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日本人の思想とこころ
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  (3)国一揆・変質する一揆 2

●一向一揆とは?

 一向一揆とは、15世紀後半から16世紀末にかけて、戦国期の加賀・能登・越中までの日本海側から始まり、その後、摂津、奈良、三河、長島など太平洋側にまで広域に展開した、一向宗(=浄土真宗)・本願寺坊主・門徒による反大名闘争である。
 一向一揆が盛んになったのは、蓮如が越前吉崎御坊を拠点にして布教を始めた文明3(1471)年、越前加賀で起こった一向一揆からである。

 ここでいう「一向宗」とは、時宗も含む浄土真宗の俗称である。その名称は鎌倉時代の末期の、一遍上人の時宗とは別系統の時宗の遊行僧の、一向俊聖の名からきたものと思われる。
 一向上人は、時宗12派のうち、近江番場蓮花寺を本寺とする一向派の祖であり、同時に時宗12派の一つである、出羽天童の仏向寺を本寺とする天童派の祖でもある。

 本来は、一遍の念仏宗が「時宗」、一向俊聖の念仏宗は「一向宗」と呼ばれていたものと思われる。しかし一遍も一向も同時期における念仏宗の僧であり、共に遊行僧として類似していた。そのため早くから両者は混同されたのであろう。
 蓮如までが「夫、一向宗と云、時宗の名なり、一遍一向是也。其源とは江州ばんばの道場、是則一向宗なり」(帖外67)と述べているほどである。
 ここでいう「江州ばんばの道場」とは、一向上人の道場であり、蓮如自身が、時宗と一向宗とを混同していることが分かる。(cf、家永、赤松、圭室監修「日本仏教史 U」法蔵館、143頁)

 蓮如上人でさえ時宗と一向宗を混同するほどであるから、外部の人々が時宗も浄土真宗も「念仏宗」の多くをすべてひっくるめて、「一向宗」と呼ぶのも仕方のないことである。このようなことから蓮如の本願寺門徒が中心になった一揆は、なべて「一向一揆」と呼ばれるようになったと思われる

 またここでいう「一揆」という言葉から、現代の人々は多分、江戸時代の「百姓一揆」における「莚旗に竹槍の一揆」をイメージすると思われるが、それと室町時代の『一揆』とは本質的に異なる。
 応仁の乱当時における『一揆』は、守護大名と対等で戦う能力をもつ組織的な軍事集団であった。その意味で、守護大名と一向一揆は、ある意味では対等の組織であることを我々は知る必要がある。

 なお本願寺派では、外から付けられた『一向』という名を嫌っていた。そこで江戸時代には一向宗の名を廃して浄土真宗にすることを幕府に願い出て、浄土宗側と宗名相論を起こした。しかしその念願がかなって、一向宗を廃して浄土真宗と公称されるようになったのは、なんと明治5(1872)年のことである

●蓮如上人と本願寺派の発展
 ▲蓮如の出自
 一向一揆を語る前に、その母体となった浄土真宗の本願寺派と、それを確立した蓮如上人について語る必要がある。
 親鸞は、生前に「弟子一人持たず候」(歎異抄)といっており、教団をもつ考えは全くなかった。しかし、皮肉なことには、親鸞の死後に大教団が形成されて現在に至っている。その中心をなすものは本願寺派であり、それを確立した人は蓮如上人である。

 浄土真宗の開祖・親鸞(1173−1262)の死後、まず関東を中心にした門徒の小集団が活動を始めた。それらは下野の高田を中心に形成された高田・横曽根門徒、常陸国鹿島を中心にした鹿島・大綱門徒などであり、活動の拠点は関東にあった。
 是に対して関西に本願寺派を確立して、近畿から北陸、東海にかけて広く浄土真宗の拠点を移したのは蓮如の功績であり、その蓮如の活動をささえたのが「一向一揆」であった

 蓮如覚寿(1415-1499)は本願寺・第7代法主存如の子として、存如に仕えた身分の低い女性との間に生まれた。この母は、正妻がきた蓮如6歳のときに姿を消した。
 正妻の蓮如に対する警戒は厳しく、そのため蓮如は部屋住みの寂しい少年時代を送ったという。この当時の京都大谷本願寺は、規模も小さく非常にさびれており、京都では渋谷(しるたに)にあった仏光寺派が繁盛していた

