(6)日本における禅宗の歴史
●ダルマはなぜ東へ向ったのか?
特に臨済宗では、座禅をするとき「公案」という問題が各人に与えられる。その一つにこの問題がある。ダルマ=菩提達磨の思想は、インド、中国をわたり、日本に渡ってきた。それは何故か?ということである。
この公案は映画にまでなったことがあるが、知ったかぶりの知識を披露しても、公案のテストには絶対に合格しない!
禅宗は、6世紀のはじめに南インドから中国へきた菩提達磨(ボジダーマ)の思想から起こった。その教義は大乗仏教の一般的教義と同じであるが、禅の目的は儀礼、経典の形式的なものを極力排除して、仏陀自身の根本精神を伝えようというところにある。そして禅においては、仏教の真髄を般若(ブラジュニヤ:智恵)と大悲(カルーナ)においた。
禅において重要なことは、その精神であり知識ではない。そのため修行して、その中から発見させる方法をとる。
修行の方法は、座禅が中心になる。臨済宗ではさらに座禅に際して、上記のような「公案」という問題が一人一人に与えられる。
この公案への回答をめぐって、師と弟子との間で従来の経験や知識を大きく超える、真剣なやり取りが行なわれる。
修行者は、その体験を通じて禅の精神を学ぶことになる。
この場合の禅の「モットー」は、「不立文字」(言葉にたよるな)ということであり、知識に頼らない方法がとられる。
そのため、その結果が常人の理解を超えたやり取りになることが多い。そのことから理解できない問答のことを「禅問答」という。
菩提達磨の禅宗を最初に日本にもたらしたのは、法相宗の始祖である道昭(629-700)あたりと思われる。そしてその後も、律宗や天台宗の僧が、禅宗の思想を日本に輸入している。
そのことから、栄西禅師が臨済宗を日本に齎すよりはるか前から、知識としての禅宗はわが国に齎されていたと思われる。
しかし禅宗が、本格的に勃興したのは鎌倉時代であり、明庵栄西(1141-1215)が建久2(1191)年に臨済宗を導入し、さらに、道元(1200−1253)が、安貞元(1227)年に曹洞宗を導入したことに始まるとされている。
●栄西 ―臨済宗の開祖
▲出自
栄西(ようさい)は、保延7(1141)年4月、備中国吉備津で古代から続く名家に生まれた。「元亨釈書」には「宮人」と書かれており、吉備津彦社の神主の家であったらしい。先祖は賀陽氏、母は田氏、14歳で髪を落として叡山戒壇に上り、天台密教の修行をした。
比叡山延暦寺では、有弁について天台教義を学んだ。有弁は、顕教の僧のようであり、栄西は密教のほかに、天台止観の業も修めるようになった。
仁安3(1168)年夏4月、28歳で入宋した。そこで前年に渡航していた重源に会い、ともに天台山、阿育王山などの名山・大寺を巡拝した。
栄西は天台宗の論疏60余部を集め、天台座主・明雲に贈っていることから、このときには正統の天台教義を学んでいたようである。
▲2度の入宋
禅については、明州で禅寺・広慧寺を訪ね、知客の僧から禅宗についての知識を得た。栄西は菩提達磨の伝法偈・死期偈の有無について質問したが、そこでの収穫が得られたようには見えない。
むしろ帰国後に、安然や最澄の著書により日本にも早くから禅思想が伝来していた事を知り、それで禅宗にたいする関心を高めたと思われる。
この段階では、栄西は禅宗よりむしろ密教に強い関心を持っていたようである。
栄西は、文治3(1187)年、2度目の入宋を果たす。そして臨済宗黄龍派の禅僧・懐敝に師事した。そして、ここにおいて密教にあわせて積極的に参禅も行なったようであるが、懐敝のもとでの修行の詳細は分らない。
栄西が、2度目の入宋を果たした頃から、日本国内では、畿内で大日房能忍という僧が攝津国水田三宝寺で禅法を広め、達磨宗を称し始めた。
