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  (3)キリスト教布教の成功と弾圧の始まり 1

●キリシタン大名・大村純忠と長崎開港
 ▲日本で最初のキリシタン大名
 天正10(1582)年、日本におけるキリスト教徒の数は、12万人を数えた。その約半分の6万人は、大村領の信徒であったといわれる。このように日本最初のキリシタン大名としての大村純忠の影響は大きい

 肥前 大村の領主・大村純忠(おおむらすみただ:1533-1587)は、肥前の戦国大名・有馬清純の2男として生まれた。天文7(1538)年に大村純前の養子となり、大村家の家督を継いだ。

 大村純忠が、キリシタン大名になった理由は、かなり純粋な宗教的動機であったようである。しかし20歳代後半の若い領主が、ヨーロッパからの船と宣教師を迎えて、海外に開いた良港・横瀬浦を持つ大村領の地理的条件を考えると、やはり南蛮船を通じての海外との交易が、キリスト教に興味を持った理由の大きな部分を占めると私には思える。

 南蛮船が大村領の横瀬浦に寄航するようになったのは、永禄5(1562)年頃からである。それまでは平戸が、南蛮船の主要な取引港であった。
 平戸の領主・松浦肥州は、キリスト教の布教に好意的であった。しかし永禄元(1558)年に仏僧の反抗があり、さらにポルトガル人の殺傷事件が起こったことから、キリスト教をきらうようになったといわれる。

 永禄5(1562)年、この平戸に代わって大村領の横瀬浦がポルトガル船の貿易港となった。翌年6月、大村純忠は25人の重臣たちとともに、横瀬浦で洗礼を受け、洗礼名ドン・パルトロメオとなった。この25人のなかに、後に長崎の領主となる長崎甚左衛門もいた。

 領主自身がキリスト教の洗礼を受けたことから、大村純忠は、内外から強い反キリシタンの圧力にさらされることになった。
 まず身近の大村家の中にもキリスト教に反対する勢力は根強くあり、その反キリシタンの一派は、永禄6(1563)年8月17日にクーデターを起こした。そして横瀬浦港を焼却し、破壊するという行動に出た。そのため宣教師たちは、大村領を去ることを余儀なくされた。

 1560-70年代にかけて、大村純忠に対する政治的圧力は、領国の外からも激しくなった。大村に隣接する武雄の領主・後藤貴明は、肥後最大の大名・有馬晴純の2男であるが、純忠に反対する大村家の重臣たちと組んで、純忠とキリスト教の宣教師たちを暗殺する計画をたてた。
 
 また薩摩の島津氏と九州内の覇権を競っていた佐賀の領主・竜造寺隆信は、大村領を自分の支配下におくために、いろいろと大村純忠に無理難題を押し付けてきた。
 そのため純忠は、天正8(1580)年、長崎港、新町6か町、茂木をイエズス会に寄進することによって、長崎港をキリスト教会領とする方策を取った
 さらに、天正12(1584)年には、有馬晴信が浦上村もイエズス会に寄進することにより、長崎はポルトガルの大貿易港に発展する道が開かれた。

 このような大名の所領のキリスト教団への寄進は、統一国家を目指していた秀吉にとっては脅威であり、それが後に秀吉によるキリスト教禁令の最大の動機になったように私には思われる。

 ▲長崎開港と西洋医学の輸入
 長崎の新しい港町は、元亀元(1570)年に純忠とトルレスとの交渉により、ポルトガル船のための港として建設されることになった
 当時の長崎の港は長崎純景の領内であり、農家の耕作が行なわれていた。長崎が大村の配下に立っている関係で、大村家の家臣・朝長対馬を長崎町割奉行として、「六町建て」という町割が行なわれた。

 「六町建て」とは、大村町を中心に、東側に島原町、西側に平戸町、南側に横瀬浦町、外浦町、文知町という6つのストリート制による町割りを行なうものであった。
 この6町に各地から迫害され追放された出身者が入り、新しい港町が完成した。これ以外にも、五島、天草、博多、豊後、山口からキリシタン信者が来住した。

 元亀2(1571)年に6町が成立したころの長崎の人口は、1,500人程度と見られる。長崎純景の鶴城は東北の高台(城の古祉)にあったため、これを中心に城下町を拡充する方法もあった。
 しかし純忠は、この方法をとらず、岬の突端に新たに都市を作った。それは明らかに、それがポルトガルとの貿易を展開する上で最適と考えたことからきたと思われる。
 海上から望見すると、この岬が後背地から長く海中に延び鶴のように見えたので、長崎港は鶴の港とも呼ばれた。

 長崎の宣教師は、最初、ウイレラがあたったが、後にイエズス会修道士アルメイダに代わった。アルメイダは、リスボン生まれのユダヤ系新教徒の家に生まれ、青年期に商業、薬学、医学、特に、外科学の研究を進めていた。
 領主・長崎純景は、自分の土地をウイレラに与えており、これがトーマス・サントス教会として日本における筆頭格の教会となった。
 その付属地には薬草園が建設され、新しい薬草の移植が始まり、当時の植民地医学が移入される最大の基地になった。

 修道士アルメイダの医学業績の一つであるヨーロッパ医学の伝播は、豊後府内から始まったが、アルメイダの影響により長崎に結実した。1583年、アルメイダが病没した年に、日本人キリシタン・ジュスティーノ夫妻がミセルコルディア(教会付属慈恵病院で、当時は慈悲屋という)を設立。さらに付属施設として養老院、癩病院、一般病院を含む7つの文院をもった施設を作り、その名声は東南アジアにまで知られ、海外から受診にくる患者まで現れた

 天正15(1587)年6月13日(太陽暦・7月18日)、九州の島津征伐を終えた秀吉は、博多の宿で諸将の所領を安堵した。その博多の宿に、イエズス会宣教師コエリョが長崎から訪問していた。
 ところが秀吉は、突然、長崎,浦上地方の宣教師に対して、6月18,19日付けで20日間の期限付による退去命令を出した
 驚いたコレリョは、秀吉周辺のキリシタン大名にたより、秀吉をなだめようとしたが効果なく、かろうじて20日の期限を、6ヶ月間に延期するにとどまった。

 キリスト教宣教師追放令がはかばかしく功を奏しないことに怒った秀吉は、近畿の教会堂22箇所を破壊し、浅野長政を長崎へ派遣して長崎をイエズス会から没収し、天正16(1588)年4月21日、鍋島直茂を代官として長崎を預ける処置を取った
 ここからイエズス会領時代の長崎は変容を始めることになる。同年閏5月15日、秀吉は長崎の地子銀徴収を免じるが、翌年になると秀吉は小西隆佐を長崎へ派遣して、長崎港の白糸を買い占めてしまうなど、直接干渉に乗り出した。

 天正18年のワリアーノ一行の帰国時、ワリアーノは加津佐コレジオ、セミナリオを禁教令下では危険とし、コレジオを天草河内浦へ、セミナリオを八良尾へ移すことにし、加津佐印刷所、コレジオ、修道院も天草へ移った

 文禄元(1592)年から長崎奉行所が本博多町に置かれ、御朱印船貿易も始まった。このあたりから長崎は、キリシタンだけの町から仏教徒派の貿易商人もいる町に変わりつつあった。







 
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