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日本人の思想とこころ
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  (2)ザビエルとフロイスの日本

●スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルの布教
 フランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、通常はスペイン人と思われているが、もともとはバスク地方のナバラ王国のハビエル城に生まれた貴人、つまりバスク人である。
 少年時代にスペインとフランスの戦争により、一家の栄光は城と共に崩壊した。
 学問を身につけようと考えたザビエルは、パリ大学に学び、助教授になった。
 このパリにおいて、イグナチウス・デ・ロヨラに出会い、その影響を受けて、神に生涯を捧げる決心をした。
 そして1534年8月、パリのモンマルトルでイエズス会の創設に加わり、ヴェネチアで司祭になった後、ローマにおいてイエズス会の秘書を務めた。

 1540年3月、インドへ行く使命を受けて、1541年4月7日、彼の35回目の誕生日にインドへ向けて出発した。インドでは、ゴア、マラバルの海岸の村々、そしてコチンやマラッカがザビエルの宣教の舞台となった。

 1547年12月上旬のある日、ザビエルは丘の聖母教会の結婚式に出ていた。そこへ知人のポルトガル船の船長が、2人の日本人をつれて現れた。その1人のやじろうという男は、鹿児島出身の侍で人を殺して逃亡の身であり、ザビエルとの会見を望んでいた。
 やじろうは、自分の罪の重さから、キリスト教に入信し、ザビエルにより洗礼を受け、パウロ・デ・サンタ・フエと呼ばれるようになった。  
 この頃からザビエルの心は、やじろうの協力を得て、日本における宣教を実現することにに大きく傾斜していった。

 天文18(1549)年8月15日、イエズス会創立15周年の日に、ザビエル、トルレス、フェルナンデス、やじろうの一行8人は、ポルトガル船ではなく、1中国人のジャンクに乗って鹿児島へ着いた。
 ザビエルは、マラッカからポルトガル国王ジョアン3世へ宛てた書簡で、「私たちポルトガル人3名は、日本に行きます」と書いている。
 彼らは全員スペイン人であったが、後のフランシスコ会がスペイン系であるのに対して、なぜかイエズス会は、ポルトガル系という意識が強かったように見える。(結城了悟「日本とヴァチカン」女子パウロ会、18頁)

 コスメ・デ・トルレスは、スペイン人の司祭・イエズス会会員であり、ゴアのサン・パウロ学院において、やじろうにキリストの教えを伝えた宣教師である。
 またイルマン・ジョアン・フェルナンデスは、スペイン、コルドバ出身の22歳、言語の天分に恵まれた修道士であった。

 ザビエルは、鹿児島では城主・島津貴久の歓迎を受け、キリスト教伝道の許可を受ける。鹿児島では、早速、青年ベルナンドが洗礼を受け、やじろうの代わりに、ザビエルの忠実な伴侶となる。
 平戸では、ドウアルテ・ダ・ガマの船のポルトガル人たちがザビエルを歓迎し、領主の松平隆信も宣教の許可を与えてくれた。
 ザビエルは、さらに山口、堺をへて、1551年の初めに京都へ入るが、都は内乱で荒れ果てており、天皇との謁見はおろか、叡山にはいることもできず、再び平戸に帰った。

 ここでザビエルは、布教の方向を変え、大内義隆、大友義鎮など、大名の宣教に重点を移す。1552年、ザビエルは日本を去り、中国の伝道に向い、12月に中国で亡くなる。
 その頃、ザビエルに代わって、1563年に来日するポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが、日本で伝道の意思をかためていた。

●ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの来日と活躍
 ポルトガル人の宣教師・ルイス・フロイス(1532-1597)は、ポルトガルの首都リスボンに生まれた。16歳のときイエズス会に入り、直ちにインドへ向った。
 フロイスは、少年時代に王室秘書庁で働いた経験があるため、文筆の仕事に長じていた。この経験を生かして、ゴアのイエズス会インド管区長のもとで、東アジア各地から届くヨーロッパ向けの報告書を取り扱う係りをした。
 この関係から、日本の事情については来日の前から既に通じていた。