能忍がどのようにして禅を修行したかは不明であるが、その弘法の初期から非難にさらされていた。
そこで能忍は、弟子2人を宋に派遣して、臨済宗で一派をなしていた拙菴徳光から文書による証明を得て布教を行なったが、達磨宗に対する叡山の反対運動もさらに盛んになった。
▲達磨宗の禁止と興禅護国論
当時、栄西は既に帰国していたが、筑前国箱崎に居住する良弁なる人物が、延暦寺に栄西のことを訴えでた。
そのため、延暦寺は朝廷に対して「入唐上人栄西・在京上人能忍」を達磨宗の開宗の風聞で訴え出て、建久5(1194)年7月5日の太政官宣旨により達磨宗の立宗が禁止されたと「百錬抄」は記している。
しかし他の史料にはその記載がなく、建久6(1195)年の誤りともいわれるが、ともかく達磨宗=禅宗を新しく立宗することへの禁止令が出された。
栄西は、「興禅護国論」の中で、達磨宗に対する当時の非難の原因について、「行無く、修無し。本より煩悩なく、元是れ菩提也。是の故に事戒を用ひ不、只応に偃臥を用ふべし。何ぞ念仏を修し舎利に供し長斎節食を労せん耶」(赤松俊秀「日本仏教史U中世篇,法蔵館、52頁」という達磨宗の主張を挙げている。
破戒、無戒が常態化していた当時の日本において、能忍は禅宗における座禅という形式のみを模倣したことから、これらの問題が生じたと思われる。
この弾圧を境に栄西は、著述により禅宗の理論を正しく伝えることを通じて、禅宗を盛んにしようという運動を始めた。
そこで書かれたのが「出家大綱」(初稿1195、完成1200)であり、この中で禅院における衣食・行儀などの戒律を述べた。
さらに3年後の建久9(1198)年に、「興禅護国論」が完成した。この書は10門からなり、その中で栄西は、参禅の戒律、禅宗の思想の根本である般若の精神など、禅宗が正法である根拠と末法克服のための正法実践の未来像までを詳述した。
この書において栄西は、「この禅宗は、不立文字、教外別伝なり。経文に滞らず、只だ心印を伝えて、文字を離れ、言語を亡じて、直に心源を指して、以って成仏せしむ」(第六典據増信門)と禅宗の本質を的確に述べており、いろいろな経典によりその正当性の証拠を論じている。
「興禅護国論」が完成した翌年、正治元(1199)年9月26日条の「吾妻鏡」は、鎌倉幕府が不動明王像の供養に栄西を導師として招いた記事を載せている。
この年の1月には将軍頼朝が死去し、将軍は若い頼家となり鎌倉幕府は創設以来の危機を迎えていた。この不動像供養に栄西を招いた主役がだれかは分らない。
▲建仁寺の建立と入寂
北条政子は故義朝の遺跡である亀ケ谷(かめがやつ)を栄西に寄付し、ここに寿福寺を建立した。また将軍・頼家からは京都五条以北、鴨河原以東の土地が施入されて、そこに宿願であった京都での禅寺が建立されることになった。これが建仁寺であり、建仁3(1203)年6月に宣旨で建立されることになった。
しかし当初の建仁寺は禅宗の寺院ではなく、真言・天台・禅の3宗が置かれ、比叡山の末寺として建立されることになった。
栄西は、建仁元(1206)年に東大寺大勧進重源が死去すると、後鳥羽上皇の信任により重源の後任となった。上皇は、さらに承元2(1208)年に落雷で焼失した法勝寺五重塔の再建を栄西に命じ、建暦3(1213)年4月に完成して、栄西は権僧正に任ぜられた。この年、栄西は入寂した。
これらを見ると、栄西は日本における禅宗の興隆のためにいろいろ手を尽くしてはいるものの、生前においては、禅宗そのものと栄西の活動が結び付けて評価されたようには見えない。
現在、我々は栄西といえば禅宗=臨済宗の開祖として評価しているが、その評価は、むしろ栄西の死後に形成されたように見える。