 蓮如の思想形成は、赤貧洗うが如きこの本願寺の片隅で作られた。長禄元(1457)年、蓮如が43歳になったとき、父の存知が62歳で亡くなり、突然、本願寺法主の地位が蓮如の元にくることになった。
 ところが当時の本願寺の状況はまさにドン底にあり、あるものは「ただ1尺ばかりの味噌樽一つと代物百疋」(拾塵記、実悟記)というのが蓮如の出発であった

 ▲本願寺派の発展
 蓮如の布教活動は、「御文」(=蓮如自身が念仏の救いを易しく説いた教本:御文章)を片手に、京都を中心にして近江国一帯、北陸、近畿の諸国に及んだ。
 この蓮如の生涯を通じての活動により、参詣の人一人見えなかった本願寺は、あたかも仏国といえるほどの大教団に発展した。(日本思想体系 続日本仏教の思想「蓮如 一向一揆」、解説、590頁)

 最初に蓮如の支えになったのは、近江国堅田の本福寺の法住であり、彼らが本願寺の最初の門徒になった。しかしここは早速、応仁3(1469)年正月に、延暦寺の山門宗徒の攻撃を受けた。
 このとき堅田門徒は、山門勢力を向こうに回して善戦したが、遂に堅田をすてて奥の島に逃れ、文明2年には山門に礼銭をだすことで元に戻ることができた。
 この堅田本福寺の帰参を契機にして、近江国一帯に本願寺門徒がみられるようになった。

 このような本願寺勢力の増大に脅威を感じた延暦寺は、既に寛政6(1465)年から、山門宗徒を使って大谷本願寺を破却するという弾圧に乗り出していた
 そのため蓮如は、京都周辺における門徒の拡大を一時中断して、文明3(1471)年4月に、堅田門徒に見送られて、布教の地域を北陸に移した
 そのための拠点として、同3年7月に、越前国坂井郡吉崎に布教のための道場か作られた。これが「吉崎御坊」であり、本願寺派の北陸進出における最初の拠点となった。

 この吉崎御坊の建設に併行して、加賀、越中、越前における坊主・門徒の出張所ともいえる「他屋」(=多屋とも書く)が、吉崎に100-200軒も軒を並べた。
 北陸の道場坊主たちは吉崎に他屋を設けることにより、吉崎に集まる門徒を吸収し、蓮如を中心にした組織を作り上げていった。
 吉崎山頂には、南大門、北大門をもつ一大寺内町が出来上がり、吉崎に参集する門徒は、その数数万という盛況が作り出された。

 ▲本願寺門徒にとって「一揆」とは?
 我々が「一揆」と言う言葉を使う場合、どうしても『莚旗と竹槍』により領主に決死の請願を行う、江戸時代の百姓一揆をイメージしてしまう。
 しかしこの江戸時代の百姓一揆は、室町時代における一揆とは全く異なるものである。その最も大きな相違点は、江戸時代の「一揆」は、その組織が領主の統治機構に組み込まれていることにある。
 これに対して、室町期の『一揆』の組織は、守護大名の組織に組み込まれているとは限らない。仮に組み込まれていても、その独立性は高く、領主に対して互角で戦争が出来る軍事力を持っているのが普通であった。

 江戸時代の百姓一揆は、自分たちの年貢を納める領主に対して、一揆を起こして年貢の減免などを願い出た。
 つまり日ごろ、組織として隷属している藩主に対する百姓たちの抵抗の手段が一揆であり、力関係は圧倒的に藩主の権力の方が強かった。
 これに対して室町時代の土一揆、国一揆、一向一揆などにおいて、地侍、国人、僧、百姓たちによって作られる一揆の組織は、基本的には守護大名と対等の独立した組織であり、それに相応する軍事力を持っていた

 またそれが宗教組織であっても、他の組織から攻撃された場合に、反撃して勝つことの出来る軍事力を持っていなければ、応仁の乱で象徴される無政府的な動乱の中を生きぬくことはできなかった。
 そのため当時の宗教組織は、すべて武装していた。たとえば奈良、京都の寺院の僧兵たちはまさに軍事組織そのものであるし、他の宗教組織へ軍事攻撃を行う事も、僧兵たちの仕事の一部であった。

 このような軍事組織を持たない宗教組織は、相当の費用を払って他の宗派の軍事組織に守ってもらうしか仕方がなかった。実際に蓮如の本願寺派も、比叡山の僧兵たちや日蓮宗の僧たちの軍事攻撃を何度も受けてきたのみか、同じ浄土真宗の他派の軍事攻撃を受ける事さえ、珍しいことではなかった
 現に本願寺派は、同じ浄土真宗の高田派の攻撃を何度も受けている。
 これらの外部からの攻撃に対して、本願寺派の造った軍事組織=軍隊が、「一向一揆」であると考えると分かりやすい。

