(4)新しい浄土教の成立 ―法然
鈴木大拙氏は「日本的霊性」において、「浄土信仰」は平安時代から鎌倉時代にかけて大きく変化したと述べられている。
浄土信仰の伝来はかなり古いが、平安時代までは外から加えられた浄土信仰であった。それが鎌倉時代には、浄土信仰が日本国の内側から発生した土着の浄土信仰に変わったと指摘されている。
鈴木氏は、この新しい浄土信仰の文学への反映が、「平家物語」であるとされる。
「平家物語」のような文学は、平安朝には存在しない文学であった。この指摘は、非常に鋭く、的確で、かつ面白いと思う。
鈴木氏の言葉を借りると、「鎌倉期の人々は、念仏称名し極楽往生を口にしても、彼らの意識の底に事実上動いていたものは、単なる伝統性に根ざしたものではないのである。法然出世の意味はここに求めなくてはならない」(前掲書、144頁)
つまり法然によって日本にはじめて新しい土着の浄土教が出来上がった。
●法然の出自
法然(1133−1212)は、浄土宗の開祖である。美作国(岡山県)久米南条稲岡に、地方官僚(=押領使)であった父・漆間時国と秦氏の母との間に生まれ、幼名を勢至丸といった。
8歳のとき、父・時国は源内武者定明に不意の夜襲を受けて、非業の死を遂げた。そのため勢至丸は武士の子であったが、父の遺言もあって仏門に入り、久安元(1145)年に12歳で比叡山に上った。
久安6(1150)年、叡山黒谷の叡空のもとに移り、法然房源空と名乗り、黒谷の別所の聖として求道の日を送るようになった。
法然は、この頃から優れた頭脳とひたむきの向学心により、「智恵第一の法然房」という名声を得るようになった。
保元元(1156)年、京都嵯峨の清涼寺に参籠し、その後、南都に留学して、一切経を5度読んだと言われるほどの勉学に打ち込んだ。
そのころの比叡山は、山を中心にする「山門派」と、三井寺を中心にする「寺門派」に勢力を2分した抗争が続き、「山門衆徒」と呼ばれる法師たちは武装して山上を闊歩するといった、堕落した状態に落ち込んでいた。
このような承安5(1175)年の春、法然は比叡山に見切りをつけて、西山の広谷、さらに東山吉水に居を移して自ら浄土宗を開き、本格的に専修念仏の道を歩み始めた。
法然、42歳のことである。その前年には、後白河法皇が平清盛など平家一門とともに厳島神社に参詣されており、平家の全盛時代のころであった。
●法然、叡山を去る −観経と遊蓮房円照
法然が比叡山を去るにいたる直接的な契機は、唐の善導が書いた「観無量寿経」(=「浄土三部経」の一つで「観経」ともいう)の注釈書である「観経疏」(かんぎょうしょ)を読んだことにあるといわれている。
この注釈書において善導が特に強調していることは、「凡愚の救い」ということであった。
観経において、シャカは王妃イダイケを心神劣弱な凡愚な女と決め付けているが、善導は、これに輔筆して凡愚なイダイケの行動は、吾が児アジャセを生み育てた過程における「母親の身勝手さ」からくるものとして、このような凡愚な女だからこそ、アミダブツの慈悲の光りはいよいよ強く照射されると考える。
ここからいえることは、下品下生(げぼんげしょう)のものに高次な修行を積ませることは不可能に近いということである。
そのようなものも、ただひたすらにアミダブツの名前を唱えれば、アミダブツは必ず救いの手を差し伸べてくださる。専修念仏への帰入とはまさにそのことである。
比叡山を降りた法然は、西山の広谷で遊蓮房円照に会った。
遊蓮房は、保元・平治の乱で重要な役割を果たした少納言信西の息子であり、ずば抜けた秀才であったといわれる。遊蓮房は、権力政治の中枢の修羅場で見てきた人間悪を法然に語った。この言葉が、法然に大きな衝撃を与えたといわれる。
遊蓮房は法然にいう。
「念仏の功を積んで、ご自分1人だけが生死を離れるのでは、それは真の救いとはなりますまい。1人でも多くに念仏を広めることです。
他人を救うことによって自分も救われる。これが大乗仏教の精神ではないでしょうか」(伊藤唯真「浄土宗・時宗」日本の仏教3、小学館、124頁)
不治の病におかされていた遊蓮房は、37歳の若さで亡くなり、遊蓮房に啓発された法然は、西山広谷の隠棲の地を出て東山大谷に居を移し、本格的に念仏教化の道を歩み始める。
●九条兼実の要請 ―「選択本願念仏集」の誕生