●道元 ―曹洞宗の開祖
▲出自
道元(1200-1253)は、道玄、希元ともいった。父は内大臣久我通親、母は摂政関白藤原(松殿)基房の娘であり、通親の子で歌人の堀河大納言通具に養われた。
また法然上人の弟子で、浄土宗西山派の祖となった善慧房証空の弟にあたる。
このように道元は、京都の由緒正しい貴族出身の家柄であった。
木曾義仲による略奪結婚の相手が、実は道元の母であったといわれている。また父の通親は、花山院の娘を妻としながら、平家全盛時代には清盛の姪を側室にし、平家が没落すると後白河法皇の寵愛の厚い丹後局の娘の別当として宮廷内で勢力を持つなど、女性にかかわる裏の策略家であった。
この両親により生を受けたことが、逆に道元の非常に潔癖な性格を形作ったと見られている。
3歳で父の通親に死別。8歳で母に死別したことから、世の無常を感じた道元は、13歳で叡山に上った。そして基房の子である叔父良観法印を訪ね、やがて横河の千光房に入った。翌建保元(1213)年天台座主・公円について剃髪得度し、仏法房と名乗った。この公円の下にいたのはわずか1年にすぎないが、大蔵経を2度も通読するなど、大変な勉学と修行をつんだといわれる。
しかし当時の叡山はもはや学問や修行の場ではなくなっていた。延暦寺と三井寺の間の権力闘争が激化した翌建保2(1214)年の春、道元は叡山を下りて、三井寺の公胤、鎌倉寿福寺の栄西のところを訪ねた。
当時の道元は、人間の生き方について悩んでいたといわれる。特に人間は本来、仏性をもつという天台宗の基本思想である「本覚思想」に疑問をいだいていた。
つまり人間が本来、仏性をもつならば、なぜ修行を続ける必要があるのか?ということである。
そこで次に、栄西の高弟で建仁寺にいた明全について禅を学んだ。明全は栄西の弟子であるから、道元は最初、黄龍派の臨済禅を学んだことになる。
▲入宋と曹洞宗の開宗
貞応2(1223)年3月、明全に従って入宋した。天童、育王(いおう)、径山(きんざん)などの諸寺をたずねて大恵派の禅を中心に修行を積み、悟りの直前までいっていた。そこでたまたま当代随一の禅僧といわれる如浄(にょじょう)が天童にいることを知って師事し、3年でその法を継いだ。
如浄に会った途端に、道元はこれこそ探し続けた正師であると思い、感激に打ち震えたという。また如浄も、道元がまれに見る非凡の大器であり、悟りの寸前にあることを感じた。そしてこの如浄から、道元は釈尊以来、祖師たちにより伝えられてきた「面授」により、悟りを開いたことが認証され、道元の入宋の目的はこれにより、ほぼ達成された。
如浄は、中国宋代における屈指の禅僧である。大陸禅の主流として中央で栄えていた臨済宗をつがず、貴族化されていない古風な曹洞宗の法を継いだ。
のちに杭州の浄慈寺や天童山に住したが、政治権力に近づくことを一切さけ、皇帝から紫衣を贈られたときにもそれをきっぱり拒絶し、いつも最下級の黒衣を着て、文様がついた袈裟などは終生つけなかったといわれる。
道元の天童山における座禅修行も終盤に差し掛かっていた宝暦3(1227)年の或る朝、1人の修行僧が疲労でふと眠ってしまった。これを如浄が大声で一喝したとき、道元はその大音声で悟りが開けたという。このとき道元は、「身心脱落」(しんじんだつらく)したと述べている。
安貞元(1227)年秋、道元は5年に及ぶ中国の旅を終わり帰国して建仁寺に入った。そこで臨済禅とは別の曹洞禅を新しく開宗し、この年、自分が伝える釈尊の正法においては、座禅を根本にするとして、「普勧座禅儀」を著わした。
この書は、道元帰国の第一声であると同時に、座禅を基本にする道元禅の独立宣言であり、日本曹洞宗の出発点になったといわれる。(今枝愛真「道元」NHKブック、74頁)
