である。藤原京の朱雀大路をまっすぐに南下すると、天武・持統天皇を合葬した檜隈(ひのくま)大内陵、持統天皇の孫の文武天皇陵といわれる中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳が一列に並んでいる。

 特に天武・持統天皇は、道教の神仙思想を強く意識した天皇である
 道教では南方の山上には、死後、神仙となるための訓練道場としての『朱宮』があるとしており、それが吉野の山と考えられていた。
 檜隈大内陵は、将に『日の隈の天皇の陵』であり、死後に吉野山の朱宮で特訓を受けた天武天皇は、神仙となって東の東華宮へ移る。
 その東華宮こそが伊勢神宮であった。それを裏付ける歌が万葉集162にある。

 それは持統天皇7年9月9日、天武天皇崩御の日の夜、持統天皇が、故天武帝はすでに伊勢国に移られたことを夢に見た、という歌である。それは故帝が、神仙となって東華宮へ移られた証拠であり、うらやましいことである、という歌である。
 藤原京の聖なるラインをさらに南下すると、吉野の山々がある。この宮は、天武、持統天皇にとって生前から仙境であった。
 そのため天武天皇は、生前、この仙境の吉野宮へ30回を越す行幸を行い、持統天皇はなんと51回の行幸を繰り返している。

●最高の吉地は都の北極? ―北闕制
 古代における都の適地は、「四神相応の地」が理想とされてきた。「四神相応の地」とは、北に山があり、南に池や湖がある。東に川が流れていて、西に広い道が通っているという地形の土地のことをいう。

 古代から現代にいたるまで、都市計画は基本的にこの法則に従って行なわれてきた。また個人の邸宅も、貴族や武将など権力者の邸宅の立地は、この法則に従って土地が選択されてきた。
 この土地を守る「四神」の成立は非常に古く、高松塚古墳の壁画として描かれていることが広く知られている。四神とは、北に玄武、東に青竜、南に朱雀、西に白虎というように、四禽を東西南北の方位に対応させたものであり、中央の黄土を入れると、五行に対応することになる。

 東西、南北の方位のどれを尊重するかは、古来、一定していたわけではない。日本では、奈良時代になっても、太陽信仰から抜け出せず、太陽の道筋である東西軸を尊重していた。
 ところが中国では、太陽は季節や時刻に応じて常に位置を変えるため、最高者は、その位置を変えないとする観点から、宇宙における最高神を「太陽」から「北極星」に移した。

 天体は、不動の北極星の周りを回転している。このことから不動の北を最高の方位として、天上では北極星、地上では天子をそれに当てはめた
 そこで都つくりに当たっても、都市の北端に山手を背景にした宮城を置き、南に家来や商人の町をつくり、さらにその南に海や湖、東には川が流れ、西にはその都と地方を結ぶ道路が通る、という都市モデルを作り出した。
 これは「北闕制」と呼ぶ。しかしこの方式は、隋唐時代以降のものであり、それまでの「周礼」などに登場する中国の都市は、町の中央に宮城があり、北側に市がある「前朝後市」制であった。

 この観点から古代日本の都市を診ると、藤原京、平城京、平安京など、すべて隋唐時代の中国の都市モデルに当てはめて造られていることが分かる。
 近世になって造られた城下町も、それが基礎になっている。日本の現代の地方都市もこのモデルに従って造られている場合が多く、たとえば江戸−東京のように、地形の制約から東西南北が偏心して造られている場合もある。
 そのように考えると、現代の日本における都市モデルの基本は、古代に作られていたことになる

 この北を貴地とする「北闕制」は、滝川政次郎氏によると北魏から始まるもので、隋・唐の北辰信仰と天命思想が背景になり定着していった。北は12支の「子」、つまり始まりである。易の先天易では「坤(こん)」、つまりすべての出発点の方位である。また後天易でも「坎(かん)」、つまり万物の帰するところとなる。
 洛書・九星でも、北は1で出発点の位置となる。平城京から平安京を通じて、北には玄武に相当する神山が配置された。京都の鞍馬山などがそれである。
 
 京都の北の神山・鞍馬山の由岐神社の祭神はオオムナチ神、つまりオオクニヌシ神である。それはあまり驚くことではない。比叡山の地主神もオオクニヌシ神であり、京都の北部一帯はオオクニヌシ神の支配地域であった。
 そのため「鞍馬」には、「闇魔」、「暗間」などの字が当てられることがある。古来、鞍馬には「魔王尊」や「天狗」が住むと恐れられており、現代の鞍馬はそれから町を守るために「護国魔王尊」が祀られている。

 現在、鞍馬寺の本殿には魔王尊、毘沙門天、千手観世音菩薩の三尊が、三位一体として祭られている。昭和24年に天台宗から独立して単立の宗教法人となった鞍馬弘教では、この三尊を一体として本尊とした。
 この鞍馬山のフシギ空間については、鎌田東二「場所の記憶」岩波書店に詳述されている。






 
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