法然による念仏教化は、上は皇族や関白・九条兼実などの貴族たちから、下は賎民や悪党にいたるまで、差別をしないで行なわれた。
それは、平清盛に取り入って出世し、「大福長者」と呼ばれた大納言・邦綱などまでが、臨終に際して法然を頼ったことを見ても、その念仏教化の広さが分る。
また一の谷の合戦に破れ、処刑のため鎌倉へ送られることになった平重衡は、法然に会いたいと願い出た。平重衡は、南都を焼いたことにより、五逆罪に相当する「仏敵」である。しかし法然は重衡に会って、諄々と「仏の誓願」を説いた。
それに感謝した重衡は、清盛が宗の皇帝から贈られた硯を法然に贈って感謝したといわれる。それが「平家物語」の描く「戒文」のくだりである。
九条兼実(1149−1207)は、源頼朝の信任を得て摂政・関白をつとめた宮廷政治の中枢を占めた人物である。16歳で内大臣、18歳で右大臣、38歳で摂政、41歳には太政大臣になり、貴族政治の頂点を極めた。
兼実は、早くから法然の専修念仏に心を寄せていたが、建久7(1196)年、源通親の策謀により失脚させられた。
この政変を境に、九条兼実は政治の表舞台から去って仏門に入り、2度と政治の世界には戻らなかった。
その政治に代えて、兼実は法然に専修念仏の理論体系をまとめる事を要請した。法然はその要請に応えて、有力門弟を動員してその作業にかかり、建久9(1198)年に出来上がったのが「選択本願念仏集」(せんちゃく ほんがん ねんぶつしゅう)である。
●「選択本願念仏集」とは? ―専修念仏の理論と実践
それは専修念仏の理論体系を明確にした名著であり、これにより専修念仏の活動が一挙に拡大する可能性が高まったといわれる。
「選択本願念仏集」は、その冒頭、「南無阿弥陀仏、往生の業には、念仏を先とす」という口承念仏の言葉から始まり、全体は16章から構成されている。
この書において、仏道修行は「聖道門」と「浄土門」の2つに分けている。
聖道門とは、従来行なわれてきた「難行」により往生を達成する「難行門」である。しかし当今の末法の世では、普通の人々にはもはやこの難行により、往生を達成することは出来ない。
しかしこのような世に生きる衆生でも、命終わるときに、称名念仏を唱える事により往生が達成できることを示したのが、この「浄土門」である。
表題の「選択」(せんちゃく)とは、諸行を捨てて念仏を選びとるという意味である。この専修念仏の選択は、単に法然の「選択」ではなく、アミダ仏、シャカ仏、さらには、十方恒沙(無数)の仏による選択であることを本書は示す。
しかし本来の仏教の修行は難行であり、このような易行の「選択」など、あるわけがない、と在来の仏教によって立つ人々は考えた。
「南無阿弥陀仏」と称名念仏を行なうだけで極楽往生ができるとする法然の理論は、在来仏教からすれば、まさに革命的であり非常に危険な理論として受け取られたと思われる。
そこで「選択集」の最後には、九条兼実公の要請で念仏の要義を述べている。
そのご趣旨は、法然は自分の非力を慙愧のきわみとし、本書の読後は、壁の底に埋めて窓際などに置かないでほしいと、本書の扱いかたを記している。
しかし最後には、「恐らくは破法の人(=専修念仏以外の人?)をして悪道に堕せしまん事を」という挑戦的な言葉で結ばれている。
「破法の人」とは、口に念仏を唱えれば妻帯肉食しても極楽往生できるとする念仏者か? それとも難行をしなければ極楽往生はできないとして普通の人々に無理を押し付ける聖道門なのか? 大難題が提起された。
●「選択集」への反応
法然の専修念仏集団は、政治的秘密結社ではないか?大体、僧職にあるものに妻帯や肉食を許すということは信じられない堕落である、という非難が満ち溢れたことと思われる。
そのため「念仏集」が世に出た翌年の正治2(1200)年5月に鎌倉幕府は念仏を禁じ、念仏僧の袈裟を焼いた。それ以降、念仏の禁令が何度も出されることになる。
元久元(1204)年10月、延暦寺の衆徒は、専修念仏の停止を天台座主・真性に訴えた。法然は既に山を下りて在野の聖になっていたとしても、天台沙弥の身分は生きており、僧尼令では法然は立派に有資格の僧である。
18年前の文治2(1186)年、法然は第61世天台座主顕真の面前で、比叡山の学生たちと専修念仏が仏法として邪心であるかどうかの大討論を行い、参加した僧たちに大きな感銘を与えていた。それは「大原談義」として歴史に残る記録になっているのである。
