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日本人の思想とこころ
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  (3)平安京遷都

●平安京の建都
 延暦10(791)年9月17日、平城京の諸門を壊し、長岡京へ移建が行なわれ、造都の工事は急ピッチで進められていた。
 長岡京は、その発掘が行なわれるまでは、工事の初期に殆ど未完成なままで廃都に追い込まれたと思われていた。しかし実際に長岡京の発掘が進んでいくと、殆ど完成に近い状態までいって中断された、と思われるように変わってきている。
 長岡京の造都の中断が決定したのは、延暦12(793)年の春と思われており、着工から僅か7年後である。その間に工事は予想以上に進行していたようである。

 しかしこれから述べる平安京の造都の方は、延暦12(793)年に着工して、12年後の延暦24(808)年に造宮職が廃止されるまで続いていても、なお未完成なままで中断されている
 この違いは、平安京の造都の段階においては、国家財政が非常に苦しくなっており、工事のスピードも非常に落ちてきていた事を示している。

 その平安京への遷都の計画は、延暦11(792)年正月から始まった。
 ここで桓武天皇は、平安京の候補地である葛野郡に初めて行幸された。行幸は、その後、5月、9月、11月と続くことになる。この行幸は、和氣清麻呂の進言によるものと言われているが、このように天皇の行幸が繰り返されることは、遷都に対する天皇の自信が失われている事を示すように、私には思われるのである
 この天皇の行幸の後、「崇道天皇の祟り」や洪水などの天災は、さらにその激しさを増しており、それは図表-1からも分る。

 その状況を受けて、延暦12(793)年1月15日、はじめて遷都の土地を調べるために、大納言・藤原小黒麻呂、左大弁・紀古佐美らが、葛野(かどの)郡宇太村に遣わされた。
 そして、3月1日に桓武天皇が、新京の地を巡覧し、10日には伊勢神宮に遷都の報告が行なわれた。この調査が終わると、直ちに長岡宮の解体が始まった。この状況を見ると、平安京への遷都を、いかに急いでいるかが分る。

 延暦13(794)年6月には、平安京の設備が整い、諸国の人夫5千人が集められた。新宮の清掃が行なわれ、7月には東西市が移った。そして10月22日に平安京への遷都が正式に行われた。
 この日の干支は、「辛酉」つまり「易姓革命」の日に当たっており、桓武天皇の「革命」へのこだわりは、依然として変わっていない。
 遷都の詔には、「葛野の大宮の地は、山川が麗しく、四方の国の人々が上京する便がよくなった、云々」と述べられている。

 さらに延暦13(794)年11月8日の有名な詔では、次のように述べられている。
 「この国は山河襟帯、自然に城をなす。この形勝によりて、新号を制すべし。よろしく山脊国を改めて山城国となすべし。また子来の民(=喜んで集まってくる民)、謳歌の輩、異口同辞して、号して平安京という。」  従来の政治の中心地である大和地方からは、「山脊国」、つまり山の裏側といわれていた新しい京城が「自然の城」=「山城」になり、新京は「平安京」と呼ばれることになった

 平安京の造都は、財政難からなかなかはかどらなかったようである。延暦13年の正月は、長岡京の宮殿解体のため朝賀の儀ができず、延暦14(795)年の正月も、大極殿が未完成で朝賀の儀ができなかった。そして延暦15(796)年の正月になり、ようやく大極殿が出来上がって、朝賀の儀ができたが、豊楽殿は仮殿のままであり、延暦19(800)年までかかってようやく完成するという遅々たる進行状況であった。その上、延暦17,18年には、平安京は暴風で町の中の家屋が多数壊れるという大きな被害を出していた。

 さらに、この頃になると、平安京の造都の責任者たちが、老齢のため次々に亡くなり始めていた
 初代 造宮長官の藤原小黒麻呂は、遷都の儀を見ることなく、延暦13年7月に63歳で亡くなり、その後に続く藤原継縄も3年後に死去する。
 紀古佐美が代わるが、これも高齢であり、延暦16年4月に死去する。
 さらに大きな打撃になったのは、延暦15年に造宮大夫(=長官)となり平安建都を支えていた和氣清麻呂が、延暦18(799)年2月21日に死去したことであった。この清麻呂の死により、平安京の造営事業は一つの時代を終わる