 ▲蓮如上人の実務・軍事マネジャー=「一向一揆」の大将・下間蓮崇
 このような点で、吉崎道場において蓮如の側近として辣腕を振るったのが、下間安芸法眼蓮崇、つめて下間蓮崇(しもつまれんそう)である。
 この人物に興味を持つ人は非常に多い。岳宏一郎氏が「蓮如 夏の嵐」(講談社文庫)という小説で蓮如に次ぐ準主役に設定されているし、真継伸彦氏が、応仁の乱から蓮如の死までを当時の民衆の生活に視点を置いて描き出した「鮫」、「無明」(ともに河出文庫)という作品で、蓮崇を主人公に据えられている。
 また岩波版「続・日本仏教の思想4 蓮如・一向一揆」の『蓮如上人御一代聞書』の補注(541頁)にも、詳しい彼の経歴が載せられている。
 インターネットにおいても多く取り上げられていて、知る人ぞ知る日本の中世における有名人である。

 下間蓮崇(1435-1499)は、蓮如上人の片腕として、実務面で悪く言えば、『汚れ役』を一手に引き受け、初期の吉崎御房で本願寺教団を盛り上げた人物である。
 特に教団と一向一揆との関係における彼の役割は非常に大きい。岳宏一郎氏は上掲の著書の中で、文明6年の一向一揆での下間蓮崇の役割を、本願寺門徒軍1万数千の大将とされ、そして蓮如の4男・蓮誓を副将とされている。

 下間蓮崇は、越前・麻生(浅水:現在の福井市)の出身といわれ、7歳で越前和田本覚寺の小僧となり心源を名乗った。さらに、長禄4(1460)年、加賀二股本泉寺の後を継いだ。
 応仁2(1468)年、蓮如と会って彼の弟子となり、東国を一緒に旅して蓮崇という名を与えられた。文明3(1471)年7月に蓮如が越前吉崎に進出し道場を建てたとき、蓮崇も吉崎へ移り、蓮如の奏者(=連絡役)となった。
 
 そこから蓮崇の活躍が始まったが、彼の姓の下間氏は、本願寺の家臣として知られる下間氏とは関係がないようである。
 「御文」の集録者ともいわれるが、もと一文不通の文盲であった。それが昼夜、学問・手習いをして蓮如に認められ、本願寺の家宰・下間の姓を与えられたという。
 本願寺の吉崎御坊の発展とともに、かれの実務の仕事も繁盛して、下間蓮崇の吉崎の居館前には土蔵が13棟も建ち、一門は繁栄して数百人の被官をかかえたともいわれる。
 
 仕事を通じて下間蓮崇の権力者に対する人脈は広がり、朝倉孝景(敏景)にも接近して一門としての待遇を与えられ、本願寺教団の実務的、武力的側面を代表する豪族となった。
 さらに、上洛して足利義政の被官となり、塗輿・毛氈鞍覆・唐笠袋の使用を許され、守護代の格式を与えられ、蓮如も蓮崇を法橋に任じた。

 蓮崇の第一の仕事は、蓮如の下で、一向一揆をまとめ武装闘争を成功させることであった。その最初は、蓮如の吉崎進出を待って始まった、文明6(1474)年の「文明一揆」である。

 ▲文明6-7年の一向一揆と下間蓮崇
 文明6(1474)年の一揆は、応仁の乱の前後から始まった一向一揆の最初のものである。このとき、一揆が関わった紛争は、加賀の守護大名・富樫政親と弟の幸千代との間の国とりをめぐる権力闘争であった。
 この紛争において、幸千代の側には真宗高田の専修寺門徒がつき、富樫政親の側には本願寺門徒がついた。
 このことは守護大名の権力闘争であると同時に、宗教勢力の間の権力闘争であったことを示している。

 文明6年7月26日、加賀の守護大名・富樫政親方には、本願寺門徒の百姓と山川・本折・槻橋・白山衆徒が参加し、一方の富樫幸千代方には高田派の土民と守護代・額熊夜叉、沢井、阿曽、狩野伊賀入道が味方して決戦が始まった。
 応仁の乱において富樫兄弟が東西軍に分かれて戦ったのに対して、本願寺派と高田派という宗派対立が加わったのがこの戦争であり、一向一揆は大名や国人と同じ軍事勢力としてこの戦争に参加していた。