この道元の曹洞宗に対しては、早速、叡山の山門からの圧力が加えられた。比叡山の衆徒は大集会を開き、道元の住居を破壊し、道元を京都から追放する決議を行なった。丁度、その頃、宋の天童如浄が亡くなった。
その報をきいた道元は、「城邑聚落に住まず、国王大臣に近づかず、ただ深山幽谷におりて一箇半箇を接得して吾が宗をして断絶いたさしむことなかれ」という師の教えを実践するために、建仁寺を去り、深草極楽寺跡の別院安養院に閑居した。
この極楽寺は、平安時代の昌泰2(899)年に松殿家の祖先に当たる関白藤原基経の発願により創建された古寺である。
この安養院に僧俗門徒が各地から真の禅法を求めて参集するようになったために、これら門徒のために道元は「正法眼蔵弁道話」を著した。
この書は「正法眼蔵」の序章にあたるものであった。この頃、道元は只管打座(しかんたざ:ただひたすらに座禅を重ねることにより、自然に深い悟りの境地にはいる)という宗風を確立した。
天福元(1233)年、極楽寺の一部,観音導利院を中心に新しく興聖寺が建立された。これは道元が建てた最初の禅道場であり、くわしくは観音導利興聖宝林寺という。この僧堂では、宋朝風に正式の清規によって禅林生活が営まれ、座禅も宋そのものの広床の座禅が行なわれた。
▲正法眼蔵と弾圧
この頃から、道元のいろいろな著作も出はじめた。主著となる「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)の各巻も書き継がれ示された。これらにより道元の門弟も急速に増えたので、道元は興聖寺において厳しく弟子の教育にのぞみ、宋風の純粋禅の確立を目指した。
しかしこのことが叡山の僧徒たちのねたみを買い、寛元元(1243)年、興聖寺は彼らにより破壊されて、道元は京都から追放された。
京都から追放された道元は、興聖寺を弟子の詮慧に譲り、前に述べた大日能忍の流れを汲む「大日派」の弧雲懐奘などの門弟を受け入れ大教団となった。その道元教団は、寛元2(1244)年、越前志比庄(=福井県吉田郡永平寺町)の地頭・波多野義重が新しく建立した大仏寺に移った。
そして寛元4(1246)年6月に、その大仏寺は、吉祥山永平寺と改称された。
このもとの大仏寺は、もとは白山天台系の古刹であったと思われる。
道元は、宝治元(1247)年、執権北条時頼の招請により、突然7ヶ月間、鎌倉へ行った。その頃は、将軍九条頼経と執権時頼の間の勢力争いが終わり、北条政権が時頼の下でようやく安定期に入ったときであった。
丁度そのとき、波多野義重が鎌倉に出仕していたので、道元を招聘することになったと思われる。
鎌倉へ行った道元は、時頼の厚い帰依を受けて説法し、必要な菩薩戒を時頼に授けたが、帰山後は、たとえ「国王の宣命をかうむると雖も、また誓って当山を出ざることを」誓い、弟子とともに座禅弁道に励んだ。
道元は、その厳しい修行生活により、晩年の健康が害されていた。重病の道元は、釈尊が入滅に当たり最後に弟子に説いた先例にならい、遺誡「八大人覚」の巻を著した。そして建長5(1253)年7月、永平寺住職を懐奘に譲り、波多野義重の薦めに従って懐奘らを随伴して上洛し、高辻西洞院の俗弟子左金吾禅門覚念の邸に入って療病した。そしてこの年の8月28日夜、54歳で亡くなった。
このとき、京都では親鸞が多くの書状を送って各地の念仏者たちを励ましており、鎌倉では建長寺が建立され、北条時頼の庇護の下、蘭渓道隆による大陸禅が定着を始めていた。そして日蓮は、安房の小湊から鎌倉へ移り、南無妙法連華経の題目を唱えて末法からの救いを見出そうとしていた。
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