このような状況を受けて、法然は、元久元(1204)年の11月、「選択集」の軽率な流布による過激な行動に出る聖たちをいましめるために、7か条の「制戒文」を出した。
この法然の制戒に署名した法然の門弟の数は190名に上り、在京の門弟のみならず、京郊近国の門弟を網羅していた。(「京都の歴史」2、304頁)
これにより叡山のほうは、一応治まったものの、翌元久2(1205)年10月には、南都の興福寺の衆徒が、法然を「仏法の怨敵」として「興福寺奏状」と呼ばれる念仏禁断の奏状を法然に送りつけてきた。
興福寺は、仏敵・重衡に救いの手をさしのべた法然に対して強い敵意をもっていた。
これが9か条に及ぶ奏状となり、ついには全国的に専修念仏を禁止し、法然と門弟の法本房行空、安楽房遵西、成覚房幸西、住蓮房などの名前を挙げて罪科に処するよう、朝廷に強訴した。
この奏状をもった興福寺の代表は、建永元(1206)年2月、摂政の九条良経に面会を申し入れたが、良経は会わなかった。
良経は、九条兼実の子であり、法然には同情的であったが、その良経が翌月に急死してしまう。その急死には殺害説が有力であるが、真相は分らない。
また前述の華厳宗・明恵上人も「摧邪輪」を著して、その中で法然のことを「近代法滅の主」といっており、法然の専修念仏に対する反感は、律令八宗同心による弾劾にまで発展していた。
●専修念仏の弾圧―法然の法難
専修念仏の弾圧のうらには、前記の承久の乱にいたる朝廷・公家勢力の一部と、「西面(ここでは北面ではない)の武士」といわれる武士集団の一部との勢力争いがあったといわれる。
そのために鎌倉武士と深く通じていた、法然の高弟の安楽房と住蓮房が槍玉に挙げられたとする説がある。(伊藤唯真氏「前掲書」144頁)
法然の法難にいたる事件の発端は、建永元(1206)年暮れの後鳥羽上皇の熊野行幸に始まる。その留守中に院の愛妃2人が、安楽、住蓮の主催する獅子谷(現在の法然院)の六時礼讃に参加して、そのまま出家して院の御所にもどらなかった。
これが事件の発火点となった。この愛妃2人は、鈴虫,松虫という少女であったり、坊門局や伊賀局であったりして定かではない。
伊賀局とは、上皇の寵愛の厚かった白拍子亀菊のことであり、承久の乱の発端になった亀菊事件にも登場してくる女性である。
六時礼讃とは、唐の善導が作ったといわれる阿弥陀仏をはじめ浄土の諸菩薩を礼讃する詩韻である。
安楽、住蓮は美僧として知られる上に、音楽の才にも恵まれており、これらの詩韻にメロディーを付して高唱し、信者たちは夜がふけるのも忘れたといわれる。
熊野から帰った後鳥羽上皇は、烈火のごとく怒った。そして安楽、住蓮を逮捕し、さらに、それは法然を含めた専修念仏者の逮捕にまで拡大した。
藤原定家の日記の「明月記」をよく見ると、この建永元年の上皇の熊野詣は、念仏宗を陥れるためのからくりであった疑いが強い。
本当に上皇が熊野までいかれたかどうかも怪しく、安楽、住蓮の「女犯」は全くの濡れ衣であり、専修念仏の法然上人とその一派を陥れる策略であった可能性が強いといわれる。(伊藤氏「前掲書」144-148頁)
「明月記」の建永2(1207)年2月9日条には、逮捕された専修念仏の徒に対する拷問の事実が伝えられている。
この事件では、法然の弟子の安楽房遵西、住蓮房、西意善綽房、性願房という4人が死罪=斬首?になっているが、彼らの罪科は不明であり、必ずしも全員が六時礼讃の事件と直接関係があるわけではない。
法難は広範囲に及び、法然は土佐へ流刑、そのほかに多数の弟子が追放になった。法然の土佐流刑は、その後、九条兼実の斡旋によりその領地の讃岐塩飽島に改められた。このとき親鸞も一緒に流刑にされている。
法然は、承元3(1209)年、許されて摂津の勝尾寺に入り、さらに建暦元(1211)年に許されて帰京し、翌年建暦2(1212)年1月25日、入寂に際しては、弟子の勢観房源智の懇望にこたえて「一枚起請文」を与えたとされる。
そこには、「極楽往生のためには、南無阿弥陀仏と申せば、うたがいなく往生するぞと思とりて、申外には別の子細候はず。・・・ただ一向に念仏すべし」と、専修念仏の信念は全く変わらないままの結語となっている。
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