●徳政相論 ―造都の中止を決めた御前会議
 ここで再び文章博士・三善清行に登場していただく。彼は延喜14(914)年、醍醐天皇の求めに応じて日本の歴史的な国家政策について、厳しい政策批判を「意見十二か条」の中で展開している。
 そこでは、奈良時代の聖武天皇による造寺、造仏、そして遷都により、国家歳入の2分の1が失われたと述べているが、平安時代の桓武天皇については、さらに厳しい政策批判を展開している

 「桓武天皇にいたりて、都を長岡に遷したまうに、製作すでに終わりて、更に上都を求む。再び大極殿をつくり、新たに豊楽院を構う。またその宮殿楼閣、百官の曹庁(=官僚の詰め所、執務所)、親王・公主の邸宅、后妃嬪御の宮館、皆土木の巧を極め、ことごとく調庸の用を賦す。ここに天下に費、五分にして三。」(出典:日本思想体系「古代政治社会思想」岩波書店、所収)

 つまり聖武天皇のときには国家財政において、歳入の半分が造寺、造仏に使われてしまったが、桓武天皇においては、さらに歳入の5分の3が「遷都と軍事」に費消されてしまった、と述べている。
 桓武天皇の晩年には、国家財政はもはやどうしようもなく悪化していた。そのことはこの段階において、天皇をはじめ、誰にもわかっていたと思われる。

 桓武天皇が亡くなる直前の延暦24(805)年12月7日、天皇の御前会議において、平安京の造都を続行すべきかどうかの大議論が行なわれた。それが「徳政相論」である。
 この日、中納言近衛大将・藤原内麻呂(=造宮長官)に勅命が下り、参議右衛士督・藤原緒継と左大弁・菅野真道(=造宮次官)との間で、「天下の徳政」が議論されることになった。

 藤原緒継の意見は、「方今、天下の苦しむところは軍事と造作となり。この両事を停むれば、百姓安んぜん」というもの、つまり膨大なお金のかかる「軍事と造都」を止めてしまえ!ということである。
 これに対して造宮次官の菅野真道は造宮続行派、つまり「異議を確執し、肯んじて聴かず」といわれるガチガチの抵抗勢力であった。(ここらの状況は、そのまま現代に通じる!)

 そこで造宮次官・菅野真道は、頑強に造都の続行を主張したと思われる。しかし桓武天皇は、緒継の意見を採用し、造都の停止を決定し、2日後には造宮職は廃止されたここに長く続いてきた長岡京・平安京の造都は終わりを告げた。そして桓武天皇は、それから3ヵ月後に崩御された!
 有識者は、この天皇の決断に感嘆したといわれるが、桓武天皇自身、もはや造都の続行が不可能であることは、既に十分に分っていたと私には思われる。

 藤原緒継は、藤原百川の子である。桓武朝の中期には、藤原氏の勢力はむしろ弱体であった。その中で、緒継は異例の昇進を重ね、桓武天皇の晩年の延暦21年6月には、29歳という若さで参議に列せられた。
 この「徳政相論」において、桓武天皇が藤原緒継の立場を支持したことは、天皇自身が行なってきた政治の根幹を否定することになる。しかし、あえて桓武天皇は自己否定を選択された。(終戦の前の昭和天皇か?)

 翌延暦25年2月3日、廃止された造宮職は、木工寮に吸収された。この年の3月15日、桓武天皇は危篤に陥った。そこで最後の勅が出されて、種継事件に連座した人々の名誉の復活が行なわれた。
 そして早良親王の霊をなぐさめるために、諸国国分寺において春秋の2回、金剛般若経の読経が命じられた。これにより桓武天皇は、怨霊と造都、そしてここでは触れなかった蝦夷征伐の軍事から開放されて逝去された。




 
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