 フロイスは、永禄6(1563)年、西九州の横瀬浦に日本の第1歩を印したとき、31歳であった。彼が来た頃の日本には、まだ2名の司祭と数名の修道士がいるだけの寂しい状況であった。
 司祭の1人はコウメ・デ・トルレスである。すでに年老いて病気がちであり、フロイスを涙で迎えた。その頃は、既にザビエルが日本に上陸してから14年の年月がたっていて、活動の拠点も鹿児島、平戸、山口と移動していたが、どこへ行っても宣教師たちは困難に阻まれ、生命の危険にさらされていた。

 フロイスは、翌年、平戸を出発して上洛の途につき、永禄8(1565)年京都へ上り、正月には、将軍足利義輝に年賀の挨拶に伺候することが許された。しかしこの年、将軍義輝は彼に代わって権勢を振るっていた松永久秀に殺害されるという事件が起こった。
 将軍義輝は先にキリスト教伝道を許していたが、松永久秀はキリスト教を嫌うのみか、キリスト教の天敵ともいえる日蓮宗徒と親しくしており、キリスト教の信徒の迫害に出る事が懸念された。
 将軍・義輝の後ろ盾を失ったフロイスたちは都から追放され、戦国時代の混乱期にある日本の中を、宣教師にも拘らず腰に刀を差し、摂津、河内と流転することを余儀なくされた。

 永禄12(1569)年2月、再度、京に戻る事ができたフロイスは、南蛮の風物に強い関心を持つ織田信長に出会った。フロイスと信長の謁見の取次ぎをしたのは、なんと藤吉郎=秀吉?であったともいわれている。(結城了悟『前掲書』34頁)
 そしてそれから天正8(1580)年に巡察師の通訳として信長に安土で面談するまでの間に、フロイスは18回もの面談を許されることになる。
 この間の永禄12(1569)年に、フロイスはキリスト教を憎む日蓮宗の日乗上人と信長の面前で宗論を展開し、最後に業を煮やした日乗は、刀を抜いて激怒するという一幕を経験した。また京都の町に初めて南蛮寺(=教会)を建築している。
 
 織田信長は、全く神仏を信じない無神論者であった。そのことは石山本願寺や叡山の徹底した攻撃の仕方からも分かる。しかし日本の宗教と対立するキリスト教には少なからぬ関心を持っていた。
 そのことは、天正7(1579)年、イエズス会の総元締の巡察師ヴァリアーノが、日本布教の視察のため来日したとき、親しく会見してもてなしていることから分る。

 この巡察師とは、世界各地に散在するイエズス会の布教地に派遣されて、会の活動が本来の目的にそって効率よく行なわれているかどうか点検する特別司祭のことである。
 布教活動が旨くいっていない場合には、それを報告して変更したり、取り除く権限がこの司祭には与えられていた。今回は、その巡察師ヴァリアーノの最初の来日であった

 天正5(1577)年1月3日に、フロイスは中日本布教長の職をイタリア人のオルガンチーノ師に譲り、兵庫から船で豊後に赴き、大友氏の領内で布教事業に従事していた。
 ヴァリアーノが、天正7(1579)年に来日した際には、フロイスは豊後から戻って通訳を務めている。天正9(1581)年には、巡察師とともに5畿内に赴き、さらに越前まで足を伸ばした。

 巡察師は、翌年日本を離れるが、フロイスは巡察師の命令により、それ以降、日本副管区長付司祭として、「日本イエズス会布教史」の編纂を託される。
 それは「日本覚書」、「日本総論」から始まり、膨大な「日本史」第1,2,3部の編纂に繋がっていくことになる。

 天正10(1582)年に信長が亡くなり、秀吉の政権になってから、イエズス会の通訳としてフロイスは何度も秀吉のところを訪問している。しかし、彼に対しては、信長に対するような愛情や好意は見られなくなる。
 しかし秀吉とバテレンとの友好関係は、天正15(1587)年のキリシタン宣教師追放令が出るまでは非常に良好に保たれていた

 天正15年の秀吉のキリシタン宣教師追放例により、九州に集結したバテレンたちは、国外退去の命令を受けて謹慎したものの、実際に日本から退去したものは1人もいなかった。
 フロイス自身も、「日本史」のほかに、「日本年報」の執筆を続けており、65歳で長崎に亡くなるのは、宣教師追放令より10年も後の1597年7月8日(慶長2年5月24日)、秀吉が死ぬ1年前のことであった。






 
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