 「大乗院寺社雑事記」の文明6年10月11日の条には、「加賀国の一向宗の土民、無礙光宗と号す、侍分と確執す、侍分、悉く土民方より国中を払う」と書かれている。10月14日には、加賀の守護大名・富樫政親と本願寺門徒の連合軍は、富樫幸千代の居城である蓮華寺城(能美郡粟津郷)を攻撃した。城は陥落し政親方が勝利を収めた。幸千代は京都に逃れ、11月には、政親は支配地を統一することができた。

 領国支配に成功すると、政親にとって一向一揆の組織は不要になる。そこで早速、守護代槻橋の意見を受けて、一向一揆の弾圧に踏み切った。
 一方、加賀の在所衆は前年の一揆の勝利に浮かれて年貢を納めず、今度は加賀守護の富樫政親を相手にした一揆を、翌文明7年3月下旬に起こした。
 この文明7年の加賀一向一揆の戦闘について詳細は分からないが、一揆方が富樫政親の軍に敗れた。一揆軍は越中へ逃げ、吉崎の蓮如に使者を送って、富樫政親へのとりなしを依頼してきた。

 このとき一揆衆に応接したのは、奏者の下間蓮崇であった。蓮崇は、このときの取次ぎにおいて蓮如の意思を加賀一揆衆に適切に伝えなかった。その結果、加賀一揆衆は6月に再び富樫政親軍に戦いを挑んだが、簡単に敗れてしまった。
 これで蓮如の責任は逃れられないことになり、8月に蓮如は吉崎を離れ、一揆衆も政親の弾圧から逃れるため、国人、坊主門徒の一部は越中に逃げた。
 この再度の蜂起に到った原因は、上人の指令と偽って門徒を再度の一揆に誘導した奏者の下間蓮崇にあるとして、蓮崇は破門された。

 ▲一向一揆のその後 −長享の一揆
 守護大名と一向一揆の勢力は、もともと独立して領国の覇権を目指していた。
 この場合に、当然、一向一揆の勢力の中には、守護大名に対して従順な立場をとる勢力と、守護大名に取って代わろうという勢力に分かれた。
 蓮如の場合は前者、蓮崇は後者の立場である。その上、戦闘に破れたことから、蓮崇は破門になったと考えられる。

 蓮如が去った後の加賀の坊主、国人、農民門徒衆たちは、急転直下、蓮如とは異なる後者の立場をとるようになり、加賀一国の一揆軍による支配権の確立に向って歩み始めた。
 富樫方は一刻も早く、加賀の一円領有化を実現したいわけであり、両者の対決は不可避であった。

 一向一揆方の勢力は、文明18(1486)年頃には、もはや富樫が将軍の力を借りても、押さえられないほど強くなっていた。このような状況の中で将軍・足利義尚は、長享元(1487)年9月、当時、荘園制の破壊者をもって知られた近江の佐々木六角に対する征討の軍を起こした。
 この大時代的な出陣に従う守護大名は、もはや殆んどいなかった。しかし、そのわずかな中に、加賀の守護大名の富樫政親がいた。それは将軍への人気取りであったと思われる。

 これに対して、一向一揆側は富樫の一族で政親と対立する富樫泰高を大将として、政親に武力対決を挑んだ。当時の加賀の土民(=豪族たち)は専修念仏に帰依して本願寺教団の一員となることにより、年貢を一切納めず党を結び、群を分けて、一揆の『組』=『与』を結成していた。
 つまり本願寺教団による「国」が形成されていたわけである。この一向一揆が加賀で勃発したため、驚いた富樫政親はただちに帰国し、長享元(1487)年12月、高尾城に篭って一揆と対決した。
 
 翌長享2(1488)年6月、20万(「蔭涼軒日禄」)という一向一揆の大軍が高尾山城を攻撃した。将軍義尚からは越前の朝倉貞景に政親への援軍の要請が出されたが、6月9日、高尾山城は落城して富樫政親は自刃した。
 このことにより加賀は「百姓ノ持タル国」、つまり「一向一揆の国」になった。

 このような一向一揆は、蓮如が最も憂慮していたことであった。このとき京都郊外の山科の本願寺にいた蓮如は、一揆の行動を強く戒め、そのための「お叱りの御文」が、多く残されているが、一向一揆は自らの論理で進み始めていた。
 他方、富樫政親を滅ぼした三山の大坊主と他の一向宗坊主とのあいだに主導権争いが始まり、享禄4(1531)年の錯乱となったが、結果的に三山の大坊主と、これに結びついた土豪は没落し、本願寺直参衆を中心にした大名領国制に近い本願寺体制が完成した。つまり一向一揆による本願寺王国が出来上がった。  






 
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